3 口づけなき結婚式
送別を終えた翌日。私は早速、テルメア村の集会所の個室で準備を始めていた。すでに集会所の広間では人が集まっていて、厳かな空気が控え室にまで伝わっている。立て続けに起こる異例な行事も、民は祝いを上げるつもりでいるらしい。私もまた、そうするしかない立場だった。
ジルトハイン家から持ってきたドレスに身を包む。
薄い絹でできたドレスは、冬の味気ない空と似ていた。けれど、胸を飾る真珠の首飾りは、虹色を秘めている。海の底でじっと身を潜め、己の芯を磨いた貝にしか、こんな色は出せない。それはジルトハインに代々伝わる、花嫁が身につけていた、自慢の首飾りだ。
鏡の中の自分を見れば、真珠だけが美しく見えた。私自身は、相変わらず素朴すぎるけれど。このドレスを着たいと願ったことは確かにあった。城の広間に母と父が並ぶ肖像画が飾られていたから。若い二人がこちらを見つめる絵には、幼いながらその幸せに憧れた。
もっとも、この式を画家が絵にしようものなら、不幸を寄せ集めた絵画になりそうだが。
「こりゃ驚いたねえ。あんた、立派なドレスを着たら、見違えちまう」
「今日は場所を貸してくださって、ありがとうございます、パウラさん」
「お礼なんて、こっちが言いたいさ。ここはお酒に飲んだくれる親父のたまり場だからね。ご令嬢が式を挙げた場所になれば、ご利益もあったもんだ」
昼間は集会所、夜は村のみんなが一服する居酒屋としてここは機能している。管理者である年配のパウラにとっては、村の人たちが熱を入れて集まっていることに、希望をもてているのかもしれない。
その希望がつぶれないかは、鏡に映る私へかかっていた。昔から縁談話の一つ、持ち上がってこなかった花嫁に。
その拍子に、後ろにいた使用人が背の紐を通し、体の形がわかるほど締め上げた。息が詰まる。朝食が戻りそうだ。
「この着せ方は慣れませんか?」
「いつものは後ろに紐なんてついてないもの。お父様がくれたドレスは、一人で着られるよう、紐が前にあったわ」
腕を組むマーヤに、パウラが鏡の中に割り込んで来る。後ろから続いた懐かしい顔には、私もふっと笑みが溢れた。
「クロリス、久しぶり」
彼女に話しかけると、編みかごの中に盛った花を片手に、私の髪へあてがってくれる。
「カスミソウを採ってきたんですけど。これかぶせちゃったら、ネリネ様がお空に行かないか心配です。純白のドレスをこんなに輝かしく着れる人なんて。太陽が嫉妬してしまいそうですよ」
「ああもう、あんたが泣いてどうすんだい、クロリス」
年の近いクロリスからしたら、少し先の未来を見るようで、私を目前にするのが怖いのかもしれない。けれどパウラは容赦なく、クロリスを退かして前に出た。
「ほら、ネリネちゃんの髪を下ろすよ」
腰まで長い髪を、十年以上も軽く束ねてきた髪紐があっけなく解かれると、薄水色の髪が、肩を滑るように流れた。それを呆然と見る私の目は、死んだ魚のように青い。
「あんたの髪を、あたしが結い上げたこともあったけど。癖がなくて梳かしやすいね」
「でも、ネリネ様が豊かな巻き毛だったらって、想像もしませんか。まっすぐな髪だと健康的な感じが出ますけど、お人形さんみたいにちょっと大人しいっていうか。もし巻き毛だったら、それこそ花の女王様って感じで。うちならネリネ様に、女王様ってひれ伏したくなります」
「この期に及んで……減らず口だねえ、クロリス?」
「どうせなら、こうなってしまう前に、白馬の王子様が来てくれたらいいのに。なんで王子様っていつも遅刻気味なんだろう。まだ道端にいるなら、すぐ馬の尻を叩いてやらなくっちゃ」
花から冠を紡ぐクロリスの質問に、私は思わず吹き出した。
「白馬を叩いちゃったら、王子様が落馬してしまうから、危ないわよ」
