下書き
相変わらず旗作りの手は止まっていた。彼が帰って来たからといって、日常は日常のままだ。
「思いつかないのは、見てないせいよね」
サフィラスのことなら、たくさん見てきたから、いくらでも作れる自信がある。でもオルグレイドとは、知り合ったばかりだ。
それに、彼とまともに会話できるような時間も力もない。そうなれば、遠くから見ることが一番だろう。
朝の支度が一通り終わったころ、私は中庭に出向いた。そこでは朝から兵士の訓練が行われる。オルグレイドが剣を握っている姿と言えばここしかなかった。もっとも、彼が手にするのは重りのついた木剣だ。
廊下の窓枠に肘を置き、木の板へ布を広げる。四方を釘で止めておけば、風で飛ばされることはない。暖炉に余っていた木炭を片手に、線を引いた。
布の隅に手を置いて、その動きを追う。棒でできた人を描き、まずは軸をとらえる。しかし量感がつかめない。オルグレイドの背は大きすぎて、描き慣れたサフィラスの肉質と違う。
一度、布につけた炭は消せない。指の腹で伸ばし、私は彼の肉体をなぞるようにぼやかした。顔はさらに影で埋もれている。表情が描けない。だが、とりあえず剣を握っている姿勢は絵に留められた。
兵士と並びながら、彼は素振りを続ける。
私は手元の布が埋まるまで、何度も彼を見ては描いた。だんだんと、剣を構える彼の姿勢が、型にぴたりとはまる。あともう少し。彼を描きたいと思った時、城門から楽しげな声が聞こえてきた。
「お菓子を持って来たわよ」
村の女の子たちだ。ボニーを中心とした若い娘たちは、オルグレイドや周りの兵士たちにお菓子を配り始めた。思えば、そろそろ昼の時間だ。サフィラスがいた時も、こうして兵士たちを労りに、女の子たちが来るのはたびたびあったことだった。兵士たちが受け取るそれは、ガレットだ。厚く硬く焼き上げたクッキー生地は、さぞかし食べ応えがあるだろう。
「これ、いつもより甘いぞ!」
一人の兵士が笑みをこぼせば、ボニーが胸を張った。
「朝からバターを作った甲斐があったわ。ずっとミルクを棒でつついて、腕が張ったぐらいよ。」
「朝から気が利くな、ボニー。俺たちのために、ありがとう」
一階の廊下からは、見晴らしがよかった。ボニーが包みを差し出しているのさえ、絵にできそうだ。彼女は綺麗なおさげを揺らし、爪の先までつややかで。とても、絵になる女の子だった。旗に城主の妻を描くとしたら、彼女を参考にした方が映える。彼女もきっと、私には灰が似合うと言うに違いない。そう考えていた時、赤い目と目が合った。
私は廊下の影に身を潜め、無我夢中で描くふりをする。ボニーから受け取るのを、気にしていない顔を装って。兵士たちのにぎやかな声。けれど私の耳には、足音が近づいてくる。
「さっきから、じろじろ見てただろ?」
窓から身を乗り出して、彼が尋ねに来た。私は髪を耳にかけ直す。
「あなた様を見てるわけじゃないです」
「……俺じゃねえなら、どこ見てんだ」
「お気になさらず」
突っぱねたつもりだが。オルグレイドはボニーのお菓子を受け取りにもいかない。その場で休むのか、汗が顎から滴り落ちていた。急に静かになる。今ならもっと描きやすそうだが。
「……お怪我の具合はいかがです」
オルグレイドはふんと息をつく。
「酷いもんじゃねえよ。かすり傷だ」
「ですが……汗がすごいです」
「鍛錬でかいてるだけだ」
腰帯にひっかけていた布巾を差し出すが、彼は受け取らなかった。
「お前、何かやってんだろ」
窓から彼が手を出してくる。私は咄嗟に、下敷きにしていた板を抱き寄せた。出来栄えが悪いのは見せられない。すると彼は、軽々と窓枠を飛び越えてきた。拍子抜けしたまま、木の板を掴まれる。
「ちょっと、あ!」と情けない声で、必死に取られないよう引っ張った。
「問題でもあんのか」
腕前を笑われるだけだ。兵士の前で公開処刑など耐えられない。首を横に振って抵抗するが、彼の力には勝てなかった。その気になられたら、力でねじ伏せられるけれど。彼は強引にはしてこなかった。
「そんなに隠すってことは、気まずいもの、描いたんだな」
「気まずいもの?」
「若い兵士が素振りしてんだ。そこに村の女が菓子を配る。お前が……菓子の代わりに、絵を送るのも変じゃない」
それではまるで、私が他の兵士に情を隠しているみたいだ。彼が兵士たちに疑いの目を向け始めては、可哀そうだし。そのような噂もたまったものではない。
「……そんなにおっしゃるなら、勝手にしてください」
私は木の板ごと押し付けた。赤い目はそれをまじまじと眺め、そのまま木の板を横にしたり、逆さにしたりする。
「これ……俺、か」
「下手だって言いたいなら、言えばいいです」
布一杯に描かれた姿勢を見て、彼は何を思ったのか、小さく頷いた。
「ちゃんと振ってる」
「はい?」
「ここ」
炭で描いた腕の部位を指しては、「振れてる」と繰り返す。しばらく、絵の動きに視線を落としている様子だった。
「勝手に描いたのは……謝ります」
話を繋ごうとしたが、彼は何も言わなくなった。その沈黙に気が散ってくると、周りの兵士たちが、こちらに視線を向けてくる。
「隊長、何見てるんです?」
「俺たちにも見せてくださいよ」
そんなことをされては困る。私はオルグレイドから取り上げようと手を伸ばしたが。彼は急に木剣を兵士へ渡した。
「訓練は終わりだ」
「いいんですか!?やった!」
兵士たちは早々に両手を挙げた。その隙に、後ろ手に隠された絵を取り返そうと試みるが、彼が振り返ってくる。
「時間、あるか」
「それより、絵を」
板より先に彼の手が伸びてきた。手を引かれ、廊下を素通りしていく。別室に連れ出されたと思えば、オルグレイドは椅子を勧めた。
「こういうの、兵士たちに役立つ」
「……はい?」
「姿勢を覚えるまで、絵を参考にしたら分かりやすい。仲間うちで振り返りやすくなる」
「これは、旗のために描いてるんです」
悪いが兵士のために付き合ってる暇はない。早く旗の構図を決めなければ、と気が急いていた。
「描く道具がいるなら、街で買う」
「わざわざ、行かなくていいです」
「毛布がないんだ。そのついでにな。石板とロウ石はどうだ?」
それは子供のころから欲しかったものだった。でも父が、絵を描くことには、あまり関心を向けてくれなかったから。私は手を黒くさせた炭を払った。
「そんなの買う余裕があったら。従者を雇って、武器の手入れでもしてもらってください」
板からぼろ布を掴み上げる。機織り部屋に戻り、仕切り直そうとした。だが、布の中に描いたはずの絵は、すでにぐちゃぐちゃになっていた。丸めた際にそうなったのだ。炭に戻った絵を見ては、肩が落ちた。
それでもそこに描いていたときの手の動きは、体が覚えている。もちろん、旗を作るには、まだほど遠い。だからもっと描かなければならなかった。




