噂の確認
針に糸を通し、四角い旗の縁取りを始める頃。どこからともなく、扉を叩く音がした。周囲を見渡すが、すっかり日が暮れて、埃っぽい絨毯も冷え切っている。ノックは隣の部屋かと思い、再び手元に意識を戻すが、もう一度。それは今度、扉の向こうから聞こえた。渋々開けて、廊下を確かめると、そこには大きな影が立っている。
「オルグレイド様?」
黙したまま石像のように動かない彼に投げかける。その赤い目が爛々《らんらん》と輝いて見えた。
「飯ができた」
「わざわざご報告に来てくださったところ悪いですが。あともう少しなので、先に食べていただいても」
閉じようとした扉の隙間に、彼の手が飛んでくる。
「夜遅くまですると、目が悪くなる。今日は終わりにしないか」
「私を呼ばれなくとも、マーヤが面倒を見てくれますよ」
「食事を準備してたら、ロライトが泣きだした。それですぐ、マーヤが取り上げていったんだ」
使用人が主人を置いて持ち場を離れるなど、聞いてしまっては気まずくなる。長く座って固まった背筋を伸ばし、私は厨房へ向かった。
沸いた鍋を見るものは誰もおらず、白い泡が滴り落ちて、薪木を唸らせている。
「……後で言っておきます。あなた様に悪気はないって」
「いっそう怪しい目で見られるだろ」
彼は二つの椅子をどう並べるか、押したり引いたりして、間隔を広げたり狭めたりしていた。私の口でも、マーヤの態度を制限できない。それどころか悪化するかもしれないと言う考えは、彼自身も身をもって知っているみたいだ。
「そうかもしれません。出過ぎた真似でした」
私は匙を掴んで鍋の表面から汁を掬い上げた。熱を冷まして味見に一口。今晩のマーヤの手料理は、なんだか塩辛い。
「味見していただけますか」
もう少し水を足そうか迷ったため、彼に頼む。オルグレイドは私の手から匙を抜くと、熱も冷めないうちに、汁物をすすった。
「俺はこれより、薄めがいい」
「そうですよね」
彼とはすべての相性が悪いとしか言いようがないけれど、味加減だけは通じ合えて助かった。木杯で水を付け足しながら、彼が使った匙をエプロンの端で拭う。そういえばさっき、私に使ったのを平気で彼が使っていた気もするが。一瞬、舌の上が熱くなるのを感じて、食器立てへとしまう。
「今日は何をしていらっしゃったのです?」
私が尋ねると、彼は隣でパンをちぎった。
「森と村の見回りだ。魔物の気配がないか確認したあと、村人たちに顔を見せた。まあ安心させるためだ。この前は、雨でぬかるんだ道に車輪がはまったというから、助け起こすのに時間がかかった」
「それで昨日は、あんなに濡れていたんですね?」
「今日はまだ平凡な方だ。外を回って、午後は書類仕事。今年献上するワインの量を予測していた」
「パウラさんにも聞いたらいいと思いますよ。村の居酒屋も経営していらっしゃるので、お酒に関しては舌も肥えています」
民にもよく作物の状態を聞きながら、領主である父に帳面を出せば丁寧だ。助言のつもりで言えば、彼と膝が当たった。
「サフィラスが残した記録は、几帳面で書くのが難しい」
「なんでもできる人でしたからね。最初からあなた様に、そこまでやれとは思わないですよ」
「期待してくれてないってことか?」
気づけば、彼の食事をする手も止まり、鼻先が触れそうなほど、顔が近づいていた。
「少なくとも、俺を信用するやつは、ここにいない。領主も俺を警戒しているからな」
「どうしてそう思うのです?」
「火の民のくせに、聖剣を握ったって、どこ行っても聞こえる。お前は口にしないが、同じように思ってんだろ」
サフィラスの最後は、彼の腕の中だったと言われている。死に際に、彼のどの部分が良くて預けたのか、サフィラスが教えてくれていたら。オルグレイドに対して、こんなにあやふやな疑いを抱え続けることもないだろうに。
「でもいつか、村の人たちが心から納得できる日が、来るかもしれません」
サフィラスが功績を認められるためには、オルグレイドが良い後継者になるしかない。しかし、当の彼はふんと鼻を鳴らした。
「信用など、された試しもねえ」
唇を噛んだ。彼はサフィラスの選択を否定しているのだろうか。それとも、自分が選ばれたことへの責任を、そう表現しているのか。どちらにせよ、彼はその剣を努力して手に入れたわけではなかろう。風で落ちた果物みたいに、拾っただけに違いない。
パンくずを机から払い落とし、厨房の片付けを始める。私がホウキを手にすると、オルグレイドが裏口の外にある桶にお皿を運んだ。
「今日は私が洗っておきますから。先に寝ていてください」
「いや、俺が」
「あなた様はお酒でもあけて、楽しんではいかがですか」
父なら酒と聞けばすぐに飛びつく。静かな夜をもう邪魔されたくない。でもオルグレイドは帰らず、お皿を洗い始める。
「楽しみと言えば、お前が作る旗にどんなものが描かれるのか。村のやつが話してた」
オルグレイドの背を見つめ返す。薪を運んで来た晩のように、そこへ包丁を向ける気は起きないが。いい旗を作れと、さりげなく圧をかけられている気がした。
「もしひどいものなら、噂もいっそうひどくなりますからね。そうならないよう気をつけて縫います」
「……もっとひどいのか?」
彼が振り返ってくる。
「いえ。余計なことを滑らせました」
作業台にひっくり返した椅子をもとに戻すが、すでに言ったことの取り返しはつかない。裏口に埃を掃き出している間に、彼は手早くお皿を拭き終えている。ホウキを立てかけて帰ろうとした矢先、「どんな噂だ」と、彼が出入り口を塞ぐように待っていた。




