おかしな鶏
男の子は青っぱなを袖にこすった。川の水は冷たいだろうに、朝から元気なことだ。彼は裾をまくりあげ、水の中に膝までつけている。
「僕、お母さんにあんなこと言ったら死ぬほど恥ずかしいって、怒られたんだ。お姉ちゃんの旦那さんが、最後の締めくくりを忘れてるみたいだったから、僕が教えてあげただけなのに。村の宴に行かせてもらえなかったの、すごく悲しかった」
結婚式で「チュー!チュー!」と叫んでいただけあり、パックは不平不満も正直だった。
「そろそろ足を上げないと冷え切ってしまうわよ」
「お姉ちゃんって貴族なの?お母さんが言ってたよ。高貴な人の結婚式を台無しにした息子は初めてだって。僕、上にお兄ちゃんが二人もいるんだ。でも二人ともいい子だから手がかからなかったのに、僕は手がかかって仕方ないんだって。そんなに僕、悪い子なの?」
「あら、悪い子なんてもっと悪いことをしでかすはずよ。悪戯な精霊なんて、人に悪さをしてばかりなんだから」
「そう?じゃあ僕、お姉ちゃんの結婚式をめちゃくちゃにしたわけじゃないの?」
男の子は妙に探るような声音で言う。パックが善意でしたと言った時点で、私は式での騒動を咎めるまでもない。
「最初からあの式はめちゃくちゃだったのよ。あなたが盛り上げてくれたから、私は気が紛れていたわ。まあでも、私のような人は珍しいと思っておくべきね。結婚式というのは、もっと大事な思い出になる瞬間が、たくさん詰まっている行事だから」
それにしても、パックの騒ぎのおかげで宴の失敗も、少しずつ笑って思い出せるようになってきた。彼は懐から卵を一個渡してくる。
「あのね、これ仲直りの印。持ってくる時に転んで、割れちゃってるけど」
「ありがとう」
私はタオルを干そうとしていた手を止め、パックの濡れた足を手拭いで拭った。よく見れば彼は傷についた土を洗い流していたらしい。ついでに鼻から垂れている青っぱなも拭き取っておく。割れた卵はそっと洗濯籠の隅に置いた。
「僕の家ね、すっごく鳴くのが下手な鶏がいるんだ。お姉ちゃん見にこない?」
「それは楽しそうだけれど、もうそろそろ旗を織らないといけないの」
「行こうよ。案内してあげるから」
すっかり気が乗っているらしいパックに手を引かれ、私は城の洗濯場を離れざる得なかった。丘を下って村に行く間、小さな手に引かれると背の高い私には、身を屈める分背骨が痛い。
民家の連なる一本道を歩いていると、立派な赤いトサカを持つ鶏が一羽歩いてくる。パックの顔を見慣れているのか警戒するそぶりもない。尾羽は立派に曲線を描き、しかし目はぎょろっと外側に向いている。
「おい、ギケ。鳴いてみろ!」
男の子が囃し立てると、件の鶏は片目で品定めでもするかのように、私を睨み返してくる。なんだかこの鶏は、他の鶏とは一味違うような気がしなくもない。
私は心して彼が鳴くのを待ったが、いきなりパックの足元を突き出した。どうやら餌と勘違いしているようで小石を突いてはどんどん飲み込んでいく。
「石ばっかり食ってると、痩せっぽちの鶏になるってお母さんが言ってたぞ。立派なお肉になるなら、もっとこっちの雑草食べなくちゃ」
パックが道端に生えている草をもぎ取り、鶏の目の前に差し出す。なぜか私はそんな光景をしゃがみ込みながら、長いこと鳴くのを待った。しかし鶏は「クケッ」と言いはしても、ほとんど声を出さない。
変な声というのはどれほどのものなのか。その沈黙の中で考えさせられたが、パックは痺れを切らしたようだ。鶏を抱きつくように持ち上げると私に差し出してくる。
「一日だけ貸してあげるよ。食べちゃダメだよ?」
「そんな、いいわよ。ギケが鳴きたそうな時に、また連れてきてくれたらいいから」
