だべが世界に飛んだ日
『恵の物語』
第36話 後篇 だべが世界に飛んだ日
練習後のカフェ「雪」。
外はもう夕方で、上川駅前の空は淡い紫色に変わり始めていた。
店内には、雪が淹れたエチオピアの香りがまだ残っている。
恵はテーブルに肘をつき、今日の練習動画をスマホで見返していた。
隣ではコスキネンが、二杯目のコーヒーをゆっくり飲んでいる。
恵
「今日の二本目、ちょっとよかったべ?」
コスキネン
「よかったべ。背中、ちゃんと待ててたべさ」
恵
「でも一本目は、背中が張り切りすぎたべ」
コスキネン
「背中が主役になったら困るべ。背中は裏方だべ」
恵
「背中に裏方って言われても、背中も困るべさ」
コスキネン
「困っても働く。それが背中だべ」
恵は吹き出した。
「コスキネンさん、もう日本語というより道北弁で指導してるべ」
「だべ」
あまりに自然な返事だった。
恵は思わずスマホを構えた。
「今の、撮っていいべか?」
コスキネンは首をかしげる。
「何を?」
「うちらの会話。なんか面白いべ」
コスキネンは一瞬考えてから、真顔で言った。
「よかろうもん」
恵
「それ博多たい!」
コスキネン
「混ざったべ」
恵は笑いながら短い動画を撮った。
画面の中で、恵が聞く。
恵
「コスキネンさん、今日のフォーム、どうだったべ?」
コスキネン
「一杯目は酸っぱかったべ。二杯目で丸くなったべ」
恵
「フォームをコーヒーで言うなって」
コスキネン
「めぐが先に言ったべ」
恵
「それはそうだべ」
コスキネン
「だから明日も二杯目のフォームで行くべ」
恵
「了解だべ」
二人で同時に頷く。
そこへ雪の声が入る。
雪
「コーヒーは三杯目もあるよ」
恵
「母ちゃん、フォーム増やすなって!」
コスキネン
「三杯目、研究するべ」
動画はそこで終わった。
恵は、なんとなく軽い気持ちでSNSに投稿した。
今日の練習後。
コスキネンコーチ、道北弁が自然すぎるべ。
新フォームは「二杯目のコーヒー」らしい。
#上川 #カフェ雪 #だべ #二杯目のフォーム
投稿して、恵はすぐにスマホを伏せた。
「まあ、内輪ネタだべ」
そう思っていた。
だが、十分後。
スマホが震えた。
二十分後。
さらに震えた。
三十分後。
通知が止まらなくなった。
恵
「……なんだべ?」
画面を見る。
再生数が、見たことのない勢いで伸びている。
コメント欄には、次々に言葉が流れていた。
「コスキネンさんの“だべ”かわいすぎる」
「フィンランド出身なのに道北弁うますぎ」
「恵ちゃんとの会話、癒やされる」
「二杯目のフォーム、名言」
「カフェ雪行きたい」
「世界女王と名コーチの会話がゆるすぎる」
「この二人、師弟というより親戚感ある」
「だべが国際化してる」
恵は固まった。
「……バズってるべ」
雪がカウンターから覗き込む。
「え、ほんと?」
コスキネンもスマホを覗く。
「だべ、人気だべか」
恵
「自分で言うなって!」
そこへ、当然のように光子と優子から通話が来た。
光子
「見たばい!!コスキネンさん、かわいすぎたい!!」
優子
「道北弁と博多弁が混線しとるのに、なぜか成立しとる!」
恵
「うちもびっくりしてるべ」
光子
「“二杯目のフォーム”って何!?めっちゃ使えるやん!」
優子
「次のコントのお題、決まったね。
『一杯目のフォームと二杯目のフォームが喧嘩したら』」
恵
「やめれぇ!」
コスキネンは真顔で画面に向かって言った。
「一杯目はまだ固いべ。二杯目は少し丸いべ」
光子
「本人が乗った!!」
優子
「コスキネンさん、もう完全にこっち側たい!」
雪は笑いすぎて、カウンターに手をついた。
寄子も後から店に入ってきて、通知の数を見て目を丸くする。
