8 ささやかな温もり
夕食の準備をする厨房に出向くと、壁沿いの火の炉で、泣き腫らしたロライトを、マーヤが抱えていた。その顔には激戦を終えた、苦労を滲ませている。
「ロライト様、泣きっぷりはピカイチです」
「ふふっ。魔物が聞いたら、遠ざかるでしょうね。あやせるのはマーヤだけよ」
冗談まじりに笑うと、マーヤは深いため息をついた。三脚に吊るした煮込み鍋からは、白くなった鶏肉と、フェンネルのしおれた葉が浮かんでいる。匂いをすっと嗅ぐだけで、お腹が鳴りそうだ。
「今日も、オルグレイド様は食堂に?」
「初めから、こっちに来るご様子もありませんでしたよ」
城の生活は大きく二つに分かれている。城主の生活を主にする領館と、城を守備する兵士たちの宿舎だ。この城は正方形を思い浮かべるとわかりやすいが。ある一辺に領館があるとすれば、中庭を通じた対辺に宿舎がある。
「兵士たちといるのが楽しいのはよろしいですけど。奥様のことも大事にしていただきたいですよね」
「あなたも宴に来ればわかったでしょうけれど。オルグレイド様の食欲は、雄牛の何倍もあったわ。向こうの食堂でないと、きっと足りないもの」
「戦う人たちは、たくさん食べても責められないくせに。戦わない私たちは、空腹も我慢しろっておかしくないですか?」
「冬の糧を残すためよ。みんなのためになるって思えば、どうにかなるわ」
「マーヤだって赤子と日々戦ってるんです。ミア様がいらっしゃったときは、伯爵家からの支援もありましたけどね。砂糖煮のイチジクなんて、目から鱗でしたよ」
「それは……確かに美味しそうね」
「こっちの厨房は小さすぎて、食糧の保管もこまめにまとめるしかないですし。よっぽど砂糖なんて、大きな病気にでもならない限り、買わせていただけないですからね」
残念そうにマーヤが肩を落とす。兵士の保存庫から食べ物を分けてもらうにせよ、小さい厨房ではせいぜい二人分の食事をしまっておくのが限度だった。
「一番許せないのは、同じ使用人です。兵士と肩を並べて食べてるんですから。最近の子なんて、若い兵士に入れあげる子が多いらしいですよ」
「面白いわね。クロリスを招待してあげたいわ」
「面白くなんてありません。使用人の中には、あの旦那様をひそかに慕い始めてる子もいるんです」
私はまあまあと落ち着かせながら、木のお椀を二つ用意した。鍋のスープをすくい上げると一口だけ先に味見する。
「いろいろとモノ申したいですが。奥様なら、マーヤと違って、向こうで歓迎してもらえますでしょう」
マーヤは使用人たちを束ねる者としての責務もある。一方で、彼女が主人を二度も亡くしたという事実に、他の使用人たちは意味ありげに距離を取っていた。それはここに越してすぐに感じたことだ。
「奥様は向こう側に興味ないんですか?」
「寂しいことを言わないで、マーヤ。どうしても一人で食べたいっていうなら別だけど、私はあまり、大勢のいるような場所は苦手なの」
私もまた、食堂に行けば、空気を悪くさせてしまう。あの宴の失敗を笑われるか。あるいは、貴族の娘として、くだけた場を濁すに違いない。
ジルトハイン城でも、父は宴に参加するのを許してくれなかった。それは私が下手な言動をして、品位を下げるのを嫌がったためだ。
「ロライトにも、お酒を飲む大人を見せたら、悪影響よ」
「それを言うなら、パウラは酷かったです。葡萄酒の管理者が、あれだけ大酒飲みだと、困ったものですよ。領主様に納付する前に、長年寝かせた樽を、全部飲み干す勢いでしたからね」
「パウラさんが酔う姿なんて、想像できないわ。あの人、お酒には相当強いじゃない?」