「嫌だ。僕、お姉ちゃんに聞いて欲しいんだもん。この鶏、本当に変なんだよ。こいつは黒い卵から生まれたに違いないって、僕の友達も言ってたんだ。お姉ちゃんのいう悪い精霊が取り憑いてるのかもしれない」
「そ、そうなの?」
友達の証言まで聞かせられては、信ぴょう性が上がった。というより自分の中で好奇心が痛いほどくすぐられる。私は鶏を一日だけ借りることにした。
ギケと呼ばれた鶏を城に持ち帰るのは良いが、置き場がない。私はひとまず、機織り部屋に急いだ。糸紬の子達が来る前に隠そうと思い、適当な木箱を見つけるとその中にギケを隠しておく。
いまや自分の背より大きくなった布の下地を、さらに機織り機で紡いでいく。そうしているうちに糸紬の女の子たちは集まってきた。
「ネリネ様、最近の城主様のご様子はいかが」
女性たちが世間話をする輪の中から、声が上がってくる。私は「変わりありません」と答えるものの、髪をおさげにしたボニーが笑いだす。そういえば、彼女は宴の席から出ていった一人だった。笑い出すのを傍目に見たクロリスは首を傾げる。
「どうして笑うんですか」
「あら、この面白さがわからないなんて。結婚した後だっていうのに、男に変化がないっていうことは、それだけ冷め切ってる証拠よ。表面はお嬢サマでも、中身は火の男を惹きつける魅力もないのね、この女は」
他の女性たちは黙っているが、否定しないあたり、ボニーに賛成なのだろう。
「昼間に城主様がどこにいるのか、お嬢サマは把握してないのでしょう。もしかしたら娼館に行っているのかもしれないのに」
嫌味っぽく聞こえるが、村人に悪い噂をできるだけ広めないようにしないといけない。オルグレイドが知らない罪まで着せられて、民が暴動に走る事態になれば、私の血筋であるジルトハインにも泥を塗る。
「まさか……そんなところに、オルグレイド様が行くわけありません」
私が否定すれば、ボニーはおさげを指に絡めた。
「信じないのね。あたしの彼氏が見たって言ってたんだから。あんたの旦那を隣町まで追いかけてみたら、娼館に入って行ったって。部屋の場所から、相手がどういう女かまで教えてくれたのよ。知りたくない?」
私に与えられた使命は、波風を立てないようにすること。だが、ボニーの話に、私の耳はますます傾きかけた。聞きたい。その相手がどんな人か分かったら、私はその人になれるよう、変わらなければ。辺境伯の娘として顔が立たない。
「……教えてくれるには?」
「そうねえ。お嬢サマが持つ中でも、とびきり上質な毛皮をもらえたら、話すかもしれないわ。貴族令嬢ならそれくらい、何枚でも持っているんでしょうから」
彼女がいう通り、毛皮は権威の象徴だ。でも、私にはせいぜい、中流層が使っている狐の毛皮が精一杯。それも外着用にしまい込んでいる。
だが父の期待に応えるには、背に腹は代えられない。これも仕方ないだろうと、条件を飲もうとした時、鶏が盛大に鳴いた。それはもう言葉にならないほど奇妙な声だ。
女の子たちは反射的に耳を抑えるように頭へ手を回す。
「何よこの声!」
「ネリネ様、まさかあのギケを連れてきてるんですか?」
クロリスは知っている風に言った。この奇妙な鳴き声に笑いそうになるのを一人で堪えながら、私は木箱をそっと開ける。ギケは破裂しそうなほど目を外に突き出しながら私の方を見上げてきた。
「ごめんなさい。それでお話は?」
「もういいわ。あんたみたいに背が高い女、誰が気を止めておくのかって話よ」
ボニーは呆れたように私と鶏を見下ろす。ギケは「クケッ」とまた何かを言いそうな声をし、慌ててその嘴を摘む。
「……そいつ、鳴かせるじゃないわよ」
