よそ者
一本の燭台を片手に厨房へ向かう。マーヤがロライトをあやしながら、湯気が立ち上がるスープの鍋を座って見ていた。
「奥様、遅かったですね。珍しく雨が酷かったですから、旦那様の寝るご準備は整えられました?」
「そのことだけど。今晩は、オルグレイド様がここに来ます」
「はて?」
マーヤが驚いて振り返った。胸の前に抱えられていた赤子も、口に入れていた手を出す。
「旦那様が?こんな粗末で、煤と油にまみれて、大して暖かくもない厨房に?」
「本人がそうおっしゃったの」
「さてはマーヤが、掃除の仕事をサボってるとお思いで、点検にこられるんですか」
「お城の巡回じゃないわ。一緒に食べたいと言い出したのよ」
「……奥様、そこはお断りくださいよ!」
「私だって何度も言ったわ。でも、一緒にって」
訳がわからない、というようなマーヤの表情を見て、ロライトは呑気に笑っている。不意に、彼らの視線が私の後ろに止まった。
「ネリネ」
背後から彼の声がして、私はマーヤに目配せをした。マーヤはため息まじりに、作業台を拭き始める。私が棚から木皿を四つ分持ち寄ると、オルグレイドは大鍋からスープをよそった。それを座って見ていたマーヤが、驚いたような声を出す。
「なんと、旦那様。髪がずぶ濡れじゃないですか」
布で匙の先を拭く傍で、彼らの話が自然と耳に入ってくる。
「まさか奥様、タオルも忘れたのですか?」
「……暖炉の前で干しても、乾かなかったから。もちろん、代わりの手拭いを探したわ。でも最近は、ロライトのおしめに使っているでしょう」
育児と家事に明け暮れるマーヤの手が足りず、ロライトのおしめをしっかり洗う暇がないのは知っているし。オルグレイドを怒らせたくないから、準備は万全にしておきたいのは、当然だった。しかし用意できなかったことには、取り返しようもない。
鍋の煮えた音が静まる頃、狭い厨房の真ん中にある作業台を四人で囲う。スープと硬いパンという、どう考えてもオルグレイドには物足りない組み合わせだったが。彼はマーヤの腕にいるロライトを、じっと見つめていた。
「……大きくなったな」
始まりは小さな声だった。それにマーヤが深く頷く。
「サフィラス様が亡くなってから、もう二週間が経ちますから。お父上が亡くなった反動か、いっそう成長に拍車がかかっておられます」
それを聞いて、大きな手がロライトの小さな頬に触れようとした、そのとき。マーヤがさっと赤子を抱き上げて立ち上がる。まるでオルグレイドから遠ざけるように。
「あとは夫婦だけで、スープを飲まれてはいかがですか」
彼女の声はいつもより硬い。ロライトも異変に気づいたのか、再び口へと手を入れている。
「マーヤは先にロライト様と眠ります。赤子に夜更かしは禁物ですから」
私が引きとどめる間もなく、彼女はロライトを抱いて足早に出て行った。置き去りにされたスープからは、まだ白くか細い湯気が立っている。オルグレイドは空を切った手を見つめ、何かを堪えるように動かなくなった。
「失礼いたしました」
沈黙を作っては悪いと思い、私は彼の皿を取り上げ、鍋からスープを入れ直す。
「マーヤはロライトを目に入れても痛くないほど、可愛がっております。私にもほとんど触れさせてくれないくらいですよ」
「……そのようだな」
まだ冷めやらぬスープを渡し直すが、彼は手をつけなかった。
「お前は、どうなんだ」
「どう、とは?」
「お前も……俺が触れるのは、嫌か」
私は息を呑んだ。彼は静かに顔を上げる。そこにはさっきまで燃えるようだった赤い瞳が、影の中でかすかに揺らいでいた。
「マーヤは俺を避けた。お前も同じだったろう」
彼の声は相変わらずぶっきらぼうだった。でもその奥に、傷ついたような響きがある。
「私なら、ロライトを可愛がって下さる人に、厳しくはしません」
マーヤは二人の主人を失ってから、過敏になり過ぎている。オルグレイドにとっては八つ当たりにも思えるだろうけれど。話し相手のパウラにだって赤子を滅多に預けない。
「お気になさらず。私も、マーヤにあしらわれることは多いですので」
彼はそこでようやく、スープに手をつけた。無言で一口、また一口と飲み続ける。私も具材のない汁をすするが。美味しくなかった。
オルグレイドは聖騎士でも、サフィラスの最後を知る人で。聖剣を奪った男だ。
そして娼館に通っているという噂。結局、彼が気にしている周りの目も、他所に埋め合わせができる場所があるなら。私が気にかけてやる必要など、ないではないか。
いつしか、厨房の壁にある炉は、夜の静けさに冷めていった。私はマーヤが残した分を甕に入れ、タライに水を張る。袖をまくったところ、横から影が差し込んだ。
「俺がやる」
オルグレイドがそう言うと、しゃがみ込んで食器を洗い出す。私はその様子を同じ目線のまま、固まって見ていた。
「食器洗いぐらい、俺でもできる」
「ですが、あなた様がすることじゃないでしょう。私の仕事です」
「眠いなら先に寝ろ」
口元に手を当て、なんとかあくびを堪えつつ。
「……質問してもよろしいですか」
何気なくいうと、オルグレイドが「なんだ」と食器を洗いながら、聞き耳を立ててくれる。
「最近、隣町へ行きましたか」
他愛もない会話になるよう話を振った。彼は手を止める。
「日帰りだ。それが?」
「何を買ったのか、把握しておきたいんです」
教えて欲しいと願えば、彼は指折に数えた。
「塩漬け肉に、肥料と、馬のまぐさ、鉄の釘、縄、革紐……買ったものなら、もっとある」
「でしたら、宿は?」
「宿?」
彼が首をひねった。
「泊まり込みで行く用じゃない。朝に出て、夕方には戻る。簡単な買い出しだけだ」
日帰りなら、宿なんて使わない。でも、昼間に娼館へ行っていたら、話は違ってくる。探りたい。けれどこれ以上、上手い聞き方は思いつかない。
「他に買って欲しいものがあるなら、明日にでも馬を」
「聞いてみただけです」
オルグレイドはしばらく私を伺うように待った。そして、また食器洗いの手を動かし始める。
「上で毛布を広げとけ。ここのところ、日が沈むとすぐ冷える」
言うとおりに、一足先に寝室へ戻った。毛布にくるまり、目を閉じる。でも眠れなかった。瞼の裏は完全に暗いのに、頭の中は忙しないほど動く。
オルグレイドは隣町で、何をしていたのだろう。本当に買い物だけで済ませたのか。
それとも、噂通り娼館に?
胸がざわつく。彼が他所に女性を囲ってようと、気にせずにいればいい。最初からわかっていたこと。しかし義務でも、夫婦という形を保つべく、頭が働いてしまうのか、考えを切り離せずにいた。
廊下から革靴の音が近づいてくる。扉の蝶番が鳴り、オルグレイドが入ってくる気配がした。私は目を閉じたまま、彼の言いつけ通りに寝ているふりをする。毛布が持ち上げられ、寝台がたわんだ。
「寝てるか」
低い声が耳元で響く。どんな返事で答えればいいかわからなかった。その時、背に何かが触れる。硬い指の感触だった。
「よそ者は……邪魔だったな」
私はぎゅっと瞼に力を込めた。ひたすら聞かないふりをした。




