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恵の物語  作者: リンダ


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札幌へ

『恵の物語』

 第45話 札幌へ


 旅立ちの朝。


 カフェ雪の窓には、まだ薄い朝もやが残っていた。


 上川の春は遅い。

 道端には雪が残り、空気には冬の名残がある。


 けれど、カフェの中だけは、いつものように温かかった。


 雪は、朝早くから台所に立っていた。


 焼き鮭。

 卵焼き。

 味噌汁。

 炊きたてのご飯。

 小鉢の漬物。

 そして、恵の好きなコーヒー。


 恵はテーブルに座り、湯気の立つ味噌汁を見つめていた。


「……今日の朝ごはん、豪華だべ」


 雪は笑った。


「旅立ちの日だからね」


 恵は箸を持つ。


 でも、なかなか食べ始められなかった。


 オリンピックにも行った。

 ワールドカップで世界中を飛び回った。

 海外遠征も何度も経験した。


 それでも、今日だけは違った。


 今日は、帰ってくる前提の遠征ではない。


 家を出る日。


 札幌で暮らし始める日。


 恵は、少しだけ背筋を伸ばした。


「お母さん」


 雪の手が止まった。


 いつもなら、恵は「母ちゃん」と呼ぶ。


 だから、その呼び方だけで、雪には分かった。


 今日が、特別な朝なのだと。


 恵は、まっすぐ雪を見た。


「ありがとう」


 雪は、何も言わなかった。


 恵は続ける。


「ここまで育ててくれて、ありがとう。ジャンプ続けさせてくれて、ありがとう。怪我した時も、リハビリの時も、遠征の時も、ずっと支えてくれて……ほんとに、ありがとうだべ」


