提案
夕日の刻。寝室の暖炉を焚き、手拭を絞っていると、扉がたたかれた。
「今出るわ」
縄を吊るす時間をくれると思ったが、扉のノックがこちらを急かすように叩かれる。
「ちょっとマーヤ。そんなに叩いても、すぐに出られな……」
扉を開けると、そこには思うより何倍も大きな影があった。見上げなければならないほどの体格は、肩幅が水の民のどの男にも匹敵しないほど大きい。がっしりした図体は視界に収まらなかった。彼は腰から愛用のロングソードを解き、壁に立てかける。
「忙しいことでもあったか」
野太い声。私は雨にずぶ濡れた彼に微笑んだ。
「おかえりなさいませ、オルグレイド様」
彼には言い慣れない言葉だろうと、呂律を回す。濡れて重そうな外套を受け取ろうとするが、太い眉がぴくりと上がった。
「自分で干す。縄はこれか」
私が背伸びしなければ届かない、壁の留め金へ、彼は軽々とくくりつけた。
外套からシャツ、それから私が取り込んだばかりの布まで、その手が何もかもを吊り下げる。連なった干物は、一つずつ、豚の生皮のように並んでいた。
「兵士と村まで見回りに行っていたんだが。仕事を終えようとしたら、降られてな」
「それは……大変、でしたね」
ズボンだけになった彼に椅子を寄せ、なるべくねぎらう。平常心で会話をまとめよう。私は初夜以来、彼との会話にはどんどん慎重になっていた。
「湯船のご用意をいたしましょうか?これだけ濡れて帰ってこられては、お疲れでしょうし」
「お前は入ったのか?」
「本降りになる前に帰ったので、さほど濡れておりません」
「俺が入るだけなら、湯がもったいないだろ」
話しを切り上げるためなのか、暖炉の炎に手を伸ばす。
髪の毛先でもいじるように、暖炉の炎と指先で触れ合う。 火の民は炎で火傷することがない。どれだけ暖炉に近づいて手を突っ込み入れても、焼かれることがない肌は、分厚い鎧のようでもあった。
私なら一瞬で、水ぶくれになってしまうだろうけれど。流れるような沈黙が降りる。パチパチと薪の爆ぜる音だけが、部屋を満たした。
「村の奴ら、お前のこと聞きたがっていた」
吊り下がった外套から雫が落ちた。
「俺は……火の民だ。何かされてないか、心配しているんだろう」
その言い方に、わずかな自嘲が混ざる。
噂が立つのを恐れるなら、もう少し彼から歩み寄ってはくれなければ。愛想もないと、民だって彼を仲間に入れにくい。それぐらいの助言をしようか迷っていたら、不意に手首が掴まれる。
「これはなんだ」
熱い。火の民の体温はいつも驚くほど高いが、今はその赤い瞳からも熱を感じた。火であぶるみたいに、長いこと手に視線が注がれる。
「爪が割れてるぞ」
季節の変わり目の乾燥しやすい状況で、薄い爪が荒れ始めていた。それに機織りが加われば、糸に手の油分が吸われ、荒れ放題もいいところだ。
「機織りの跡です。大したことではありません」
「ずっとやっていたのか?」
「村の女性がいなければ、完成する未来が見えません。彼女たちが頑張ってくれる間、私が手を離すというのも悪いですから」
努めて明るく言った。でもオルグレイドの表情は、曇ったままだった。
「領主の娘が、こんな手になるまで働くのか」
「それはどういう」
「働き詰めすぎだと、村の奴らに心配されるだろう」
胸に冷たいものが落ちた。彼が気にしているのは、私の手が荒れているということではない。領主の娘として体面を保てていないこと。それが城主である彼の面目を潰す命運を握っているから。
「失礼いたしました。以後、気をつけます」
口で言っても、荒れ果てた手を元に戻すのには時間がかかる。それまでは妙な関心を向けられないよう、繕うしかあるまい。私はオルグレイドから、素早く手を離した。
「……夕飯、食べ終えたか?」
「まだ、ですけど」
「なら一緒に食わねえか」
「悪いですが、マーヤとロライトとも、食事をしておりますので」
「あいつらも連れてきたら良い」
「それはなりません。ロライトには、静かで落ち着いたところで、ゆっくり食べて欲しいんです」
やんわり断ると、オルグレイドが「そう……か」と沈んだ声を放った。夫婦そろわず食事をするのにも、慣れてきた頃合いだというのに。
「どうして今更、そのようなご提案を?これまでなら別々でいたでしょう。やはり、村で何かが?」
「いや、違うんだ。その……」
彼は暖炉へ体の向きを正した。
「いつもあんまり会話しねぇだろ。くだらねえ話が……聞きたくなって、な。むしろ、俺がそっち行ってもいいか?」
彼の唐突な提案に、私は開いた口が塞がらなかった。
「すごくつまらないと思いますよ。それこそ、兵士の方々といるのが良かったと後悔します」
「暇つぶしになら、悪くないだろ」
「暇つぶしって、期待してらっしゃるだけです。途中でロライトが泣き出したら、食事を囲う雰囲気ではありませんし」
彼の興がそがれるのを願いながら続けた。私は赤子を脅威から守らなければならない。
「話すのが目的ってわけでもねえ。共に腹を満たすだけでも」
「食べ物はあります。しかし、あなた様が使う食堂のような、美味しさはございません」
「構わん。たとえボロ雑巾だろうと、食べる」
「ボロ雑巾ほど……不味くはないです」
押しが強い彼を断るのも気が引けてくる。オルグレイドは相変わらず炎から目を離さない。
「……それに、ロライトの顔、たまには見てやらねえと」
サフィラスと唯一の繋がりを感じられる赤子。彼にとっては前の主人の忘れ形見だ。炎へ向けられた面に、悪い気は起きなかった。
「わかりました。そこまでおっしゃるなら、ご案内いたします」
断れる理由が見つからず、私は折れた。