「王子様が来なくなったら、その時ですよ。うちがネリネ様に永遠の愛を誓うので」
「もう、クロリス。私はこうなったことに感謝しているわ。城でお父様と老いてしまうより、お役に立てるなら……村のためにも、必要なことよ」
たとえ望まない相手でも。誠実を尽くす覚悟は、とうの昔にできていた。その相手はもちろんオルグレイドではない。父や村のみんなのためにだ。
パウラが後ろで櫛を通すのを止めると、クロリスは私の頭に薄い絹の布を被せた。そのヴェールの上に、カスミソウの花冠が乗せられる。白く小ぶりな花々は控えめで親しみやすい佇まいだ。まるで花嫁になる私の背中を優しく撫でて、勇気づけるかのようだった。
「さあ、人生で一番綺麗な姿を、目に焼き付けておきな。あたしは酒飲み亭主に不倫されて、逃げられちまったけど。結婚したてのときは、可愛がってもらったもんさ」
「パウラおばさんにそんな経験が?」
「男ってのはどいつもこいつも、そんなもんだよ、クロリス。ネリネちゃんはそれも覚悟の上だろうけどね。男は……女に飽きたら妻がいようと、娼婦とか他の奴にいれあげちまうんだ」
これから、オルグレイドが娼館を利用するようなことがあったら、世間体が悪くなる。私はヴェールの下で口を歪めた。その時、パウラが両肩に手を置く。
「だから女は、自分の美しさを、胸に刻んでおくんだよ。裏切るような意地汚い男のことで、涙に暮れちまうんじゃない。いつだって堂々としていなくちゃね」
顔を上げると、三人の女性と目が合った。これだけの人が私を花嫁に仕上げてくれたのだ。滑らかな絹の手袋をはめ。集会所の広間につながる扉の前に立つ。両開きになっている扉の隙間から、向こうの景色が見てとれた。
壇上にいる父が剣を片手にする。その足元でひざまづくオルグレイドの肩へと。鈍く光る剣先が当たった。
「いつになったら、この扉が開くんです?」
「しっ。お黙り、クロリス。領主様が、どんな思いで娘を送り出すと思うんだい。あんな男のために、儀式を直接、取りついでるんだからね」
「もしや領主様、娘を送り出すことで号泣しているとか?」
傍でこそこそと話をするパウラとクロリスも、少しずつ声量を小さくしていく。針が落ちても音が聞こえてきそうだ。会場の静けさが手に取るように分かる。村の人たちが全員入れるほど大きな集会場を、今度は父の声が支配した。
「聖剣を手にした者は、聖騎士として特別な使命を負うのだ」
永遠の泉に住む精霊と共に、はるか古の王が作った道具。それは国のために振るわれるものとして、重要な意味を持つ。手にした者には地位が与えられ、その忠誠心を水の国に捧げるのが義務だ。
だが、火の民のオルグレイドに、忠義を尽くす心はあるのか。
「良いか、オルグレイド。お前の首を刎ねるのは他でもない、この私だ。それを心して、気高い誇りを持ちなさい」
今にも父が、新しい聖騎士の首を刎ねてしまうのでは、と私は喉の奥が閉まった。それこそジルトハイン家の損失を減らす、最も確実な方法だ。しかし、村人たちの前で、血に濡れるような行いをしては、混沌を招く。
父はそうなることも把握しながら、オルグレイドを脅すことで、彼に釘を刺し、同時に村人を安心させている。
「さすがお父様……」
一人で父の姿に胸を打たれていると、途端にラッパが鳴った。肩打ち儀礼が終わった合図だ。広間への扉が、私の前で開け放たれる。横並びの長椅子に座る村人たちが、一斉にこちらへと注意を向けた。
今度こそ、私の番だ。
壇上へ続く回廊を、重い足取りで踏み出す。ドレスの裾を踏んでしまわないよう、後ろにはクロリスが付添人としていた。それに続いて、採光窓から真昼の金色なる光が届くと、胸元の真珠は黄金より輝いた。
会場の目が集まろうと、姿勢を丸めるなんて必要はなかった。堂々たる歩き方で焦らず進む。