 雪の目に、静かに涙が浮かぶ。


 恵も笑おうとしたが、うまく笑えなかった。


「札幌行っても、また休みには帰ってくるべ。カフェ雪のコーヒー飲みに帰ってくるし、母ちゃんの味噌汁も食べに帰ってくる」


 雪は頷いた。


「うん」


 そして、少しだけ笑った。


「いつでも帰っておいで。ここは、めぐの家だから」


 恵は小さく頷いた。


「んだ」


 二人は、ゆっくり朝食を食べた。


 いつもの味。


 でも、今日だけは、少し特別な味がした。


 上川駅。


 ホームには、地元の人たちが集まっていた。


 カフェ雪の常連客。

 祖父母たち。

 海斗。

 寄子。

 コスキネン。

 ジャンプ台の関係者。

 そして、光希の両親。


 光希も、大きな荷物を持ってホームに立っていた。


「恵」


「ん」


「いよいよだべな」


「んだな」


 二人は、少し照れくさそうに笑った。


 光希の母が、光希のコートの襟元を直す。


「札幌行っても、ちゃんと食べるんだよ」


 光希の父が言う。


「怪我だけはするな。競技も勉強も、焦らずやれ」


 光希は深く頭を下げた。


「うん。頑張ってくる」


 父は、短く言った。


「頑張ってきなさい」


 その声には、寂しさと誇らしさが混じっていた。


 やがて、特急オホーツクがホームへ滑り込んできた。


 エンジン音が、駅に響く。


 恵は、その音を聞きながら、ふとこれまでのことを思い出した。


 怪我をした日。

 車いすで学校に通った日。

 復帰戦で飛んだ日。

 リレハンメルで金メダルを取った日。

 蔵王で最長不倒を記録した日。

 旭川東高校の教室で笑った日。


 全部が、背中を押していた。


 雪が、恵の手を握った。


「めぐ」


「ん?」


「行っておいで」


 恵は、雪を抱きしめた。


「行ってくるべ」


 ほんの少しだけ、長い抱擁だった。


 恵は体を離すと、笑って言った。


「母ちゃん、泣きすぎたらコーヒーしょっぱくなるべ」


 雪は涙を拭きながら笑った。


「ばか。もう泣いてるから遅いよ」


 恵と光希は、列車に乗り込んだ。


 座席に荷物を置き、窓際に座る。


 ホームには、見送りの人たち。


 雪。

 光希の両親。

 海斗。

 寄子。

 コスキネン。


 コスキネンが大きく手を振る。


「札幌でも、ちゃんと見るべー!」


 海斗が続ける。


「練習をサボるな!」


 寄子が笑う。


「でも、ちゃんと寝なさい!」


 恵は窓越しに笑った。


「注文多すぎるべ!」


 ドアが閉まる。


 発車ベル。


 エンジン音が低く響く。


 列車が、ゆっくり動き出す。


 ホームが少しずつ後ろへ流れていく。


 雪は、最後まで手を振っていた。


 恵も、見えなくなるまで手を振り続けた。


 特急オホーツクは、札幌へ向けて走り出した。


 上川が、少しずつ遠ざかっていく。


 その日の夕方。


 カフェ雪。


 いつもより、家の中が広く感じた。


 恵の使っていたマグカップ。

 椅子。

 階段の音。

 二階の部屋。


 何も消えたわけではないのに、音だけが減っていた。


 雪は、ゆっくり仏壇の前に座った。


 層一の遺影が、いつものように優しく笑っている。


 雪は、そっと話しかけた。


「そうちゃん」


 静かな声だった。


「恵が今日、札幌に向かって旅立っていったよ」


 少し笑う。


「恵も、いつの間にか大きくなって、もう一人立ちする歳になったんやね」


 言葉にした途端、胸の奥がきゅっとした。


 寂しい。


 でも、嬉しい。


 その二つは、喧嘩せずに同じ場所にあった。


 雪は、昨夜のことを思い出した。


 寝る前、恵が部屋の入口に立っていた。


 少し照れたような顔で。


「母ちゃん」


「ん?」


「今日は……一緒に寝てもいいべ?」


 雪は一瞬驚いて、それから笑った。


「いいよ。一緒に寝よっか」


 布団に入ると、恵は子どもの頃みたいに少しだけ雪の方へ寄ってきた。


 昔は、小さな体で雪の腕の中にすっぽり収まっていた。

 今はもう、世界で戦う大人に近い娘。


 でも、寝息だけは、幼い頃と少し似ていた。


 雪は、恵の髪をそっと撫でた。


「大きくなったね」


 恵は目を閉じたまま、小さく言った。


「まだ母ちゃんの子だべ」


 その一言で、雪は泣きそうになった。


 仏壇の前で、雪は層一の遺影を見つめた。


「そうちゃん。寂しいね」


 少し間を置いて、続ける。


「でも、嬉しいね」


 カフェ雪の中は静かだった。


 けれど、その静けさは空っぽではなかった。


 恵が残していった時間が、ちゃんとそこにあった。


 笑い声。

 コーヒーの香り。

 朝ごはんの湯気。

 ジャンプの映像を見ながら騒いだ夜。

 親子で眠った最後の夜。


 雪はそっと微笑んだ。


「帰ってくる場所、守っとこうね」


 層一の遺影が、優しく頷いた気がした。


 一方、特急オホーツクの車内。


 恵は窓の外を見ていた。


 夕暮れの北海道が流れていく。


 光希が隣で言う。


「泣いたべか?」


 恵は少し鼻をすすった。


「泣いてないべ」


「声、泣いてるべ」


「うるさいべ」


 光希は笑った。


 恵も、少し笑った。


 胸元の鈴が、ちりんと鳴る。


「札幌、行くべな」


「んだ」


「でも、上川には帰るべ」


「んだ。帰る場所があるから、遠くへ行けるんだべ」


 恵は、窓に映る自分の顔を見た。


 少し泣きそうで、少し笑っている顔。


 それでも目は、前を見ていた。


 列車は、札幌へ向かって走っていく。


 恵の新しい物語が、静かに始まろうとしていた。


 次回予告


 札幌での新生活が始まる。


 大学の入学式。

 スポーツ科学部の講義。

 初めての一人暮らし。

 慣れない街、慣れない部屋、慣れない朝。


 競技と勉強を両立する難しさに、恵は早くも戸惑う。


 一方、光希もノルディック複合の強化練習と大学生活の両立に苦戦。


 それでも二人は、上川で学んだ言葉を思い出す。


 見る。

 拾う。

 返す。


 次回、

 第16話 札幌の朝


 新しい街にも、風は吹いている。

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