灰
彼が魔物討伐に行って二日が経った。
「秋の終わりって……こんなに冷え込むもの?」
機織りのある部屋の窓から外を覗けば、伸び切った前髪が吹かれて視界を遮る。耳に髪をかけ直しては、艶やかな紅葉に目を細めた。深く息を吸っては、心に細やかな新鮮さが塗り重ねられる。
一人で旗に刺繍の縁取りを施せば時間を忘れられた。ここ数日、クロリスたちがくる気配はない。夕暮れになっても姿がないことに気が削がれる。人がいなくても、作業をすることはできるが、村のことが聞けないと、問題が起きていないか心配にもなった。
衣替えのために干した厚手の毛布を取りに行く途中。裏口を出る手前で、川の音と共に、女たちの笑い声が聞こえてくる。
「ねえ、若い兵士って、宿に泊まれるらしいわよ」
「独り身なら、娼婦と会っても合法だからって、ちょっと遊びすぎよね」
彼女たちはにやりと笑いながら囁いた。その中でも際立って、狐の毛皮を首に巻いたボニーが、笑い声を高くする。
「でも確か、妻がいるとダメなんでしょう。火の男なら尚更、他所に手を出しては、誠実さが疑われるわ。夫婦としかできないってことは、相当溜まるはずだし。相手はあの地味なお嬢様なんだから」
女たちは川の手前で洗濯桶を並べていた。私は黙って干した毛布を取りに行こうとするものの、ボニーが「噂をすれば……」とわざとらしく言う。
「旗の進み具合はどうなのかしら」
「……順調です」
「あれを作るのに二週間もかけて、器量が悪いって思われても、あたしたちを恨まないでよね。まあ、あんたが頭を下げてくれれば、手伝わないこともないけど」
「結構です」
短く断り、去ろうとした。そのとき、何かが顔に降りかかる。視界が突然、白い靄に覆われた。
「っ……!?」
ひゅっと喉が鳴る。灰だ。洗濯桶の灰が頭から。焦げた木と脂の臭いが鼻をつく。
「何をっ……」
言葉が出ない。むせ返って咳き込むと、灰色の息が飛び出した。口の中が粘っこくざらつく。髪にも、服にも、異物がまとわりついている。
「灰を被らせたら、良い面構えになると思って」
ボニーの声がすぐ近くで聞こえた。彼女たちの笑い声は次第に重くなってくる。
「あんたはいつも死んだ魚みたいな顔してるし」
目が開けられない。手で擦ろうとしたが、瞼の隙間に入り込んできて、ヒリヒリ痛くなった。涙が出る。拭っても拭っても、瞼の奥に塗り込まれていく。私はよろめきながらも手探りで川に向かう。水を掬って顔を洗おうとするが、風が吹くたびに、髪の隙間から灰が落ちてくる。何度も灰を洗い落とそうとするが、肌に張り付いてきた。
「ボニー、ちょっとやり過ぎたんじゃないの?」
一人の女性が引いた声で言う。
「城主の妻に、洗濯の灰を被せるのは……」
「今は何したって罪にならないわよ。剛健で毛深いロッケ一族でさえ、火の民は煙に巻いてんだから」
ボニーがすぐに言い返した。
「それにあの火の男は、魔物討伐に行ってんだし」
「でも……」
「好きでもない女を、誰が守りたいっていうのよ?」
女たちが黙り込む。誰も私に、大丈夫かと聞く人はいなかった。
目頭が熱くなる。でもこれは、灰のせいで痛いだけ。怒りなんかじゃない。寂しさでもない。ただ痛いだけ。そう自分に言い聞かせた。
オルグレイドにとって私が誰に何をされようと関係ない。そんなのは初めからわかっている。オルグレイドがここにいたら、ボニーも下手に手出しはしない。彼の威圧的な存在が、今は恋しかった。あの赤い目で睨みつけてくれたら、誰もこんな真似はしないだろうに。肝心な時だけいない。
「あの男が帰ってくるまで、せいぜいあたしたちを楽しませなさいよ」
酷い侮辱を背にしても、振り返る勇気はなかった。ただ耐えなければ。父の言いつけ通り、波風を立てないよう。すべてのことを水に流す。それしか、私にはできない。
ようやく顔を上げられるようになった頃には、ボニーたちも、干した毛布もなくなっていた。濡れた髪が背中に張り付き、服も重い。このまま城内を歩けば、何があったのか誰もが気づくだろう。
寂れたテルメアの城だけが、冷たく佇んでいる。乾いた髪から灰の匂いがこぼれた。




