最後まで見る
『恵の物語』
第40話 最後まで見る
ノルウェーの空は、試技の時よりさらに荒れていた。
風が音を立てて、ジャンプ台の横を抜けていく。
雪は細かく、時折、視界を白く塗りつぶす。
旗は一定方向に流れず、上と下で違う動きをしていた。
会場全体が、少し緊張している。
経験豊富なベテランでさえ、表情が硬い。
実況席の声にも力が入る。
「ワールドカップ最終戦、女子ジャンプ。非常に難しいコンディションとなりました。風は安定しません。上空と着地斜面でまったく違う動きをしています」
解説者が続ける。
「こういう日は、フォームの完成度だけでは足りません。空中で風をどう感じるか。そこが勝負になります」
恵は待機エリアで、前の選手たちを見ていた。
世界中が恵を研究している。
それは、見れば分かった。
踏切りで押しすぎない。
空中で腰を残す。
背中で風を待つ。
腕を開きすぎない。
恵が積み上げてきた“新しい飛び”を、ライバルたちは確かに取り入れている。
フィンランドの選手。
スウェーデンの若手。
オーストリアのベテラン。
カナダの新鋭。
みんな、恵に似た形で飛ぼうとしていた。
高田空が小さく言った。
「みんな、恵に似てきたね」
恵は頷いた。
「んだ」
早川美澄が心配そうに見る。
「嫌じゃない?」
恵は少し笑った。
「嫌ではないべ。真似されるってことは、見られてるってことだべ」
北野紗英が言う。
「でも、怖くない?」
恵はジャンプ台を見上げた。
「怖くないわけないべ。でも、形だけなら追いつかれてもいい」
「形だけなら?」
「うちは、風の返しまで真似できるとは思ってないべ」
その言葉に、周囲が少し黙った。
恵は、前の選手のジャンプを見る。
その選手は綺麗な空中姿勢を作った。
確かに恵に似ている。
だが、中腹で横風を受けた瞬間、腕の開きが固定されたままだった。
少しだけ流される。
着地はまとめたが、飛距離は伸びない。
恵は小さく呟いた。
「形は似てる。でも、返してないべ」
コスキネンが隣に立つ。
「見えてるべ」
「んだ。あれは風を待ってるんじゃなくて、待ってる形を作ってるだけだべ」
海斗が言う。
「その違いが今日出る」
寄子が静かに頷く。
「最後まで見る日だね」
⸻
一本目。
風は、直前まで落ち着かなかった。
一人、また一人と飛ぶ。
飛距離は伸びない。
中には、恵に似たフォームで飛び出した選手もいた。
踏切りは柔らかく、空中姿勢もきれい。
だが、横から風が入った瞬間、対応が遅れる。
形を崩したくないから、動けない。
飛距離が止まる。
実況が言う。
「今季は上川恵選手の影響を受けた空中姿勢が増えていますが、今日は難しいですね」
解説者が答える。
「ええ。形だけでは対応できません。上川選手の強みは、空中で微妙に姿勢を変えている点です。映像では分かりにくいですが、風を受けて、体の傾きや腕の開き方をほんの少し変えています」
その頃、恵の番が近づいていた。
下から海斗の合図。
待て。
恵はスタートバーで動かない。
風が右へ流れる。
すぐに正面へ戻る。
また少し落ちる。
(一定じゃないべ)
胸の鈴が、ウェアの中で小さく鳴った気がした。
ちりん。
(見る。拾う。返す)
青信号。
海斗の手が動く。
行け。
恵はバーを押した。
助走。
音が硬い。
けれど昨日より少し軽い。
踏切り台が近づく。
押さない。
でも、弱くもしない。
足裏で板の返りを待ち、
腰を遅らせず、
背中に余白を残す。
踏切り。
空中へ出た瞬間、風が一度、下から持ち上げた。
普通なら、ここで形を固定したくなる。
上へ浮く感覚は気持ちいい。
そのまま乗れば、距離が伸びるように思える。
だが、恵はすぐに気づいた。
(この風、途中で抜けるべ)
腕をほんの少しだけ狭める。
体の傾きを、右へ一枚分だけ残す。
腰は前に出しすぎない。
中腹。
予想通り、右から風が入る。
(来た)
今度は腕を戻しすぎない。
左肩を固めず、背中で受ける。
板先が暴れない。
観客席がざわめく。
実況の声が上がる。
「上川、伸びている!この条件で、まだ伸びる!」
着地前。
風が急に抜ける。
(抜けたべ)
膝の準備を半拍早める。
腕を閉じすぎない。
テレマークへ入る余白を残す。
着地。
スッ。
距離表示。
会場が一瞬、息をのむ。
そして大きく湧いた。
それまでのトップを大きく上回る飛距離。
この荒れた空の中で、一人だけ別次元のジャンプだった。
実況
「これはすごい!上川恵、ただ一人、飛距離を大きく伸ばしてきました!」
解説
「驚きました。形は似ている選手が増えていますが、今の上川選手は空中で三回、微修正しています。踏切り直後、横風を受けた瞬間、着地前。ほとんど見えないほど小さい動きですが、これが飛距離に出ました」
着地後、恵は深く息を吐いた。
