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恵の物語  作者: リンダ


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36/69

だべが世界に飛んだ日

『恵の物語』


第36話 後篇 だべが世界に飛んだ日


練習後のカフェ「雪」。


外はもう夕方で、上川駅前の空は淡い紫色に変わり始めていた。

店内には、雪が淹れたエチオピアの香りがまだ残っている。


恵はテーブルに肘をつき、今日の練習動画をスマホで見返していた。


隣ではコスキネンが、二杯目のコーヒーをゆっくり飲んでいる。


「今日の二本目、ちょっとよかったべ?」


コスキネン

「よかったべ。背中、ちゃんと待ててたべさ」


「でも一本目は、背中が張り切りすぎたべ」


コスキネン

「背中が主役になったら困るべ。背中は裏方だべ」


「背中に裏方って言われても、背中も困るべさ」


コスキネン

「困っても働く。それが背中だべ」


恵は吹き出した。


「コスキネンさん、もう日本語というより道北弁で指導してるべ」


「だべ」


あまりに自然な返事だった。


恵は思わずスマホを構えた。


「今の、撮っていいべか?」


コスキネンは首をかしげる。


「何を?」


「うちらの会話。なんか面白いべ」


コスキネンは一瞬考えてから、真顔で言った。


「よかろうもん」


「それ博多たい!」


コスキネン

「混ざったべ」


恵は笑いながら短い動画を撮った。


画面の中で、恵が聞く。


「コスキネンさん、今日のフォーム、どうだったべ?」


コスキネン

「一杯目は酸っぱかったべ。二杯目で丸くなったべ」


「フォームをコーヒーで言うなって」


コスキネン

「めぐが先に言ったべ」


「それはそうだべ」


コスキネン

「だから明日も二杯目のフォームで行くべ」


「了解だべ」


二人で同時に頷く。


そこへ雪の声が入る。


「コーヒーは三杯目もあるよ」


「母ちゃん、フォーム増やすなって!」


コスキネン

「三杯目、研究するべ」


動画はそこで終わった。


恵は、なんとなく軽い気持ちでSNSに投稿した。


今日の練習後。

コスキネンコーチ、道北弁が自然すぎるべ。

新フォームは「二杯目のコーヒー」らしい。

#上川 #カフェ雪 #だべ #二杯目のフォーム


投稿して、恵はすぐにスマホを伏せた。


「まあ、内輪ネタだべ」


そう思っていた。


だが、十分後。


スマホが震えた。


二十分後。


さらに震えた。


三十分後。


通知が止まらなくなった。


「……なんだべ?」


画面を見る。


再生数が、見たことのない勢いで伸びている。


コメント欄には、次々に言葉が流れていた。


「コスキネンさんの“だべ”かわいすぎる」

「フィンランド出身なのに道北弁うますぎ」

「恵ちゃんとの会話、癒やされる」

「二杯目のフォーム、名言」

「カフェ雪行きたい」

「世界女王と名コーチの会話がゆるすぎる」

「この二人、師弟というより親戚感ある」

「だべが国際化してる」


恵は固まった。


「……バズってるべ」


雪がカウンターから覗き込む。


「え、ほんと?」


コスキネンもスマホを覗く。


「だべ、人気だべか」


「自分で言うなって!」


そこへ、当然のように光子と優子から通話が来た。


光子

「見たばい!!コスキネンさん、かわいすぎたい!!」


優子

「道北弁と博多弁が混線しとるのに、なぜか成立しとる!」


「うちもびっくりしてるべ」


光子

「“二杯目のフォーム”って何!?めっちゃ使えるやん!」


優子

「次のコントのお題、決まったね。

『一杯目のフォームと二杯目のフォームが喧嘩したら』」


「やめれぇ!」


コスキネンは真顔で画面に向かって言った。


「一杯目はまだ固いべ。二杯目は少し丸いべ」


光子

「本人が乗った!!」


優子

「コスキネンさん、もう完全にこっち側たい!」


