6 ワイン
二つの儀式が終わる頃には、秋の日が暮れかけていた。次は丘の城に戻り、楽しい宴が待っている。本来なら、新しい夫婦が丘を登って歩く姿に、人の道ができるのが恒例だ。けれど、足の悪い父を考慮し、私と父が馬車に乗り、オルグレイドは先に会場へ行った。
馬車の個室は、向かい側の膝と膝が当たるほど小さい。だからこそ、父はここを、私情を挟む場として選んだのだろう。車窓さえカーテンで閉じてしまえば、民が手を振ってくる姿も遮断できる。キスを求めたあの子供も今は落ち着いているようで、静かな道だった。
杖に額をあずけながら、父は揺れる馬車の中で、深く息をつく。隣に置かれた酒瓶を取り上げ、慣れた手つきで封を切った。途端に、車内は甘酸っぱい香りに満ちる。
「これを、オルグレイドに注いでやりなさい」
「……ワイン、ですか?」
「火の民というのを、お前は知らない」
父は私を見つめた。その目に光は宿らず、この世の現実だけがありありと映し出されるようだった。
「三日三晩、花嫁を離さないと言われる奴らだぞ。他国から女を略奪するとも聞いた。どうにかして、新鮮なワインで、気を静めさせてやれ」
それはお酒好きな父が、ジルトハインで買い集めた、上物だった。これで自分の身を守れと言う父に、私は胸の奥が熱くなってくる。
「……ですが、お酒が入って暴れでもしたら、どうするのですか」
あの男が手を振り上げたら、私の顔が潰れそうだ。未婚である状態を示す花冠を取り上げる。繊細なカスミソウはその涙を落とすように、手の中で簡単に散らばった。父はそれを悲しげに膝へ置く。
「お前は誰よりも、私を尊敬してくれているであろう?」
「それは……もちろんです」
「こんないい娘に、火の子を産ませるなど、考えるだけで吐き気がするんだよ。純粋な血を継がせるためには、穢れは避けねばならん。だが、聖剣を持つ者を、ぞんざいに扱うこともできまい」
乾いた艶のない父の手が、私のヴェールを取り上げる。いつにも増して、私を見てくれる時間が長く感じられた。
「ベッドに入る前、これでオルグレイド様を、寝かせてしまえということですね」
「そうだ。これがお前の役に立つ。式で口づけのチャンスを与えてやったのだから、お前が気を張る必要はない」
「わざわざ、私のために……ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早いぞ、ネリネ。いつかお前が、あの男の不祥事を暴き……聖剣さえ、この手に戻るまでは」
ワインを受け取ると、父は私の手を握った。
だが、暗くなった父の目が、真珠の首飾りに届くと、その手が外れてしまう。
「真珠ではなく、紫水晶にせよと、私がお前に持たせておいたのはどこにやった。」
「お城に置いて参りました。ですが、この真珠も良いとは思いませんか。」
母の形見の首飾りに触れる。一度でいいから、着けてみたかった。そしたら父は、母を思い出して懐かしむだろうと思ったから。しかし父は疲れたように背をもたれる。口癖からするに「余計なことを」とでも出てきそうだった。
「ずいぶんと古い宝石だ。年頃の女がつけるものと言えば、もう少し澄んだ色のある石にすべきだろう。まったく、お前は私の言ったことを、一言一句、忠実に守っておればいいというのに」
真珠の連なる首元をさすりながら、私は父の膝下を見た。昔から、私が言うことを聞かないと、父は厳しい顔つきになる。でも、これだけは外せなかった。父と母が並んでいる肖像画は、広間にあるあの一枚しかないのだ。
馬車の揺れが止まり、使者に扉が開けられる。城の兵士の宿舎には、すでに村人たちが一階で集まっていた。
「ともかく行っておいで。くれぐれも、お前の役目を果たすためにだぞ。我がジルトハインの栄光は今に戻る」
父とはここでお別れだ。私は頭を下げた。
「あの男の思い通りにはさせません」
些細な誓いを済ませた後、馬がそのまま引き返していく。これから自分の身は、自分で守らなければならない。私はワインを胸に抱き、自由な音楽が奏でられる宴の会場へ、足を運ぶ。
その瞬間、村人たちが両脇から拍手喝采を浴びせてきた。長机の通路を通り抜ける間、彼らは期待の眼差しとともに、涙を浮かべる。
「とうとう、ネリネちゃんにもこの時が来ちまった。この村一番の、花嫁だよ」
「ああ、綺麗だ。まるでどこかの姫さんだなあ」
「どの男が相手でも、不釣り合いになっちまうよ。勿体ねえ」
様々な賞賛が交わされる。村中の人々が集まった食堂は、あふれんばかりの熱気だった。彼らが長椅子から身を乗り出してくるために、人足をかき分けるだけで、もつれそうだ。
オルグレイドは上座で、私の持つワインが杯に注がれるのを待っている。どうせなら、招待客たちが埋め尽くす四つの長机を、順番に眺めているだけであって欲しいのに。なぜかその視線は、私のワインだけを見つめている。