近づくほどに、父の顔も冷酷な影が消えていく。想像していたものとは違うが、父も一人娘がもらわれること、またその晴れ姿を見れたことに、心の端でほっとしていそうだった。
オルグレイドの隣に立つ。彼の胴衣は膝下まで伸びていて、見事な濃紺の生地に、草木の模様が、光の反射で浮かんで見える。祝いの席には十分すぎるほど、上等な衣装だ。隣にたどり着く頃には、その上品さが父にも引けを取らないとわかった。赤髪を後ろに撫で付け、姿勢を良くしていれば、確かに彼は私と同じぐらいに若く、私よりよほど聡明に見える。
ただ、その隣に並ぶと、彼の大きさは異様なほど目に余った。
「この日より、お前の夫となる人を、愛し続けると。ネリネ、誓いなさい」
愛を誓えなど、あくまで形式にのっとった式だ。民の前で恥をかくわけにもいかず、私はなるべく澄んだ声で返す。
「はい、誓います」
緊張のためか、大きな会場で震えるような響きになる。父はすぐに私の隣に立つオルグレイドへ、「続けよ」と促す。剣を鞘に納めた彼は、私に体を向き直した。
「誓おう。この剣にかけて、夫となることを」
なんて実のない言葉だろう。「長くもたねえ。」と言われたことが頭によぎった。彼の方だって私より長くもたないだろう。武勲さえ上がれば、彼にはもっといい縁談が来る。それまでの繋ぎとして、私が妻になるのだから。けれどドレスを着られたことまで悔んではならない。会場に集まった人の分だけ、私は祝われている。
立会人である父は、私とオルグレイドの手を掴み、私たちを無理やり繋ぐ。私の手は冷たく骨ばった父の指から、熱く油っぽい手のひらへと移る。
「娘よ。新しい騎士が馴染めるよう、祝福のキスぐらいしてやったらどうかね」
父の声は穏やかだった。村の人たちの前で接吻をすれば、オルグレイドへの仲間意識が強まる。それは命令でもあり、気遣いでもあった。しかしオルグレイドがわずかに身を引く。
「領主殿、今はサフィラスの葬儀から日が経ってもない上に、彼女も望まないだろう」
率直な言葉には、拒絶がこもっていた。彼にとって、この村に馴染むことは精進に関わるから、重大なこと。それでも父の厚意を受け取らないということは—――
父は会場に響かないよう私たちへ声を潜める。
「父の望みが娘の望みだ。今すぐここでせねば、お前の名誉に傷がつくぞ」
頭が真っ白になった。私はこれだけの衣装をめかし込んでおきながら、伝統的な口づけすら避けられるなど。控え室でつけてもらった自信すらも打ち据えられるようで、めまいがした。
けれどその時、どこからともなくくすくすした笑い声が響いてくる。
「あの男の人、恥ずかしくてチューできないんだ!」
「パック!お行儀良くなさい!」
長椅子で足をぶらぶらさせていた男の子は得意げな顔でこちらを見ていた。
「だって、結婚式でチューするってお母さん言ってたじゃないか。僕はそれが見たくてここに来たんだよ」
「あんたって子は!」
母親が手を引いて男の子を外に連れ出そうとする。するとキスを見たさに男の子は母親とは反対の方向へ歩き出した。こちらに唇を突き出してくる。
「チュー!チュー!」
男の子が盛り上げると、村の人たちも手を叩いて「やれやれ!」と騒ぎ出す。完全に父も場を納められないと悟ってか、オルグレイドを急かすように見た。
当の新郎は迷いもなく、私の手に指輪を滑り込ませる。まるで面倒ごとを切り上げるかのように。
「式は終わりだ」
村人たちに向かって、彼はそう宣言した。その刹那、村の人たちの熱が急速に冷めていく。キスを見たがっていた男の子は、母親に強く引っ張られ、破裂するような声で泣き出していた。思い思いに拍手が送られる。
みんなで壇上から集会所の外へつながる道に、花びらを飛ばして私たちを祝福してくれた。




