卒業
『恵の物語』
第14話 卒業
旭川東高校の体育館には、まだ冬の冷たさが残っていた。
けれど、壇上に並んだ花だけは、確かに春の色をしていた。
卒業式。
恵は、制服の襟元をそっと整えた。
この制服を着るのも、今日が最後。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっとした。
オリンピックに出た。
ワールドカップで何度も優勝した。
蔵王ではバッケンレコードも、最長不倒も出した。
けれど、今いちばん胸に込み上げてくるのは、表彰台の景色ではなかった。
教室で友達と弁当を食べたこと。
遠征帰りに机の中へ入っていたメモ。
「数学忘れるな」と黒板に書かれたこと。
ノルウェー土産の魚味スナックで、クラス中が微妙な顔になったこと。
忙しい合間に、わいわい笑った時間。
それが、何より大切だった。
卒業証書を受け取る時、恵はまっすぐ前を見た。
「上川恵」
名前を呼ばれる。
「はい」
返事は、いつもより少しだけ震えた。
壇上へ上がる。
証書を受け取る。
頭を下げる。
その一瞬、胸元の鈴が、ちりんと鳴った気がした。
⸻
式が終わると、教室では最後のホームルームが始まった。
担任の先生が、少し涙ぐみながら言った。
「上川さんは、世界で戦いながら、この教室にもちゃんと戻ってきてくれました」
恵は照れくさそうに下を向く。
「遠征でいない日も多かったけれど、あなたの席はいつもここにありました」
クラスメイトたちは静かに聞いていた。
先生は、教室の後ろに飾られていた応援旗を見た。
最後まで見ろ。風は味方だ。
その旗には、さらに寄せ書きが増えていた。
「札幌でも頑張れ」
「世界の風、また見てこい」
「カフェ雪にも遊びに行く」
「数学から逃げるな」
「親指ポーズ忘れるな」
恵は笑いながら、少し泣いた。
「最後まで数学から逃がしてくれないべ……」
友達が言う。
「そこがうちらの愛情だから」
「重たい愛情だべ」
教室が笑いに包まれる。
⸻
外へ出ると、卒業生たちが校舎前で記念撮影を始めていた。
恵も友達に引っ張られる。
「恵、真ん中!」
「いや、目立つべ」
「世界女王が何言ってんの」
「今日は卒業生だべ!」
でも結局、真ん中に立たされた。
応援旗を広げる。
友達が両側に並ぶ。
担任の先生も入る。
雪も少し離れた場所で、目を細めながら見ていた。
「はい、撮るよー!」
シャッター音。
笑顔。
もう一枚。
変顔。
さらに一枚。
親指ポーズ。
恵は最後に、みんなと一緒に親指を立てた。
「これ、卒アルに載ったらどうするべ」
友達が即答する。
「伝説になる」
「やめれ」
でも、恵は笑っていた。
⸻
校門を出る前、恵は一度振り返った。
旭川東高校。
三年間通った場所。
遠征でいない日も多かった。
でも、この学校は、恵にとってちゃんと帰る場所だった。
「ありがとうだべ」
小さく呟いた。
雪が隣に立つ。
「行こうか」
「ん」
二人は車に乗り、上川へ向かった。
道路の両脇には、まだ雪が残っている。
でも、空は春だった。
⸻
上川へ戻ると、カフェ雪の前には人が集まっていた。
地元の人たち。
常連客。
上川の祖父母。
生田家の祖父母。
海斗、寄子、コスキネン。
そして、光希。
入口には手書きの看板。
恵ちゃん・光希くん 卒業おめでとうパーティ
恵は車を降りて、目を丸くした。
「……何だべ、これ」
雪が笑う。
「内緒で準備してたの」
光希が照れたように手を上げる。
「卒業おめでとうだべ」
恵は少しだけ口を尖らせる。
「光希も卒業だべさ」
