二話
日が落ち、行灯の灯りがぼうっと室内を照らす頃。不意に燈真が目を覚ました。
深緑の瞳がぼんやりと天井を見つめ──それから、自身の手が小夜の袖を握っている事に気付く。
無言のまま手が離れた。
「──いつから寝ていた。」
「昼餉を終えてからずっと。」
障子の外を暗がりに目をやり、舌打ちを一つ。
「二時もか……」
声には冷静さが戻っていたが、耳の先だけが僅かに赤い。寝起きで体温が上がっているのか、それとも何か別の理由なのかは本人だけが知っていた。
「情けない話だ。」
自嘲は静寂に溶けた。
身体を起こそうとして、今度は先ほどよりも幾分かマシな様子で上体を支える。それでも力が入る度、包帯の下で爛れた皮膚が引き攣るのか、僅かに息が止まる。
脇息に肘を置き、行灯に照らされた小夜に視線を向けた。
「親父が来ただろう。」
問いではなく断定。
「葉巻の匂いがする。」
言われて鼻を鳴らしてみれば、確かに香のような甘い匂いが肺を満たした。
「あいつに何を言われた。」
深い緑が真っ直ぐに小夜を射る。そこには使用人の身を案じるような甘さは微塵もなく、当主が何を吹き込んだのかを探るだけの無機質さだけが宿っていた。
小夜が言葉を選ぶ為、口を閉じる。あの冷淡な言葉をありのままを伝えても良いのだろうか。
「……まあいい。大方、予想は付く。どうせ復帰がどうのと脅してきたんだろう。」
親子なだけはある。清一郎の思考を完全に読み取り、興味をなくしたのか燈真の視線が畳へと移った。
「あの男は使えん駒を切り捨てるのに躊躇がない。──お前であっても俺であっても不要と判断すればすぐに塵箱行きだ。」
淡々と語るその声には父に対する怒りも恨みもない。ただ平然と事実を述べるだけの簡素な響き。藤咲家の歪んだ親子間を如実に表していた。
ふいに燈真が咳込む。
乾いた咳が二度、三度。
口元を押さえた手の間から僅かに赤色が見えた。
「…………夜具の替えはあるか。汚した。」
何でもなかったように告げる口に、小夜は一瞬だけ眉を顰めたが直ぐ様能面のような顔を貼り付け頭を垂れた。
「直ちに手配して参ります。」
小夜が夜具の替えを取りに廊下へ出た後も、乾いた咳は続いていた。
小夜が戻った頃には咳はすっかりと落ち着いたのか、燈真は脇息に身体を預けたまま行灯の揺れを眺めていた。──枕元に丸められた手ぬぐいには薄っすらと赤黒い汚れがついている。
「遅い。」
文句を言う声は掠れていた。顔色は行灯の灯りの下でも分かるほどに白い。
小夜は黙って布団を替えた。古い夜具を片付ける最中、枕元の手ぬぐいが視界に入るがそれでも何も言わず、桶の中へと手ぬぐいを泳がせる。
「お待たせ致しました。」
布団の替えが終わると燈真はすぐに横になった。
新しい布団の冷たさに一瞬だけ肩が強張るが、誤魔化すのが早い。
「…………明日も来るのか。」
天井を向いたまま問う。
来るな、とは言わなかった。何を言ってもこの女は聞かぬと僅かなやり取りで悟ったのか、あるいは──。
「来たところで退屈だろう。こんな所は。」
ぽつりと零された一言には疲弊の色が浮かんでいた。
滅多に人が来ない離れで一人。身体は思うように動かせず、何の変化も訪れない部屋の中を眺めるだけの日々がどれほど続いているのかは、部屋に積まれた冷え切った数々の盆が示す。
「貴方様の手足ですので。」
小夜の声が部屋に響く。
「……変わった奴だ。」
一瞬の間。それから短く息が抜ける。笑ったのかもしれない。口の端すら動いてなかったが。
それ以上は何も言わなかった。
燈真は静かに目を閉じ、やがて呼吸が深く穏やかなものへとなっていく。
袖は──掴まれなかった。
けれど、眉間に刻まれていた皺がほんの少しだけ浅くなっていたのを小夜は見逃さなかった。
仮想大正十三年の春。まだ肌寒い夜風が庭の桜を揺らし、はらはらと花弁が窓の格子に引っかかる。
鬼と恐れられた男は、下働きの使用人を傍に置くことを許した。それは信頼には程遠く、けれど――孤独の縁に立つ人間が、初めて誰かの存在を黙認した夜でもあった。