雪は笑いすぎて、カウンターに手をついた。


寄子も後から店に入ってきて、通知の数を見て目を丸くする。


寄子

「え、これかなり広がってるよ」


海斗は最後に入ってきて、状況を見て眉をひそめた。


「何をした」


「会話上げただけだべ」


海斗

「会話でこれか」


コスキネン

「だべは強いべ」


海斗

「そこは誇るな」


それでも、海斗の口元はほんの少し緩んでいた。


翌朝。


スポーツニュースでも、その短い動画が取り上げられた。


「上川恵選手とコスキネンコーチの“道北弁トーク”が話題です」


スタジオのアナウンサーが笑いながら紹介する。


「世界で戦うトップアスリートの練習後とは思えない、何とも和やかな会話ですね」


解説者が言う。


「ただ、この“二杯目のフォーム”という表現、実は競技的にも面白いですね。最初の違和感をすぐに否定せず、味わって調整する。トップ選手の感覚の言語化として非常に興味深いです」


恵はカフェ雪でそれを見て、顔を赤くした。


「全国で二杯目二杯目言われてるべ……」


雪が笑う。


「いいじゃない。分かりやすいし」


コスキネンはコーヒーを飲みながら言う。


「今日も二杯目で行くべ」


「もうそれ定着したべな……」


その日、練習場に行くと、若い選手たちがニヤニヤしていた。


高田空

「恵、今日のフォームは何杯目?」


「聞くなって」


早川美澄

「私、一本目いつも酸味強いかも」


北野紗英

「私は深煎り系かな」


三枝莉央

「私はまだインスタントです……」


「みんな乗るなって!」


コスキネンが真顔で言う。


「インスタントも悪くない。お湯の温度が大事だべ」


全員、笑い崩れた。


その日から、代表チーム内で妙な言葉が流行り始めた。


一本目で硬い選手には、


「一杯目だね」


二本目で良くなると、


「二杯目来た」


焦って力むと、


「酸味強すぎ」


余白が出ると、


「香りが出てきた」


海斗は最初こそ渋い顔をしていたが、やがて諦めたように言った。


「意味が通じるなら使え」


寄子は笑いながらノートに書いた。


二杯目のフォーム:最初の違和感を否定せず、観察して丸めた状態。


恵は、それを見て苦笑した。


「用語化されたべ……」


けれど、その言葉は確かに役に立った。


新しいフォームの違和感を、失敗と決めつけない。

一杯目の酸味として受け止める。

二杯目で味を探す。

三杯目で自分のものにする。


笑いながら、軽く言えるからこそ、選手たちは試せる。


恵は、カフェ雪の窓の外を見た。


春の光が、まだ残る雪を照らしている。


世界は恵を研究する。

けれど、恵たちはその研究の外側で、毎日少しずつ変な言葉を作り、笑い、試し、更新していく。


その柔らかさこそ、外から見えにくい強さだった。


胸の鈴が、ちりんと鳴った。


恵はコーヒーを飲み干して、笑った。


「さて、今日も二杯目で飛ぶべさ」


コスキネンが頷く。


「んだ。香り出していくべ」


海斗

「練習に行くぞ」


寄子

「はい、カフェ雪チーム出勤」


雪が手を振る。


「いってらっしゃい。三杯目は帰ってからね」


「母ちゃん、またフォーム増やしたべ!」


店内に笑いが広がった。


そしてその笑いを背中に、恵はまたジャンプ台へ向かった。


新しいものを恐れないために。

勝っていても変わるために。


二杯目のフォームで、風の中へ。



次回予告


「二杯目のフォーム」が話題になり、恵の周囲は明るさを取り戻す。


だが、冬。

国内戦で、恵は若手選手に敗れる。


飛距離は悪くない。

フォームも崩れていない。

それでも勝てなかった。


原因は、技術ではなく、決めつけ。


「今日はこういう台だ」

「この風ならこう飛べる」


見えているつもりの時ほど、人は大事な変化を見逃す。


次回、

第6話 高2冬、苦い2位


負けた一本が、恵に新しい観察を教える。

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