収穫祭となれば、彼女はエール酒やら蜜蝋酒やら、他の村から手に入れたお酒を喉に流し込んでいた。それで他の男性と飲み比べをしたことがあったが、大抵の場合、彼女より先に村の男たちが倒れる。
「今年は葬式と結婚式のおかげで、大きな祭りが出来そうにないでしょう。その反動で、飲んじゃったのかしら」
「奥様は簡単に言いますけれど。あのお相手をするのは、結構、骨が折れますよ」
やけにお酒を嫌うマーヤの苦労話を聞くのは、またの機会にしよう。厨房の真ん中にある作業台に、布を敷いて木皿を置く。
「ねえ、マーヤはどうして夜の話をしてくれなかったの?」
赤子がぐっすり眠っているのを確認してから訊ねると、彼女は眉をひそめた。
「あなたが話したくないのなら、いいのだけれど」
「……フロッセ伯爵家に乳母として雇われていた時、子供に変なことを吹き込まないよう、大旦那様に釘を刺されていたのです。結局、育つにつれて、ミア様は本で知識をつけて、マーヤの知らないことまで聞かれる羽目にはなりましたが」
「気になることはとことん向き合う、ミア様らしいわね」
私にとって、貴族で初めての親密な友達。それが彼女で良かったと、心の底から思っている。
湯気の消えた鶏の出汁を飲むと、マーヤは夜風に身震いした。
「今年はすぐ冬にはいりそうですね」
「あとは私が片付けておくから。先に休んで」
私は羽織っていたショールを、彼女の肩に羽織らせた。蝋燭の火も乏しい厨房は、炉の煙が止まらないよう、常に換気がいい。天井近くは壁がくり抜かれており、冷風が絶えず通ってくる。早速、家事を終わらせようと、手をタライに構えて魔法を唱えた。
「水」
その一言で、桶の底から水が湧いてくる。木皿を漬け、油の滑りを布巾で取り除く。そうしているうちに、みるみると指先が冷え込んで、くしゃみが一つ飛び出した。
使い終わった水は外に流し、ついでに魔法で歯を磨いて口もゆすぐ。
テルメアの堅牢な古城は、かつて貴族が使っていた。なおかつ、敵に攻められ、改築が繰り返され、できあがった要塞でもある。トイレの位置だけは、廊下の突き当りで固定されてはいるものの。内部は複雑で、客人の部屋があったと思えば、物置部屋、書庫などが隣の部屋にあったりする。
燭台を片手にし、迷わないよう気をつけた。夫婦の寝室にたどり着くと、私は今度こそノックをする。向こうから返事はない。静かに入ってみれば、オルグレイドが先に横たわっている。彼は寝相が相当いいみたいで、私に半分残してくれていた。
音を立てないよう、靴を脱いで蝋燭を消す。「おやすみ」の一言もない。別々の部屋で眠っているのと、同じようなものだ。一枚の毛布を共有しているだけ、夫婦らしいと言えば、そうかもしれない。ただ、その毛布も冬の始めにしてはかなり薄手だった。私は鼻水をすすりながら、つま先を擦り合わせて、なんとかあったまろうと努力する。
水の民は眠るとき、裸で毛布に入るぐらいなのだが。私はオルグレイドに合わせ、薄着を着ている。だが、マーヤに羽織物を渡したために、重ねられる服がない。
毛布を彼から奪うのは可哀想だし。だからと言って、彼と離れたままだと隙間が生まれ、余計に冷たい空気が入る。ぶるぶると震えながら、眠れずに困っていると、ふと異様に温かいものが足に当たった。微かに毛布の中を覗けば、オルグレイドの足がある。
「オルグレイド様……」
小声で彼を呼ぶが、やはり返事はない。眠りがこれだけ深ければ、何をしてもバレないだろう。私は彼の背中の方に体を寄せ、その背に顔を埋めた。滴りかけた鼻水も引っ込み、呼吸がしやすくなる。
相変わらず、古ぼけた彼の衣服からは、天日干しの匂いがする。冷え固まった指先で、その服をなぞると、引っ掻いた感覚が蘇った。一通り温まったら離れよう。そう言い訳しながら、眠気が瞼を重くしていく。