「ネリネちゃん、おめでとう!」
甲高い声が上がる。手袋越しに滑りそうな瓶底を支える。
これをオルグレイドに。宴の間、浴びるように飲ませなければ、夜が来てしまう。そうなっては、期限付きの結婚なのに、私は彼に弄ばれることになってしまう。
そのとき、誰かが私の背中を叩いた。強い。私は悲鳴を上げる前に、ドレスの裾を踏み込み、体が倒れる。地面が近づく間際、手の中の瓶が宙を舞った。
ガラスの破片が飛び散り、けたたましい音が、楽しげな音楽を断つ。赤いワインが、オルグレイドの頭に、滝のように滴り落ちていた。
時が止まる。
笑い声が消える。
開いた口が閉ざされる。
うるさいほどの静寂が耳を打つ。私は許されざることをした。新婦が新郎に注ぐ最初のワインは、これからの名声と名誉を祈る慣わし。それを失敗するのは、まずあり得ない話だ。そんな話すら聞いたことがない。だが、起こってしまった。
オルグレイドは微動だにしない。赤銅色の髪から、血のように濃いワインが滴る。服も、顔も、全身が濡れていた。上等な衣服にシミができた時、父にどれほど恐ろしい顔を向けられたことか覚えている。胸の痛みが蘇るとともに、ひゅっと喉が鳴った。
「あ……あの……申し訳」
声が出ない。オルグレイドがゆっくりと、その場で立った。私を見下ろす赤い瞳が、怒りに煮えた父の目の色と重なる。
鋭く、冷たく、まるで獣が機会をうかがっているような。
「お前」
その一言に、会場が凍りついた。かがり火に照らされた大きな影が、こちらにまで伸びてくる。
「誰の妻だろうと、乱暴は許されることじゃねえ」
彼の視線が私の肩口へと通り過ぎる。、後ろを振り向けば、一人の男が通路で青ざめていた。
「お……俺は、ただ祝うつもりで、わざとじゃ」
「お前のせいで、彼女がワインをこぼした」
オルグレイドが淡々と言った。それに男は震え、拳を握る。その顔は赤い怒りに染まっていた。
「俺は昔から、ネリネ様を……いや、このテルメア村がみんなで守ってきた子だ!あんたにとやかく言われる筋合いはねえよ!」
唾すら飛ばす威勢の良さに、周りのものたちがざわめいた。男は私の肩にぶつかるのにも構わず、オルグレイドが立ち尽くすところへ、駆け上がっていく。
「サフィラス様から聖剣の横取りしやがって。あんたみてえな火の民に、俺たちの水の村を任せられるわけねえだろ!とっとと魔物に喰われちまえ!」
耳を塞ぎたくなった。その言葉は父がよく言っていたから。死んでもいい聖騎士などいないのに。オルグレイドは表情ひとつ変えず、外を指差した。
「出ていけ。……俺を憎むものは、この宴に踏み入れるな」
「言われなくてもそうするさ!あんたがこの村を、めちゃくちゃにする前にな!」
乱暴に主賓の机を蹴り上げた後、その男だけが真っ直ぐ出口へ向かっていく。その後、片手に数えるだけの人たちがついていった。
音楽が再び流れ始める。私は主賓席の隣に座りながら、食べ物が次々と運ばれているのを見届ける。ジルトハインのお抱え料理長が、父に言われて用意した食事だ。うなぎのパテ、兎のシチュー、こんがり焼けた雄鶏と子豚の丸焼き。下座にいる客人は、ナイフを片手に素手で平らげる。
父には見てもいられない光景だろう。貴族たちには最低限、肉刺しを使って食事をする作法がある。
「食わないのか?」
隣で食事を楽しんでいたオルグレイドが、手を止める。先ほど、彼が皿に盛り付けたものには、色とりどりの野菜から肉が広がっていた。まるで何かの拷問みたいに。
「こういった宴の場で、花嫁はご飯を食べてはならないのです」
「そういう決まりがあるなど、初耳だ」
空腹でお腹が鳴りそうだったが辛抱だ。すると彼は手を止めて、食べる速度が若干ばかり遅くなった。ワインをこぼし、さらにはご飯も共にしないなど興ざめも良いところだ。
「ワインのこと、すみませんでした」
「お前のせいじゃない」
手が震えるのを抑えるように、母が残したドレスの裾を握りしめる。祝いの席を滅茶苦茶にした花嫁など、目障りで仕方ないだろう。私はできるだけ口を閉じ、それ以上は酷いことを言わないようにしていたが。
歌い踊り騒ぐ宴の空気が、再び盛り上がりを見せると、どうしても面白いことが閃いてしまって仕方なかった。
サフィラスによれば、兵士たちは酔うと鍋や樽を頭に被るらしいとか。変顔大会といったような、地上におけるどんな生き物よりも不細工で面白い顔ができるかを競い合ったり。食いつき対決では、手を使わないでリンゴを食べるなど。宴といえば、そういった面白いことの連続があるらしい。
けれど、サフィラス亡き今、この手の話がすっかり人々の前から置き去りにされていた。