寄子
「え、これかなり広がってるよ」
海斗は最後に入ってきて、状況を見て眉をひそめた。
「何をした」
恵
「会話上げただけだべ」
海斗
「会話でこれか」
コスキネン
「だべは強いべ」
海斗
「そこは誇るな」
それでも、海斗の口元はほんの少し緩んでいた。
翌朝。
スポーツニュースでも、その短い動画が取り上げられた。
「上川恵選手とコスキネンコーチの“道北弁トーク”が話題です」
スタジオのアナウンサーが笑いながら紹介する。
「世界で戦うトップアスリートの練習後とは思えない、何とも和やかな会話ですね」
解説者が言う。
「ただ、この“二杯目のフォーム”という表現、実は競技的にも面白いですね。最初の違和感をすぐに否定せず、味わって調整する。トップ選手の感覚の言語化として非常に興味深いです」
恵はカフェ雪でそれを見て、顔を赤くした。
「全国で二杯目二杯目言われてるべ……」
雪が笑う。
「いいじゃない。分かりやすいし」
コスキネンはコーヒーを飲みながら言う。
「今日も二杯目で行くべ」
恵
「もうそれ定着したべな……」
その日、練習場に行くと、若い選手たちがニヤニヤしていた。
高田空
「恵、今日のフォームは何杯目?」
恵
「聞くなって」
早川美澄
「私、一本目いつも酸味強いかも」
北野紗英
「私は深煎り系かな」
三枝莉央
「私はまだインスタントです……」
恵
「みんな乗るなって!」
コスキネンが真顔で言う。
「インスタントも悪くない。お湯の温度が大事だべ」
全員、笑い崩れた。
その日から、代表チーム内で妙な言葉が流行り始めた。
一本目で硬い選手には、
「一杯目だね」
二本目で良くなると、
「二杯目来た」
焦って力むと、
「酸味強すぎ」
余白が出ると、
「香りが出てきた」
海斗は最初こそ渋い顔をしていたが、やがて諦めたように言った。
「意味が通じるなら使え」
寄子は笑いながらノートに書いた。
二杯目のフォーム:最初の違和感を否定せず、観察して丸めた状態。
恵は、それを見て苦笑した。
「用語化されたべ……」
けれど、その言葉は確かに役に立った。
新しいフォームの違和感を、失敗と決めつけない。
一杯目の酸味として受け止める。
二杯目で味を探す。
三杯目で自分のものにする。
笑いながら、軽く言えるからこそ、選手たちは試せる。
恵は、カフェ雪の窓の外を見た。
春の光が、まだ残る雪を照らしている。
世界は恵を研究する。
けれど、恵たちはその研究の外側で、毎日少しずつ変な言葉を作り、笑い、試し、更新していく。
その柔らかさこそ、外から見えにくい強さだった。
胸の鈴が、ちりんと鳴った。
恵はコーヒーを飲み干して、笑った。
「さて、今日も二杯目で飛ぶべさ」
コスキネンが頷く。
「んだ。香り出していくべ」
海斗
「練習に行くぞ」
寄子
「はい、カフェ雪チーム出勤」
雪が手を振る。
「いってらっしゃい。三杯目は帰ってからね」
恵
「母ちゃん、またフォーム増やしたべ!」
店内に笑いが広がった。
そしてその笑いを背中に、恵はまたジャンプ台へ向かった。
新しいものを恐れないために。
勝っていても変わるために。
二杯目のフォームで、風の中へ。
⸻
次回予告
「二杯目のフォーム」が話題になり、恵の周囲は明るさを取り戻す。
だが、冬。
国内戦で、恵は若手選手に敗れる。
飛距離は悪くない。
フォームも崩れていない。
それでも勝てなかった。
原因は、技術ではなく、決めつけ。
「今日はこういう台だ」
「この風ならこう飛べる」
見えているつもりの時ほど、人は大事な変化を見逃す。
次回、
第6話 高2冬、苦い2位
負けた一本が、恵に新しい観察を教える。




