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恵の物語  作者: リンダ


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風が教えてくれたこと

『恵の物語』

 第9話 風が教えてくれたこと


 ノルウェーの空は、低かった。


 空港を出た瞬間、恵はそう思った。


 雲が山の稜線に近い。

 風が冷たい。

 雪の粒が細かい。

 北海道の雪とは違う、乾いたようで、どこか湿り気を含んだ雪だった。


 コスキネンが空を見上げる。


「北欧の春は、油断したら冬に戻るべ」


 恵は首元のマフラーを少し上げた。


「春って言い張るには寒すぎるべさ」


 海斗は荷物を持ちながら、周囲を見ていた。


「会場入りしたらすぐ台を見る」


 寄子も頷く。


「今日は飛ぶ前から観察だね」


 恵は小さく頷いた。


「んだ。最後まで見るべ」


 会場のジャンプ台は、山の斜面に深く食い込むように立っていた。


 助走路は思ったより長く見える。

 ランディングバーンは、途中から少し開くように広がっている。

 左右の木立は高い。

 風がそこを抜ける時、音が少し変わる。


 恵は、ジャンプ台を前に立ち止まった。


 飛ぶ前に、まず見る。


 旗。

 木。

 雪煙。

 観客席の位置。

 山の影。

 助走路の光り方。

 風がどこで鳴っているか。


 高田空が隣に立つ。


「大きいね」


 恵は頷く。


「んだ。でも、大きいだけじゃないべ」


「何か見える?」


「風が、正面から来てるように見えるけど、たぶん途中で横に割れる」


 空は目を細めた。


「横に?」


 恵は着地斜面の中腹を指さす。


「あそこ。木立が切れてるべ。そこから風が入る。上では静かでも、空中で右から触られるかもしれない」


 後ろから早川美澄が言う。


「旗だけ見てたら分からないね」


 北野紗英も頷く。


「観客席の上の横断幕、少しだけ遅れて揺れてる」


 三枝莉央が手袋を握る。


「こういうの、前なら見逃してたかも」


 恵は微笑んだ。


「うちもだべ」


 そこへコスキネンが来る。


「いいべ。みんな、見えてる」


 海斗はタブレットに簡単な図を描いていた。


「台の形状。中腹の右側が開く。風が入ると空中で板先を持っていかれる可能性がある」


 寄子がノートに書き込む。


「対策は?」


 コスキネンが言う。


「踏切りで押しすぎない。空中で直そうとしない。腰と背中で待つべ」


 恵は頷いた。


「二杯目のフォームだべな」


 海斗が短く言う。


「今日は三杯目まで必要かもしれん」


 恵は顔をしかめた。


「コーヒー理論、ついに三杯目突入だべ」


 空が笑う。


「それ、代表内で普通に通じるのが怖い」


 夕方のミーティング。


 日本チームの部屋には、映像と風向きの資料が広げられていた。


 海斗が言う。


「今日の台は、見た目より難しい。突風が来る時間帯がある。特に中腹で横風が入る」


 寄子が続ける。


「明日の試技では、飛距離を欲張らない。情報を取りに行く」


 コスキネンは恵を見る。


「めぐ。一本目から勝とうとしないこと」


 恵は少し笑う。


「言われなくても分かってるべ」


「本当に?」


「……多分」


 コスキネンがじっと見る。


 恵は観念した。


「分かった。試技は観察。飛距離じゃないべ」


 海斗が頷く。


「それでいい」


 そこへ空が話しかける。


「恵って、怖くならない?」


 恵は少し考えた。


「なるべ」


「でも、落ち着いて見える」


「落ち着いて見せてるだけだべさ」


 美澄が笑う。


「正直」


 恵は肩をすくめた。


「怖いから見るんだべ。怖い時ほど、決めつけたくなる。『こう飛べば大丈夫』って。けど、それやると見えなくなる」


 紗英が静かに言う。


「決めつけたくなるの、分かる」


 莉央も頷く。


「不安だと、作戦にしがみつきたくなる」


 恵は、カフェ雪で見た光子と優子の動画を思い出した。


 見る。

 聞く。

 拾う。

 その場で返す。


「うちは、博多の双子に教わったべ」


 空が吹き出す。


「またそこに戻るんだ」


「んだ。あの人たち、たぶん競技理論を笑いながら投げてくるべ」


 コスキネンが真顔で頷いた。


「博多理論、強いべ」


 海斗が額に手を当てる。


「名前はどうにかしろ」


 部屋に小さな笑いが広がった。


 その笑いで、空気が少し柔らかくなった。


 翌日。


 試技。


 会場は荒れていた。


 突風。

 横風。

 細かい雪。

 視界不良。


 経験豊富なベテランでも、姿勢を崩す選手がいた。


 実況席でも声が緊張している。


「今日は非常に難しい条件です。風速表示だけでは判断できません」


 解説者が言う。


「上と下で風が違いますね。踏切り後に急に横から触られる選手が多い」


