失態
オルグレイドは上座で、私の持つワインが杯に注がれるのを待っている。どうせなら、招待客たちが埋め尽くす四つの長机を、順番に眺めているだけであって欲しいのに。なぜかその視線は、私のワインだけを見つめている。
「ネリネちゃん、おめでとう!」
甲高い声が上がる。手袋越しに滑りそうな瓶底を支える。
これをオルグレイドに。宴の間、浴びるように飲ませなければ、夜が来てしまう。そうなっては、期限付きの結婚なのに、私は彼に弄ばれることになってしまう。
そのとき、誰かが私の背中を叩いた。強い。私は悲鳴を上げる前に、ドレスの裾を踏み込み、体が倒れる。地面が近づく間際、手の中の瓶が宙を舞った。
ガラスの破片が飛び散り、けたたましい音が、楽しげな音楽を断つ。赤いワインが、オルグレイドの頭に、滝のように滴り落ちていた。
時が止まる。
笑い声が消える。
開いた口が閉ざされる。
うるさいほどの静寂が耳を打つ。私は許されざることをした。新婦が新郎に注ぐ最初のワインは、これからの名声と名誉を祈る慣わし。それを失敗するのは、まずあり得ない話だ。そんな話すら聞いたことがない。だが、起こってしまった。
オルグレイドは微動だにしない。赤銅色の髪から、血のように濃いワインが滴る。服も、顔も、全身が濡れていた。上等な衣服にシミができた時、父にどれほど恐ろしい顔を向けられたことか覚えている。胸の痛みが蘇るとともに、ひゅっと喉が鳴った。
「あ……あの……申し訳」
声が出ない。オルグレイドがゆっくりと、その場で立った。私を見下ろす赤い瞳が、怒りに煮えた父の目の色と重なる。
鋭く、冷たく、まるで獣が機会をうかがっているような。
「お前」
その一言に、会場が凍りついた。かがり火に照らされた大きな影が、こちらにまで伸びてくる。
「誰の妻だろうと、乱暴は許されることじゃねえ」
彼の視線が私の肩口へと通り過ぎる。、後ろを振り向けば、一人の男が通路で青ざめていた。
「お……俺は、ただ祝うつもりで、わざとじゃ」
「お前のせいで、彼女がワインをこぼした」
オルグレイドが淡々と言った。それに男は震え、拳を握る。その顔は赤い怒りに染まっていた。
「俺は昔から、ネリネ様を……いや、このテルメア村がみんなで守ってきた子だ!あんたにとやかく言われる筋合いはねえよ!」
唾すら飛ばす威勢の良さに、周りのものたちがざわめいた。男は私の肩にぶつかるのにも構わず、オルグレイドが立ち尽くすところへ、駆け上がっていく。
「サフィラス様から聖剣の横取りしやがって。あんたみてえな火の民に、俺たちの水の村を任せられるわけねえだろ!とっとと魔物に喰われちまえ!」
耳を塞ぎたくなった。その言葉は父がよく言っていたから。死んでもいい聖騎士などいないのに。オルグレイドは表情ひとつ変えず、外を指差した。
「出ていけ。……俺を憎むものは、この宴に踏み入れるな」
「言われなくてもそうするさ!あんたがこの村を、めちゃくちゃにする前にな!」
乱暴に主賓の机を蹴り上げた後、その男だけが真っ直ぐ出口へ向かっていく。その後、片手に数えるだけの人たちがついていった。
音楽が再び流れ始める。私は主賓席の隣に座りながら、食べ物が次々と運ばれているのを見届ける。ジルトハインのお抱え料理長が、父に言われて用意した食事だ。うなぎのパテ、兎のシチュー、こんがり焼けた雄鶏と子豚の丸焼き。下座にいる客人は、ナイフを片手に素手で平らげる。
父には見てもいられない光景だろう。貴族たちには最低限、肉刺しを使って食事をする作法がある。
「食わないのか?」
隣で食事を楽しんでいたオルグレイドが、手を止める。先ほど、彼が皿に盛り付けたものには、色とりどりの野菜から肉が広がっていた。まるで何かの拷問みたいに。
「こういった宴の場で、花嫁はご飯を食べてはならないのです」
「そういう決まりがあるなど、初耳だ」
空腹でお腹が鳴りそうだったが辛抱だ。すると彼は手を止めて、食べる速度が若干ばかり遅くなった。ワインをこぼし、さらにはご飯も共にしないなど興ざめも良いところだ。
「ワインのこと、すみませんでした」
「お前のせいじゃない」
手が震えるのを抑えるように、母が残したドレスの裾を握りしめる。祝いの席を滅茶苦茶にした花嫁など、目障りで仕方ないだろう。私はできるだけ口を閉じ、それ以上は酷いことを言わないようにしていたが。
歌い踊り騒ぐ宴の空気が、再び盛り上がりを見せると、どうしても面白いことが閃いてしまって仕方なかった。
サフィラスによれば、兵士たちは酔うと鍋や樽を頭に被るらしいとか。変顔大会といったような、地上におけるどんな生き物よりも不細工で面白い顔ができるかを競い合ったり。食いつき対決では、手を使わないでリンゴを食べるなど。宴といえば、そういった面白いことの連続らしい。
けれど、サフィラス亡き今、この手の話がすっかり人々の前から置き去りにされていた。




