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4 ワイン

二つの儀式が終わる頃には、秋の日が暮れかけていた。次は丘の城に戻り、楽しい宴(うたげ)が待っている。本来なら、新しい夫婦が丘を登って歩く姿に、人の道ができるのが恒例(こうれい)だ。けれど、足の悪い父を考慮し、私と父が馬車に乗り、オルグレイドは先に会場へ行った。

馬車の個室は、向かい側の膝と膝が当たるほど小さい。だからこそ、父はここを、私情を挟(はさ)む場として選んだのだろう。車窓(しゃそう)さえカーテンで閉じてしまえば、民が手を振ってくる姿も遮断(しゃだん)できる。キスを求めたあの子供も今は落ち着いているようで、静かな道だった。


杖に額をあずけながら、父は揺れる馬車の中で、深く息をつく。隣に置かれた酒瓶(さかびん)を取り上げ、慣れた手つきで封(ふう)を切った。途端に、車内は甘酸(あまず)っぱい香(かお)りに満ちる。


「これを、オルグレイドに注(そそ)いでやりなさい」


「……ワイン、ですか?」


「火の民というのを、お前は知らない」


父は私を見つめた。その目に光は宿らず、この世の現実だけがありありと映し出されるようだった。


「三日三晩(みっかみばん)、花嫁を離(はな)さないと言われる奴らだぞ。他国から女を略奪(りゃくだつ)するとも聞いた。どうにかして、新鮮(しんせん)なワインで、気を静(しず)めさせてやれ」


それはお酒好きな父が、ジルトハインで買い集めた、上物(じょうもの)だった。これで自分の身を守れと言う父に、私は胸の奥が熱くなってくる。


「……ですが、お酒が入って暴(あば)れでもしたら、どうするのですか」


あの男が手を振り上げたら、私の顔が潰(つぶ)れそうだ。未婚(みこん)である状態を示す花冠(はなかんむり)を取り上げる。繊細(せんさい)なカスミソウはその涙を落とすように、手の中で簡単に散らばった。父はそれを悲しげに膝へ置く。


「お前は誰よりも、私を尊敬(そんけい)してくれているであろう?」


「それは……もちろんです」


「こんないい娘に、火の子を産(う)ませるなど、考えるだけで吐き気がするんだよ。純粋(じゅんすい)な血を継(つ)がせるためには、穢(けが)れは避(さ)けねばならん。だが、聖剣(せいけん)を持つ者を、ぞんざいに扱(あつか)うこともできまい」


乾いた艶(つや)のない父の手が、私のヴェールを取り上げる。いつにも増して、私を見てくれる時間が長く感じられた。


「ベッドに入る前、これでオルグレイド様を、寝かせてしまえということですね」


「そうだ。これがお前の役に立つ。式で口づけのチャンスを与えてやったのだから、お前が気を張る必要はない」


「わざわざ、私のために……ありがとうございます」


「礼を言うのはまだ早いぞ、ネリネ。いつかお前が、あの男の不祥事(ふしょうじ)を暴き……聖剣さえ、この手に戻るまでは」


ワインを受け取ると、父は私の手を握った。

だが、暗くなった父の目が、真珠の首飾りに届くと、その手が外(はず)れてしまう。


「真珠ではなく、紫水晶(アメジスト)にせよと、私がお前に持たせておいたのはどこにやった。」


「お城に置いて参(まい)りました。ですが、この真珠も良いとは思いませんか。」


母の形見(かたみ)の首飾りに触れる。一度でいいから、着けてみたかった。そしたら父は、母を思い出して懐(なつ)かしむだろうと思ったから。しかし父は疲(つか)れたように背をもたれる。口癖(くちぐせ)からするに「余計(よけい)なことを」とでも出てきそうだった。


「ずいぶんと古い宝石だ。年頃(としごろ)の女がつけるものと言えば、もう少し澄(す)んだ色のある石にすべきだろう。まったく、お前は私の言ったことを、一言一句(いちごんいっく)、忠実(ちゅうじつ)に守っておればいいというのに」


