9 輪の外れ
早朝の城は静かだ。食堂からくる風にも、宴の匂いはすっかり消えていた。清々しく廊下を渡って、城の裏手から出る。そこには洗濯場に適した川が流れていた
「早いですね、ネリネ様!洗濯物ですか?」
「今日も元気で何よりよ、クロリス」
明るい声のおかげで、陰鬱としていた曇天にも、朝日が訪れる。クロリスは朝ご飯を持ってきてくれていた。昨日干したばかりの服を籠へ畳んで、腰を下ろす。直接、芝生に座るのはいつぶりだろう。
「あの……どうだったか、ご感想を聞かせてもらえますか」
「そうね。窯焼きパンは、やっぱり美味しいわ」
「食事の話じゃなくて。あの夜のことです。そりゃパンはうちが焼くとかなり美味しいってのは評判ですが。みんなが知らないことを教えてほしいんですよ。旦那様と……お部屋で何をしたのか。パウラおばさんも、あれから口を開いてくれなくって」
彼女が私の隣に座って目を輝かせる。それは恋話に胸を躍らせる乙女の目だった。パウラが彼女の純粋さを守っているからには、私もそれなりの作り話を用意すべきだろう。でも、あの夜から得たのは、虚しさでしかなかった。
「夢を壊すようで悪いけれど、面白いことなんて何も」
クロリスの上目遣いは、子羊の可愛さにも引けを取らなかった。そんな目で訴えてこられると、私も無視はできまい。
「ネリネ様ってうちとほとんど同い年、じゃないですか。もうそろそろ、うちも王子様を見つけないと」
「それは詳しく聞きたいところね。待って、あなたの相手を言い当ててみせるから」
なんとか話をずらそうと、考え込むそぶりをすれば、クロリスは頬を膨らませた。
「うちの話より、ネリネ様の話!結婚式の時は、暗い顔でしたけど……最近は沈んでるようにも見えないというか。旦那様と過ごした夜に変わったのかなって、気になるんです。案外、胸がドキドキしたり、見つめ合うだけで、顔が染まっちゃったりしませんでした?」
どこからそんな可愛らしい考えが浮かんでくるのか。私はクロリスに苦く笑った。
「そういう人と結婚出来たら。毎日が惜しいぐらい、素敵な思い出になるでしょうね」
「そういうのとは……やっぱり、違ったんですか」
空を見上げる。あの日、私が得られたものは、確信だけ。オルグレイドを愛するなど、今の私にはできないし必要でもない。
「クロリスが不安にならなくていいのよ。そのうち、なれるような形になっていくわ」
「それじゃあ、旦那様と……キスは?」
「結婚式をあなたも見てたでしょう?」
「式では照れてできなかっただけじゃないんですか?パックが囃し立てたせいで盛り下がっちゃってましたけど。あれって本当は、しそうでしたよね?」
「……あなたの想像にお任せするわ」
「ネリネ様ってば、ずるいです!うちにだけは教えてくれたって、良いじゃないですか、もう」
膨れっ面になるクロリスを見ていると、やはり憎めないものがあった。
「パックのお母さんは怒りんぼなんで、あの後、村の宴の方にパックは行かせてもらえなかったんですよ。お城の方はどのくらい盛り上がってたのかは、ネリネ様と兵士さんたちしか知らないんです。でも、ネリネ様が思ってるより落ち込んでなさそうでよかった」
「私がどんな顔をしていると思っていたの?」
「それはもう、泥から掬い上げられたドジョウみたいな顔ですよ」
「想像したら心底情けない顔ね?」
釘を刺すように圧をかけたが、彼女は快活に笑うばかりだ。私はかえって呆れつつもクロリスに釣られ、ふっと笑った。
これだけ純粋な夢を見ている乙女であれたら、男の人に限らず、みんなが心をくすぐられるだろう。私にもそんな夢は持たせてくれるのは彼女くらいだ。
乾いた洗濯物を抱え、城に戻る。窓が開けられた廊下を渡り、角部屋に入った。機織り機が置かれた小さな部屋には、糸を紡ぐ村の女性たちが、すでに集まっている。ここ最近、クロリスとろくに話ができなかったのは、彼女たちの輪の外に私がいるからだった。
村で余っている人手は、城へ手伝いに来てくれるのだが。多くの紡ぎ手は、熱心なおしゃべりをするのが好きらしい。ここにいる人は大抵、未婚で若く、可愛らしい女性ばかり。それをこうして一ヶ所に集め、暖炉をつけて、無心に糸を紡がせるのには、テルメアが教育に重きを置いているからだ。花嫁修行のため、と裁縫にくる意識の高い女の子たちは、村での評判が上がった。
「そういえば最近、あたしの家の近くで、狼の遠吠えが聞こえたのよね」
「それは不吉な予兆よ。きっと新しい聖騎士が、この森に歓迎されていない証だわ」
今もこうして、村の噂はあることないことへと更新される。これの何が楽しいのだろうと内心思うが。暇をつぶす分には悪くない。そう思うことにすれば、無用な注意も湧かない。
「不吉ってだけじゃないさ。あたしがこの城を登ってくる時、あの赤い男を見たんだけどね。えらく背が高くて、あたしが見た男たちの中でも、ひときわ鍛えられてるんだよ。軟弱すぎる男は畑仕事に良くないっていうけど、あれを前にしたら、華奢なのを選びたくなるわね」
椅子を輪に囲んだ女たちは、時折、私の顔を伺ってくる。火の民という暴れ馬を制御しろと、冷たい視線があるのには、慣れなければ。私はひたすら目の前の機織り機へ集中する。
連なる縦糸に、シャトルに巻き付けた横糸を通す。生成りの布地には、刺繍を縫い付けていく予定だ。それが花嫁のする仕事。花婿との結婚式を旗として描き出し、集会所に掲げるのだ。いつか来客があれば、宴の飾りにも使われる。
一昨日から織っている布に、横糸を引いては、隙間なく詰めていく。
「可哀想な子ね。親が決めたからって、あの男が相手じゃあ、文句を言うだけで殺されそうよ」
「でも、もしかしたら……そこから絆が始まるって言うこともありますよね」
持ち場に着いたクロリスが控えめに口を挟む。糸を紡いでいる女たちはクロリスを睨み、「世間知らずね」と囁いた。
私が混ざって口添えできるなら、必ずクロリスを庇うだろう。彼女の想像力は耳が潤う。しかし村の女たちの空気には、まだ私も馴染めそうにない。とにかく気づかないふりをして、淡々と手を動かした。そうしていれば、時間を忘れて夕暮れにさしかかる。
彼女たちが帰っていった部屋で、また一人。私は、誰の輪にも入らず、ただ妻という役だけを織った。たまに聞こえる赤子の泣き声も遠く、窓から見える落ち葉の景色が、葡萄の実りを知らせている。




