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恵の物語  作者: リンダ


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勝っても変える

『恵の物語』

 第35話 勝っても変える


 遠征を終えて、恵が上川に戻った日の朝。

 カフェ「雪」の窓には、薄い霜が残っていた。


 春とはいえ、道北の朝はまだ冷たい。

 駅前を通る風にも、冬の名残がある。


 けれど、店の中だけはあたたかかった。


 コーヒーの香り。

 カップの触れ合う音。

 カウンターの向こうで動く雪の手。


 恵は、いつもの席に腰を下ろした。


「ただいまだべ」


 雪が振り向く。


「おかえり、めぐ」


 その言葉だけで、遠征の疲れが少しほどけた。


 世界を転戦して、表彰台に立ち、記者に囲まれ、ライバルたちに研究され続ける日々。

 けれど、上川に戻れば、最初に待っているのは派手な拍手ではない。


 母の声。

 カフェの椅子。

 朝のコーヒー。


 それが、恵をちゃんと地面に戻してくれる。


 雪はカップを置いた。


「はい。今日はちょっと違うよ」


 恵はカップを両手で包み、ひと口飲んだ。


「……ん?」


 すぐに眉が動く。


 もう一口。


 香りはいつもの深煎りより少し明るい。

 苦味の後ろに、細い酸味が残る。

 舌の奥で、少し果物みたいな感じがした。


 恵はカップを見つめた。


「あれ?コーヒーの味、変わった?少し酸味があるような?」


 雪は嬉しそうに笑った。


「分かった?」


「分かるべ。いつものより軽い。苦味が後ろに引くの早いべさ」


 雪は棚から小さな袋を取り出した。


「新しい銘柄を仕入れてみたの。さて、産地はどこでしょう?」


 恵はカップをもう一度持ち上げる。


 香りを嗅ぐ。

 少し甘い。

 でも軽すぎない。

 酸味はあるが、鋭くはない。


「……ジャマイカ?」


 雪は首をかしげる。


「お」


 恵はさらに考える。


「いや、ベトナム……? でもベトナムにしては酸味がきれいすぎるべか」


 雪は笑いながら、袋のラベルを恵に見せた。


 そこには、こう書かれていた。


 Ethiopia Yirgacheffe


 恵は目を丸くした。


「エチオピアだべか」


「うん。イルガチェフェ。少し華やかで、酸味があるでしょ」


 恵はもう一度飲んだ。


「……たしかに。言われたら、花っぽいべ」


 雪はカウンターに肘をついて言う。


「新しいものを入れると、最初はちょっと違和感がある。でも、よく味わうと面白いでしょ」


 恵は、母の顔を見た。


 その言葉が、ただコーヒーの話ではないことくらい、すぐに分かった。


「……新しいフォームの話だべか」


 雪は少し笑った。


「そうとも言えるね」


 恵はカップを置く。


「まだ試行段階だべ。しっくり来た、って言い切るには早い。でも、だいぶ形になってきた」


「怖さは?」


「あるべ」


 恵は正直に言った。


「勝ててるのに変えるのは、やっぱり怖い。今のままで行けるんじゃないかって思う時もある」


 雪は黙って聞いている。


「でも、コスキネンさんが言うんだべ。勝ててる今こそ変えるって。負け始めてから変えようとすると、怖さの方が勝つって」


「うん」


「海斗コーチも、今のフォームは強いけど、体が変わったら押しすぎになるって言う。寄子コーチは、余白を残せって言う」


 恵はカップの中のコーヒーを見た。


「今日のコーヒーみたいだべな」


 雪が首を傾げる。


「どういうこと?」


「最初、違和感あるべ。いつもと違うって。でも、ちゃんと味わうと、そこに別の良さがある」


 少し照れたように笑う。


「うちの新フォームも、そんな感じだべ。まだ慣れない。でも、前より風が見える時がある」


 雪は目を細めた。


「じゃあ、悪くないね」


「悪くないべ」


 その時、店のドアベルが鳴った。


 ちりん。


 入ってきたのは、コスキネンだった。


「おはようだべ」


 もうその挨拶に、誰も驚かなくなっていた。


 恵がカップを掲げる。


「コスキネンさん、今日のコーヒー、違うべ」


 コスキネンは席に座り、一口飲む。


 そして、すぐに言った。


「エチオピア?」


 恵が固まる。


「なんで一口で分かるべ!?」


 雪も笑う。


「すごい」


 コスキネンは平然としている。


「フィンランドでも、コーヒーは大事だべ」


 そこへ海斗と寄子も入ってくる。


 寄子

「あ、今日は香りが違う」


 海斗はカップを受け取り、ひと口飲む。


「酸味がある」


 恵が言う。


「今日のテーマ、新しいものを入れる、だべ」


 寄子はすぐに察して微笑んだ。


「いいね。フォームの話にぴったり」


 海斗はタブレットを出しながら言う。


「なら、今日も変えるぞ」


 恵は顔をしかめる。


「コーヒー飲んでシャキッとした直後にそれかい」


 コスキネンが真顔で言う。


「勝っても変えるべ」