真珠の連なる首元をさすりながら、私は父の膝下を見た。昔から、私が言うことを聞かないと、父は厳(きび)しい顔つきになる。でも、これだけは外せなかった。父と母が並んでいる肖像画(しょうぞうが)は、広間(ひろま)にあるあの一枚しかないのだ。

馬車の揺れが止まり、使者(ししゃ)に扉が開けられる。城の兵士の宿舎(しゅくしゃ)には、すでに村人たちが一階で集まっていた。


「ともかく行っておいで。くれぐれも、お前の役目を果たすためにだぞ。我がジルトハインの栄光(えいこう)は今に戻る」


父とはここでお別れだ。私は頭を下げた。


「あの男の思い通りにはさせません」


些細(ささい)な誓いを済ませた後、馬がそのまま引き返していく。これから自分の身は、自分で守らなければならない。私はワインを胸に抱き、自由な音楽が奏(かな)でられる宴の会場へ、足を運ぶ。

その瞬間、村人たちが両脇(りょうわき)から拍手喝采(はくしゅかっさい)を浴(あ)びせてきた。長机の通路を通り抜ける間、彼らは期待の眼差(まなざ)しとともに、涙を浮(う)かべる。


「とうとう、ネリネちゃんにもこの時が来ちまった。この村一番の、花嫁だよ」


「ああ、綺麗だ。まるでどこかの姫(ひめ)さんだなあ」


「どの男が相手でも、不釣(ふつ)り合いになっちまうよ。勿体(もったい)ねえ」


様々な賞賛(しょうさん)が交わされる。村中の人々が集まった食堂は、あふれんばかりの熱気だった。彼らが長椅子から身を乗り出してくるために、人足をかき分けるだけで、もつれそうだ。

オルグレイドは上座で、私の持つワインが杯(はい)に注(そそ)がれるのを待っている。どうせなら、招待客(しょうたいきゃく)たちが埋(う)め尽くす四つの長机を、順番に眺(なが)めているだけであって欲しいのに。なぜかその視線は、私のワインだけを見つめている。


「ネリネちゃん、おめでとう!」


甲高(かんだか)い声が上がる。手袋(てぶくろ)越(ご)しに滑りそうな瓶底(びんぞこ)を支える。

これをオルグレイドに。宴の間、浴びるように飲ませなければ、夜が来てしまう。そうなっては、期限付(きげんつ)きの結婚なのに、私は彼に弄(もてあそ)ばれることになってしまう。

そのとき、誰かが私の背中を叩いた。強い。私は悲鳴を上げる前に、ドレスの裾を踏み込み、体が倒れる。地面が近づく間際、手の中の瓶が宙(ちゅう)を舞った。

ガラスの破片が飛び散り、けたたましい音が、楽しげな音楽を断(た)つ。赤いワインが、オルグレイドの頭に、滝(たき)のように滴(したた)り落ちていた。


時が止まる。

笑い声が消える。

開いた口が閉ざされる。


うるさいほどの静寂(せいじゃく)が耳を打つ。私は許されざることをした。新婦(しんぷ)が新郎(しんろう)に注ぐ最初のワインは、これからの名声(めいせい)と名誉(めいよ)を祈(いの)る慣(なら)わし。それを失敗するのは、まずあり得ない話だ。そんな話すら聞いたことがない。だが、起こってしまった。

オルグレイドは微動(びどう)だにしない。赤銅色(しゃくどういろ)の髪から、血のように濃いワインが滴る。服も、顔も、全身が濡れていた。上等(じょうとう)な衣服にシミができた時、父にどれほど恐(おそ)ろしい顔を向けられたことか覚えている。胸の痛みが蘇(よみがえ)るとともに、ひゅっと喉(のど)が鳴った。


