濁り
城主が魔物討伐に出て行ってから、四日目の夕暮れ。厨房の炉の煙は、壁に開いた通気口から、白く伸びていく。鍋の湯がぐつぐつ揺れる音と、薪に湯がこぼれて、じゅっと焦げる音が跳ねる。白く溢れ出すスープを眺めながら、私はロライトを抱き上げていた。
「さあロライト。栄養満点のおかゆよ。ちょっと熱いから、ふーふーするわね」
スプーンを取ったが、赤子は興味を示さなかった。私の顔を見上げてパッと笑う。
「ぁうっ!」
「可愛い子。見れば見るほど、サフィに似ているわ」
青い瞳から、サフィラスを彷彿とさせる知性が出ている。
「お鼻はミア様に似たかしら。将来はきっと形のいいお鼻になるわ」
ちょんと鼻先をつついた。すると赤子は、もっと愉快そうに笑う。
「あなたがいてくれなくちゃ。とっくに、ジルトハインへ戻っていた気がするの。だからあなたがここにいてくれて、とっても幸せよ」
サフィラスの忘れ形見。それだけが私をここに留める。赤子は何一つ知らずに、きょとんと首を傾げていた。
私はその小さな口へと食事を運ぶ。マーヤがロライトのおしめを洗いに行っている間、こうして彼の面倒を見るのが、束の間の休息であった。ロライトが食べ終わるのを見届けると、彼の頭が肩に寄りかかるよう姿勢を変える。
「ゆっくり、おくびを出しましょう」
赤子の小さな背をリズムよく、小さく叩く。
「奥様、ロライト様の面倒を見てもらって、すみません」
「良いのよ。もう少し、一緒にいたいぐらいだもの」
マーヤが帰ってきても構わずに世話をしていたが、やがてロライトが小さく息をつく。頬に触れる柔らかい産毛を、離したくはなかった。けれどこの子は私の子ではない。マーヤの腕が割って入ってくる。
「先ほど、機織り部屋に行ってまいりましたが。刺繍が全然進んでないじゃないですか」
「ちょっと疲れてるの。またすぐに始めるわ」
「あれが世に出るということを、くれぐれも忘れないでくださいよ。ミア様の時は大丈夫だと確信しておりましたが。火の民が聖騎士となると、あらぬ誤解を招くことの方が、多いでしょうからね」
マーヤの言葉が炉の火にのまれる。ボニーに灰をかけられたなんて、よっぽど彼女に相談することではないが。
「もしかして、月の障りですか。もしそうなら、旗に取りかかれなくて当然です」
「あなたには誤魔化せないわね」
お腹を軽くさする。オルグレイドが遠征に行ってから、月ものが出てくれたことには、安堵していた。火の民と子ができては、父を失望させる。まだ期待に背いていない証明として、何より大事なことだった。
「ミア様は……一回だけで子供を授かったわけではないの?」
「ええ。サフィラス様と何度か試みてのことです。元からお身体が弱かったので、できにくかったのでしょうね」
「できやすかったら、一回でなるものかしら」
そのことについて詳しい彼女に尋ねるのは、万が一の安心材料のためだ。オルグレイドとなんて、もうないかもしれないが。再び矛先が向けられた時には、うまく断れる自信がなかった。
「奥様のように健康であっても、火と水ではできにくいと思われます」
「……そう」
それなら、妾の子だと言って、彼が城に連れて帰ってくることもないのかもしれない。そう思うと変に肩の荷が降りていた。マーヤはそんな私の顔を見て首を傾げる。
「まさか、お子が欲しいのですか」
「ち、違うわよ! あの人と欲しいなんて、一言も言ってないわ!」
サフィラスを見殺しにしたかもしれない相手なんだから。
「そう怒らないでくださいよ。場合によっては、奥様が悲しむんじゃないかって、こっちも言葉を選ぶんですから」
私としたことが。オルグレイドのことになると、妙に気が抑えられない。椅子に座り直して息を整えると、彼女が眠っているロライトをあやしながら言った。
「真剣にお考えください。聖騎士という仕事上、旦那様にもいつか死は訪れます。その日までに、奥様は後継を産むか。もしくは誰かと再婚することを見越して、身ごもらないよう、お身体に触れさせないことにするか」
「どっちか決めろと言うの?」
「これは奥様自身の名誉にも関わります。貴族の未亡人となれば、価値は高いでしょうが、火の夫をもっていたとなると、どちらに転ぶか、マーヤにも見当がつきません」
未亡人になれば、夫の持っていた財産も土地も、新しい夫に譲ることもできた。そのため貧乏な令息にとっては未亡人というのが優良物件にもなりえた。問題なのは、水の誇りをもつ貴族たちに、火の妻をもらってまで、遺産を得たい人がいるかどうか。
「でも、今のまま彼が死んだら、何も残らない。せいぜい、お父様のもとに、聖剣が返るだけよ」
「ええ。だからこそ、次がありましょう。聖剣が誰かの手に渡れば、奥様は今度こそ、良い人に巡り合えます」
「次って……人の命はそんなに軽くないわ」
「マーヤも言いたくありませんが。あの火の民が魔物に食われようと、知ったことではないのです」
私は耳を疑った。しかしマーヤは続ける。
「次の聖騎士が水の民であれば、むしろみんな清々します」
誰もが口にはしないけれど、そんなことを思っている。薄々気づいてはいたが、反射的に立ち上がった。
「清々なんてするわけない。それはサフィラスが間違いだったって、言うようなものよ」
「そうですよ。サフィラス様は、聖剣を渡す相手を間違えたのです。ロライト様がいながら、あのような男に。早くいなくなってくれたら」
「やめて!」
自分でも驚くほど強い口調だった。いくら赤子に泣きつかれても、文句ひとつ言わないマーヤが黙り込む。
「失礼いたしました」
彼女はそれだけ言って、ロライトを抱いたまま調理室を出て行った。一人残された厨房で、私は食器を洗う。
なぜあんなことを言ってしまったのだろう。マーヤは間違ったことを言っていない。
オルグレイドが死んでも、誰も悲しまずに終わる。
でも……割り切れなかった。
「寒い」
寝室には毛布がなかった。ボニーに灰をかけられた時、それすらも持って行かれたのだ。暖炉の薪も少なく、薪割りができるような気力もなかった。暖炉の前に絨毯を寄せ、膝を抱える。羽毛の詰まった枕だけが、私の思考を冷えから守ってくれた。
テルメア城の隙間風は酷く、石床は温まる気配がない。ジルトハイン城は、冬になると父が、「足が痛む」と言うから、暖を逃さないよう工夫されていた。でもこの寒さは、テルメア村の立地が大きい。ジルトハイン城より北に位置するこの城は積雪量が多いのだ。そんな寒さを疎ましく思うのか、父が口癖のように、聞かせてくれたのを思い出す。
「さらに北には、水の民も住めぬ寒冷地がある。そこで火の民は、火を絶やさずに生きているのだ」
子供ながら、にわかには信じられなかった。でもオルグレイドと出会ってから、認めざるを得ない。実際、彼が隣にいると、かけ布団を衣替えせずとも暖かいのだ。
そんな彼も今頃、誰と眠っているのか。
「あの人なら……どこにいたって、寒くないのでしょうけど」
手のひらを見つめた。爪の間に入った血の気配。初めての夜にあれだけのことをしたのだ。きっともう、私のことなど嫌いになっている。
そんな悲しい現実を見ないよう目を閉じる。
「サフィならどうしたかしら。温めたレンガか、お湯を入れた瓶をくれたかしら……」
体を縮め、朝を待った。眠れない夜がまたひとつ、過ぎていく。