睨んでくるボニーに、私は悪戯心にも指から力が抜けそうになる。
「毛皮はあげられませんが。銀貨一枚で情報を売るのはいかがですか?」
「あたしの情報を買えると思うの?」
「毛皮だって同じぐらいでしょう。言わないなら、この子の嘴から手を放そうかしら」
女の子たちは青ざめた様子でボニーを見た。彼女も鳴かれたくないのか、ふんと息をつく。
「い、いいわ。ただで教えるよりはね。お相手はカブみたいに大きな胸と、滑らかなくびれがあって。人目を惹きつける色気があるの」
背ばかり伸びてしまった私には、彼女の言う小柄な娼婦にはとてもなれない。
「なにより、その女は精霊が羨むような、豊かで艶のある巻毛なの。口に出して気づいたけど。これって全部、私の特徴に当てはまるわ」
ボニーの指摘する通り。あの初夜から彼は私に触れてこようとはしない。やり直そうとも言いだしてくれないのも、食事を共にしないのも。すべて理由がつく。
人が去っていく機織り部屋で、私は途方に暮れていった。ギケを借りてきたこともだが、後になって脈絡もないボニーの噂に銀貨を払ったことが勿体無かったかもしれないと振り返ってしまう。
「あんなの、ボニーの主観じゃないですか。そのお相手、ネリネ様とは違いすぎます。」
静まり返った空気に、クロリスが文句をたれた。
「大体、ネリネ様で満足できないって言うなら、誰にも満足させられませんよ。旦那様が悪いです」
「そうとも言えないわ。夫一人、引きとどめることができない女として見られるのは、それだけ私がつまらないってことなの」
他所の女性のもとへ夫が行く責任を、周りから一々ほのめかされていては、肩の荷も重い。たった一つの狐の毛皮を失ったのは痛手だが、それ以上の応酬だ。
「私とは似ても似つかない女性が好みだって、ボニーは気づいてるのかもしれないわ」
諦めのついた問題に、髪紐が解けそうな勢いで、クロリスが首を横に振る。
「本人に確かめるまで、諦めてはいけません。騎士は誠実さを貫いてこそ、でしょう。それにネリネ様の魅力は、うちが保証します」
「ねえ、クロリス。一応あなたは、娼婦の意味を理解してるの?」
「それはずばり、男の人にお茶を出して、密談する人ですよ。それでネリネ様のような、妻との時間を奪うことで、お金を得る人です」
近からず、遠からずといったところだ。私は頭を抱えつつも、クロリスが余計な知識をつけないよう、頭をひねる。
「その……私と過ごす時間を奪うにしろ、娼館に通っているなら、悪くないかもしれないわ。オルグレイド様が、火の女性ではなく、水の女性を求めているというのなら。この国を守る動機ができる」
「でもサフィラス様なら、こんなことにはなりません。あのお方のような騎士に、聖剣を渡された者として。それ相応の誠意を証明してもらえませんと。浮かばれないです」
サフィラスは、誠実な男だった。騎士道をそのまま具現化したような、子供の憧れだ。彼の選んだ後任が、不誠実で不義を働くような男だとしたら。
サフィラスの評判は、ついに底へ尽きてしまうのではないか。そう思うと、クロリスのように否定したくなる意見があるのを、多少なりとも理解できた。
「そうね。今晩、オルグレイド様が帰ってきたら、それとなく聞いてみるわ」
「そうしてください。それと奥様、外にタオルが干しっぱなしですけど、もうすぐ雨が降りそうですよ」
彼女の言葉通り、空はみるみる暗くなっていった。私はギケを急いでパックに返す。
「パック、この子は悪い精霊がついているんじゃないわ」
「お姉ちゃん、ちゃんと鳴き声聞けた?」
「ええ。最高の鶏よ!」
私はパックの頭を撫でて引き返す。その頃には着ている服が肩から濡れ始めてきていた。