「あ……あの……申し訳」


声が出ない。オルグレイドがゆっくりと、その場で立った。私を見下ろす赤い瞳が、怒りに煮(に)えた父の目の色と重なる。

鋭く、冷たく、まるで獣(けもの)が機会をうかがっているような。


「お前」


その一言に、会場が凍(こお)りついた。かがり火に照らされた大きな影が、こちらにまで伸びてくる。


「誰の妻だろうと、乱暴は許されることじゃねえ」


彼の視線が私の肩口へと通り過ぎる。、後ろを振り向けば、一人の男が通路で青ざめていた。


「お……俺は、ただ祝うつもりで、わざとじゃ」


「お前のせいで、彼女がワインをこぼした」


オルグレイドが淡々と言った。それに男は震(ふる)え、拳(こぶし)を握(にぎ)る。その顔は赤い怒りに染まっていた。


「俺は昔から、ネリネ様を……いや、このテルメア村がみんなで守ってきた子だ!あんたにとやかく言われる筋合(すじあ)いはねえよ!」


唾(つば)すら飛ばす威勢(いせい)の良さに、周(まわ)りのものたちがざわめいた。男は私の肩(かた)にぶつかるのにも構わず、オルグレイドが立ち尽くすところへ、駆(か)け上がっていく。


「サフィラス様から聖剣の横取(よこど)りしやがって。あんたみてえな火の民に、俺たちの水の村を任せられるわけねえだろ!とっとと魔物に喰われちまえ!」


耳を塞(ふさ)ぎたくなった。その言葉は父がよく言っていたから。死んでもいい聖騎士などいないのに。オルグレイドは表情ひとつ変えず、外を指差(ゆびさ)した。


「出ていけ。……俺を憎(にく)むものは、この宴(うたげ)に踏み入れるな」


「言われなくてもそうするさ!あんたがこの村を、めちゃくちゃにする前にな!」


乱暴(らんぼう)に主賓(しゅひん)の机(つくえ)を蹴(け)り上げた後、その男だけが真っ直ぐ出口へ向かっていく。その後、片手に数えるだけの人たちがついていった。

音楽が再び流れ始める。私は主賓席(しゅひんせき)の隣に座りながら、食べ物が次々と運ばれているのを見届ける。ジルトハインのお抱え料理長が、父に言われて用意した食事だ。うなぎのパテ、兎(うさぎ)のシチュー、こんがり焼けた雄鶏(おんどり)と子豚の丸焼き。下座(しもざ)にいる客人は、ナイフを片手に素手(すで)で平(たい)らげる。

父には見てもいられない光景だろう。貴族たちには最低限(さいていげん)、肉刺(にくさ)しを使って食事をする作法がある。


「食わないのか?」


隣で食事を楽しんでいたオルグレイドが、手を止める。先ほど、彼が皿に盛り付けたものには、色とりどりの野菜から肉が広がっていた。まるで何かの拷問(ごうもん)みたいに。


「こういった宴の場で、花嫁はご飯を食べてはならないのです」


「そういう決まりがあるなど、初耳だ」


空腹でお腹が鳴りそうだったが辛抱(しんぼう)だ。すると彼は手を止めて、食べる速度が若干(じゃっかん)ばかり遅くなった。ワインをこぼし、さらにはご飯も共にしないなど興(きょう)ざめも良いところだ。


「ワインのこと、すみませんでした」


「お前のせいじゃない」


手が震えるのを抑えるように、母が残したドレスの裾を握りしめる。祝いの席を滅茶苦茶(めちゃくちゃ)にした花嫁など、目障(めざわ)りで仕方(しかた)ないだろう。私はできるだけ口を閉じ、それ以上は酷いことを言わないようにしていたが。

歌い踊(おど)り騒(さわ)ぐ宴の空気が、再び盛り上がりを見せると、どうしても面白いことが閃いてしまって仕方なかった。

サフィラスによれば、兵士たちは酔うと鍋や樽を頭に被るらしいとか。変顔コンテストといったような、地上におけるどんな生き物よりも不細工で面白い顔ができるかを競い合ったり。食いつき対決では、手を使わないでリンゴを食べるなど。宴といえば、そういった面白いことの連続があるらしい。

けれど、サフィラス亡き今、この手の話がすっかり人々の前から置き去りにされていた。

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