完璧ではない。
一本目としては十分。
だが、本人には分かっていた。
二本目はもっと荒れる。
勝負はまだ終わっていない。
⸻
控室に戻ると、仲間たちが迎えた。
空
「すごかった……」
美澄
「同じ風で飛んでるとは思えなかった」
紗英
「どうやって空中で変えたの?」
恵はヘルメットを外し、少し考えた。
「風が三回、違う返しをしてきたべ」
莉央
「三回?」
「最初は下から持ち上げた。次に右から触った。最後に抜けた」
空が息を吐く。
「そんなに……」
恵は頷いた。
「だから、うちも三回返したべ」
コスキネンが満足そうに言う。
「即興だべ」
海斗が短く言う。
「形で飛んでない。風と飛んだ」
寄子が微笑む。
「これが、研究されても追いつきにくい差だね」
恵は窓の外を見る。
雪はまだ降っている。
風もまだ荒れている。
一本目は成功した。
でも、次はさらに読みにくい。
「まだ終わってないべ」
海斗が頷く。
「その通りだ」
⸻
二本目。
風はさらに難しくなった。
一本目で上位につけた選手たちは、慎重になっていた。
無理をしない。
安全に着地する。
崩れないことを優先する。
だが、その分、飛距離は伸びない。
恵の直前、スウェーデンの若手が飛んだ。
恵型ジャンプを取り入れた、今季注目の選手。
踏切りは綺麗だった。
空中姿勢も美しい。
しかし、中腹の横風で、腕が開いたまま止まった。
ほんのわずか。
だが、そのわずかで板先が逃げる。
着地はまとめた。
距離は悪くない。
だが、恵を上回るには届かない。
恵はスタートバーに座った。
風はさらに読みにくい。
下の海斗が、合図を出さない。
待て。
恵は待った。
五秒。
十秒。
十五秒。
世界が静かになっていく。
(怖いべ)
怖さはある。
でも、その怖さは昔のように足を引っ張らない。
同僚だ。
隣に座っているだけ。
(怖さ、今日は残業なしだべ)
旗が、ほんの一瞬だけ揃う。
海斗の手が動く。
行け。
助走。
一本目よりも音が重い。
踏切り。
少しだけ早く台が来る感覚。
(急ぐな)
足裏で待つ。
踏切り。
空中。
最初の風は、思ったより弱い。
(乗りすぎない)
腕を開きすぎず、体を薄くする。
中腹。
右ではなく、今度は左から触る。
(逆だべ)
瞬時に、体の傾きを反対へ半枚残す。
腰を固定しない。
背中で受ける。
着地前。
今度は抜けない。
むしろ少し押してくる。
(待つ)
膝を急がせない。
最後まで見る。
最後まで拾う。
最後まで返す。
着地。
スッ。
完璧なテレマーク。
距離表示。
一本目をさらに上回る。
会場が爆発した。
実況
「上川恵!二本目も伸ばしてきた!この荒れた条件の中、ただ一人、別の空を飛んでいます!」
解説
「これはもう形の問題ではありません。空中で風を察知して、体の傾き、腕の角度、膝の準備を微妙に変えている。しかも、それを崩れた修正に見せない。完成度が高すぎます」
得点が出る。
優勝。
二位に大差。
恵はその場で、少しだけ空を見上げた。
雪が頬に当たる。
冷たい。
でも、心は静かだった。
(最後まで見られたべ)
⸻
表彰式後。
記者が聞いた。
「多くの選手があなたの飛型を研究し、似たスタイルで飛んでいます。それについてどう思いますか?」
恵は少し考えた。
そして、上川の言葉で答えた。
「真似してくれるのは、ありがたいべ。でも、うちはうちの体で飛んでるべ」
記者が続ける。
「今日の差は何だったと思いますか?」
恵は笑った。
「風の返事を、最後まで聞けたかどうかだべ」
通訳がそれを英語にする。
会見場が少しざわめいた。
恵は続けた。
「風は、最初に言ったことと、途中で言うことが違う時があるべ。そこで“最初こうだったから”って決めつけると、置いていかれる」
一拍。
「だから、最後まで見る。最後まで聞く。それだけだべさ」
その言葉は、また世界中に広がった。
“Listen to the wind until the landing.”
着地まで、風を聞け。
カフェ雪では、その映像を見た雪が、層一の遺影にそっと話しかけていた。
「そうちゃん、めぐ、また少し強くなったよ」
画面の中の恵は、少し照れたように笑っていた。
その胸元で、鈴が小さく鳴った気がした。
ちりん。
⸻
次回予告
ノルウェー最終戦で圧勝した恵。
だが、勝利の余韻も束の間、彼女は旭川東高校へ戻る。
世界の女王としての時間。
高校三年生としての時間。
教室では、進路の話。
友達との昼休み。
最後の学校祭。
そして卒業へ向かう日々。
一方、光希は複合でさらに実績を積み、オリンピック代表争いへ本格参戦していく。
次回、
第11話 旭川東の仲間たち
世界で勝っても、教室に戻れば、ただの高校生。
恵の最後の制服の日々が、静かに輝き始める。