「んだな」
二人は顔を見合わせて笑った。
カフェ雪の中は、いつも以上に賑やかだった。
テーブルには料理が並んでいる。
ザンギ。
じゃがバター。
サンドイッチ。
雪特製のケーキ。
そして、なぜかノルウェー風の茶色いチーズまで置いてある。
恵がそれを見て固まる。
「母ちゃん、これ仕入れたべか」
雪が楽しそうに言う。
「卒業記念に」
コスキネンが真顔で言う。
「三口目からおいしいべ」
海斗
「また二杯目理論か」
寄子
「今度は三口目理論ね」
恵
「理論が増えすぎだべ」
店内は笑いに包まれた。
⸻
乾杯の時間。
雪がカップを持った。
「恵、光希くん。卒業おめでとう」
みんなが拍手する。
雪は少しだけ声を詰まらせながら続けた。
「めぐが高校に入った時は、こんなに世界を飛び回るなんて、分かっていたようで、やっぱり分かっていませんでした」
恵は黙って母を見る。
「嬉しいことも、怖いことも、忙しいこともたくさんあったけど、今日こうして卒業の日を迎えられて、本当によかった」
雪は光希にも微笑む。
「光希くんも、これから札幌でめぐと一緒に頑張ってね」
光希は深く頭を下げた。
「はい。頑張ります」
恵は少し照れながら言う。
「母ちゃん、泣かせに来るべな」
雪は笑った。
「卒業式だからね」
コスキネンがカップを上げた。
「二人とも、卒業おめでとうだべ。札幌でも、ちゃんと見るべ」
海斗も言う。
「競技も勉強も、手を抜くな」
寄子が微笑む。
「でも、ちゃんと休んで、ちゃんと笑ってね」
光希が恵を見る。
「札幌、行くべな」
恵は頷いた。
「んだ。行くべ」
⸻
パーティの後半。
カフェ雪の小さなテレビに、旭川東高校のクラスメイトからのビデオメッセージが流れた。
「恵、卒業おめでとう!」
「札幌でも頑張れ!」
「世界で勝っても、たまには連絡しろよ!」
「お土産は魚味スナック以外で!」
「数学から逃げるな!」
最後の一言で、店内が爆笑する。
恵は顔を覆う。
「どこまで追いかけてくるべ、数学」
光希が笑う。
「札幌でも追ってくるべ」
「やめれ」
映像の最後には、応援旗が映った。
最後まで見ろ。風は味方だ。
その文字を見た瞬間、恵は静かになった。
高校生活が終わる。
制服の時間が終わる。
でも、背中を押してくれる人たちは、これからもいる。
上川。
旭川東。
カフェ雪。
母の雪。
父・層一の記憶。
光希。
海斗、寄子、コスキネン。
友達。
恵は一人で飛んでいるわけではなかった。
⸻
夜。
パーティが終わり、店内が少し静かになった頃。
恵は仏壇の前に座った。
層一の遺影が、いつものように優しく笑っている。
恵は卒業証書をそっと見せた。
「お父さん、卒業したべ」
少し笑う。
「オリンピックとか、ワールドカップとか、いろいろあったけどさ」
一拍置く。
「高校生活、楽しかったべ」
雪が少し離れたところで見守っていた。
恵は続ける。
「次は札幌だべ。スポーツ科学、ちゃんと学んでくる」
胸元の鈴が、ちりんと鳴った。
「まだまだ、飛ぶべさ」
遺影の層一が、少し誇らしそうに笑った気がした。
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次回予告
高校を卒業した恵と光希。
二人は札幌の国公立大学・スポーツ科学部へ進学する。
上川を離れる日。
カフェ雪の朝。
雪の作った朝食。
荷物を積んだ車。
駅前で見送る地元の人々。
寂しさと期待を胸に、恵は新しい街へ向かう。
次回、
第15話 札幌へ
帰る場所があるから、人は遠くへ行ける。