 その言葉で、店の空気が少し締まった。


 午前の練習。


 上川のジャンプ台には、春のやわらかい風が吹いていた。


 恵はスタートバーに座る。


 前回までの新フォームは、だいぶ形になっていた。

 踏切りで押しすぎない。

 風を感じてから開く。

 空中で余白を残す。


 だが、今日の課題はさらに細かかった。


 コスキネンが言った。


「今日は、踏切り後の背中」


 恵が顔をしかめる。


「背中?」


「んだ。めぐは足と腰で風を読む。でも、背中がまだ少し遅い」


 海斗が補足する。


「空中で風が抜けた時、肩で直そうとしている。背中で受けろ」


 寄子が続ける。


「肩で直すと、表情も固くなる。背中で受けられると、呼吸が残る」


 恵は苦笑する。


「体の部位だけで会議できそうだべ」


 コスキネンは真顔で頷く。


「体は会議してるべ」


「そこ真面目に返すべか」


 一本目。


 恵は、背中を意識しすぎた。


 助走は悪くない。

 踏切りも押していない。

 だが空中で背中を残そうとして、逆に肩が遅れた。


 着地はまとめたが、飛距離は伸びない。


 海斗が短く言う。


「考えすぎ」


 寄子

「背中を“動かそう”としたね」


 コスキネン

「背中は主役じゃない。裏方だべ」


 恵はヘルメットを外して唸った。


「難しいべさ……」


 その時、雪からメッセージが届いた。


 新しいコーヒー、一杯目で決めつけないこと。二杯目で変わる味もあるよ。


 恵はそれを見て、小さく笑った。


「母ちゃん、さすがだべ」


 二本目。


 今度は、背中を意識しすぎない。

 ただ、肩で直しに行きそうになった時、背中に少しだけ余白を残す。


 助走。


 踏切り。


 空中。


 風が抜ける。


 いつもなら、肩で追いかける。

 今日は追いかけない。


 背中で待つ。


 ほんの少し。

 一拍にも満たない時間。


 でも、その違いで、板先が暴れなかった。


 着地。


 スッ。


 海斗の目が動いた。


「今のだ」


 寄子が笑う。


「二杯目の味、出たね」


 コスキネンが満足そうに頷く。


「背中で飲めたべ」


 恵は着地地点で叫んだ。


「コーヒーとフォーム混ぜすぎだべ!」


 それでも、感覚は掴めていた。


 練習後、カフェ雪。


 恵は二杯目のエチオピアを飲んでいた。


 一杯目より、酸味がやわらかく感じる。

 香りも少し丸い。


「……ほんとだ。二杯目、違うべ」


 雪が微笑む。


「でしょ」


 恵はタブレットで練習映像を見る。


 一本目は、硬い。

 二本目は、少し余白がある。


 同じ新フォームでも、味わい方が違う。


 寄子が言う。


「新しいことって、最初からしっくり来なくて当たり前なんだよね」


 海斗が頷く。


「だが、合わないと決めるのは早い。試せ。観察しろ。修正しろ」


 コスキネンが言う。


「勝ってるから変えない、は危険。勝ってるから試せるべ」


 恵は静かに頷いた。


「んだな」


 その時、スマホが震えた。


 光子と優子からだった。


 光子

「新フォーム進んどるー?」


 優子

「今日のお題、コーヒー豆が転校生だったら、たい!」


 恵は思わず吹き出した。


「もう何でもコントにするべな」


 雪が画面を覗いて笑う。


「でも、今日なら分かるかもね」


 恵は返信した。


 新しいコーヒーみたいに、違和感も味わうべ。フォームも二杯目からだべさ。


 すぐに返事が来た。


 光子

「名言っぽい!」


 優子

「いや、コーヒー飲みすぎた人の発言にも見える!」


 コスキネンが画面を見て一言。


「博多、今日も正常だべ」


 恵は笑った。


「正常の基準が壊れてるべ」


 夜。


 カフェ雪の灯りが落ち着く頃、恵は窓の外を見ていた。


 上川の道には、まだ雪が残っている。


 けれど、季節は少しずつ変わっている。

 見た目は昨日と同じでも、空気は違う。


 自分の体も、フォームも、心も同じだ。


 変わっていく。


 それを怖がるのではなく、味わう。

 酸味も、違和感も、二杯目の変化も。


 恵は胸ポケットの鈴を鳴らした。


 ちりん。


「勝っても変えるべ」


 小さく呟いた。


 それは、自分への約束だった。


 次回予告


 新フォームの試行を続ける恵。

 だが、勝ち続ける日々の中で、初めて歯車が狂う。


 国内戦。

 若手選手に敗れる恵。


 飛距離は悪くない。

 飛型も崩れていない。

 それでも、わずかに届かない。


 原因は、フォームではなく“決めつけ”。


「見えていたつもり」が、最も危ない。


 光子と優子、そしてコスキネンが投げかける新たな即興課題。


 同じ白い雪でも、昨日と今日では違う。

 同じ勝ち方でも、昨日と今日では通じない。


 次回、

 第6話 高2冬、苦い2位


 負けた一本が、次の勝ち方を教えてくれる。

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