 恵は待機エリアで、前の選手たちを見ていた。


 フィンランドの選手。

 オーストリアの選手。

 カナダの選手。

 ノルウェーの地元選手。


 それぞれが、違う崩れ方をしている。


 空が隣で呟く。


「みんな、同じところで揺れてる?」


 恵は首を振る。


「似てるけど、違うべ」


「違う?」


「あのフィンランドの選手は、踏切りで押して揺れた。

 でもノルウェーの選手は、空中の途中で風を食らってる。

 カナダの選手は、着地前に膝が早かった」


 美澄が目を丸くする。


「そんなに違う?」


 恵は台を見たまま答える。


「違うべ。崩れた場所が違えば、対策も違う」


 その時、一人の選手が試技に入った。


 スウェーデンの若手。

 今季、恵を研究して急成長してきた選手だった。


 助走は綺麗。

 踏切りも鋭い。

 空中姿勢も恵に似ている。


 周囲のコーチたちが小さく頷く。


「いい」


「安定している」


 だが、恵だけは眉を動かした。


「……今の、違うべ」


 空が聞く。


「何が?」


「似てるけど、違う。あれ、うちの真似じゃなくて、形だけ寄せてる」


 コスキネンが隣に来る。


「見えたか」


 恵は頷く。


「あの子、踏切りで腰が遅れてる。形は似てるけど、風を待ってない。先に形を作りに行ってるべ」


 海斗がタブレットにメモする。


「本番で荒れたら崩れる」


 寄子が静かに言う。


「研究されてるけど、そこが差だね」


 恵は黙って頷いた。


 形は真似できる。

 映像分析もできる。

 角度も近づけられる。


 でも、今日の風に合わせて待つ感覚は、形だけでは身につかない。


 それは、飛びながら見る力だった。


 恵の試技。


 スタートバーに座る。


 雪が細かく顔に当たる。

 視界は少し白い。


 下から海斗の合図。


 待て。


 恵は動かない。


 風が鳴る。

 木立が揺れる。

 中腹の横断幕が、少し遅れて揺れる。


(上は静か。中腹で右。着地前に抜ける)


 完全ではない。

 でも、今見えるものを拾う。


 青信号。


 助走。


 音が硬い。


 踏切り台が近づく。


 押さない。

 風を決めつけない。


 踏切り。


 空中に入る。


 やはり中腹で右から触る。


(来たべ)


 肩では直さない。

 腰を残す。

 背中で待つ。


 しかし着地前、思ったより風が抜ける。


(抜けた)


 膝を半拍早める。


 スッ。


 着地。


 飛距離は控えめ。

 だが安定していた。


 コスキネンが下で頷く。


「いい観察だったべ」


 海斗も短く言う。


「情報は取れた」


 寄子が恵に近づく。


「どうだった?」


 恵はヘルメットを外した。


「中腹の右風は予想通り。でも着地前の抜けが早い。二本目以降、膝を待ちすぎると危ないべ」


 海斗が頷く。


「本番はそこを変える」


 恵は深く息を吐いた。


 試技は勝負ではない。

 けれど、勝負の半分はもう始まっている。


 控室。


 恵は仲間たちと並んで座っていた。


 空が言う。


「私、今日の台、苦手かも」


 恵は首を振る。


「苦手って決めるの早いべ」


 空は苦笑する。


「出た。決めつけ禁止」


「んだ。まず、どこが苦手か見るべ」


 美澄が手を挙げる。


「私は踏切り後の右風が怖い」


 紗英

「私は着地前に抜けるのが怖い」


 莉央

「私は視界が白くなると、助走で力む」


 恵は頷く。


「ほら、みんな違うべ。苦手も一個じゃない」


 コスキネンが微笑む。


「いいミーティングだべ」


 海斗が言う。


「それぞれ対策を変える。全員が同じ飛びをする必要はない」


 寄子がノートを閉じる。


「世界も恵を研究してる。でも私たちも、世界を見てる。台も、風も、自分も」


 恵は窓の外のジャンプ台を見た。


 荒れている。


 怖い。


 でも、見えるものは増えている。


 才能か。

 技術か。

 それとも、最後まで見続ける力か。


 たぶん全部だ。


 でも、最後に選ぶのは、見る力。


 恵は胸ポケットの鈴を鳴らした。


 ちりん。


「風が教えてくれるべ」


 コスキネンが頷く。


「聞き逃さなければ、だべ」


 次回予告


 荒れるノルウェーの空。


 試技で情報を掴んだ恵は、本番一本目へ向かう。


 しかし、風はさらに変わる。


 読み通りにはいかない。

 作戦通りにもいかない。


 世界のライバルたちは、研究してきた“恵型ジャンプ”で挑んでくる。


 だが恵は、形ではなく、今そこにある風を選ぶ。


 一本目、まさかの出遅れ。

 それでも恵の目は折れない。


 次回、

 第10話 最後まで見る


 勝負は、失敗した瞬間から始まる。

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