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一話

 重く閉ざされた襖の前に立つ。


 空気は酷く淀んでいて、とても同じ敷地に建つ離れとは思えなかった。

 震える呼吸を誤魔化すように息を吐いてから、静かに襖に手を掛けた。


 室内に満ちた薬品の匂いが鼻をついた。

 広い部屋の中心、一人の男が横たわっている。


 全身を包帯に包まれ辛うじて目元だけが見える状態の男。

 顔を動かす事も視線を寄越す事もせず、じっと天井を眺めたままの男が小さく零す。


「──お前か。新しい世話係というのは。」


 熱のない、無関心を詰め込んだだけの声が小夜を突き放す。


「宮前から聞いてはいるが、必要ない。今すぐに去れ。」


 宮前──小夜の前任だった男だ。燈真の反応から察するに良好な関係を築けていたとは言えないらしい。

 完全な拒絶を前に、小夜の身体が鉛のように重くなった。

 思わず後退した足をなんとかその場に縫い付け小夜はにこりと笑う。


「はじめまして、小夜と申します。これからよろしくお願い致します。」


 初めて男の目が小夜に向いた。


「……聞こえなかったのか?“去れ”と言った。」


 包帯の隙間から覗く深緑が苛立ちを隠さず細められる。布団の上に横たわったままだというのに、威圧感だけは強い。

 静寂が場を支配する。

 小夜は動かなかった。


「世話など必要ない。どうせ死を待つのみの身体、飯も着替えも要らん。」


 燈真の声は低く平坦で、“死”という言葉にすら諦観や絶望の類を感じさせない。

 ただ、部屋の隅に押し寄せられた手付かずの盆の数々が燈真の言葉に重みを乗せる。

 一体いつから飲食を怠っていたのか、それでいてよく生きていたものだと小夜はぼんやりとした意識の中で考えるが、すぐさま思考を割くだけ無駄であると頭を振った。


「ご当主様からの命令ですので、あしからず。」

「……親父が……」


 燈真の目元が僅かに強張る。初めて見せた表情の変化はなんとも苛立ちに満ちていた。

 数秒の逡巡。当主の命令に背く下働きの末路を想像したのか、口を真一文字に結んだまま黙りこくった。


「……勝手にしろ。ただし俺には触るな。」


 それだけを告げ、燈真は再び目を逸らす。

 快諾には程遠い。けれど許可は得た。


「はい、よろしくお願いします。まずは食事の準備を致しますね。」


 頭を下げ、静かに廊下へと消える。

 小夜が台所に向かうと他の下女たちが姦しく駆け寄ってきた。


「あら、本当に行ってきたの?あの男の部屋に!」

「やめとけばいいのに。知ってる?前の世話役の下男、怒鳴られて3日寝込んだのよ。」

「……そのようですね。」


 小夜は曖昧に笑い、その場を誤魔化す。二人は小夜が離れたあともヒソヒソと話に花を咲かせ続けている。

その声を背に小夜は支度を整え、温かい梅粥と漬物、白湯を盆に乗せる頃には四半刻が過ぎていた。



「失礼します。」


 一声を掛けてから襖を開ける。

 襖の中では、燈真が目を閉じ先程と変わらぬ姿勢のまま横たわっていた。

 小夜の声に意識が引き寄せられたのか、燈真がゆっくりと目を開け、起き上がろうとする──が、途中で止まる。

 身体を支える腕が震えており、包帯から見える眉は中央に寄っていた。


「…………いい、そこに置け。後で食べる。」


 いたって平然と。何事もなかったかのように振る舞っているが、その息は荒い。

 小夜は盆を床に置き、正座の体勢になり無言で見つめる。

 ゆっくり、ゆっくりと左腕を使い上半身を起こした燈真の肩は痙攣していた。


「口を開けて下さい。」

「断る……!」


 深緑の瞳がギロリと小夜を射抜く。

 しかし、盆へ伸ばす腕は力なく、指が畳の目を毟る。指先が白くなるほど力を込めても無情。燈真の腕は盆には届かない。


「……っ」


 小さく息を呑む音。包帯が解けた額に玉の汗が浮かぶ。首筋に巻かれた包帯は所々汗が滲み、水分を吸った部分が灰色へと変色している。

 意地だけで動こうとしている身体は、とうに限界を迎えていた。鍛え抜かれた肉体も、今は熱に蝕まれ持ち主の意思を拒む。

 燈真は唇を噛み締め、盆を睨み付けた。鼻をくすぐる梅の匂いを前に、空腹と矜持が揺れている。


「早く回復する為です。どうぞ私の事は自身の手足の様に扱って下さい。」


 しばらくの沈黙。奥歯を噛みしめる音が静かな部屋に微かに響く。


「──手足、か。」


 反芻するだけの言葉がやけに重い。


「…………一口だけだ。」


 苦虫を噛み潰したような声。

 使用人に食事を食べさせてもらう──その行為が燈真にとってどれだけ屈辱なのかは、強く握りしめられた拳が雄弁に物語っていた。


「失礼致しますね。」


 匙がそっと口元に運ばれる。

 顔は背けられたまま。口だけを開けるが、まるで毒を飲むかのような警戒心が透けていた。


 一口。粥が舌に触れた瞬間、わずかに眉が動く。

 いつ振りの温かい食事だったのか。冷めきった膳ばかりが積まれていたあの光景を思えば、答えは明白だった。


「…………」


 二口目。燈真は黙って口を開いた。

 小夜は何も言わない。からかいも微笑みもせずただただ無言で小さな咀嚼を見守る。


 半分ほど食べたところで、匙を運ぶ小夜の手がふと止まった。

 朔真が目を閉じていた。苦しげな寝息が混じり始めている。

 張り続けていた緊張の糸が、満腹を通してようやく僅かばかり緩んだのか。


 布団から出た大きな手が無意識に小夜の袖を掴んでいた。

 自分で巻いたのか、所々火傷痕が覗く手は業火に飲まれてもなお軍人のままだった。

 無数の胼胝と節くれだった指、袖を握る力は弱いが、離すまいという確かな意思がそこにはあった。


「……い、……くな……」


 誰に向けての懇願なのだろう。かつての部下か去って行った婚約者か、はたまた全く別の誰かか。どちらにせよ小夜の知るところではない。

 深緑の瞳は閉じたまま、握られた小夜の袖口に汗が滲む。簡単に振りほどけてしまう手を小夜は拒まなかった。


「……おやすみなさいませ。」


 小夜は動かない。

 残った粥を盆の上に置き、手ぬぐいを水桶に浸す。自由な片手で器用に水を絞る。

 額に浮かぶ汗をそっと拭えば、燈真の眉間の皺がほんの少しだけ和らいだ。


 やがて日が傾き、障子の向こうが茜色に染まる頃、廊下の外から足音が聞こえてきた。


「──入るぞ。」


 返事を待たずして襖が開け放たれる。

 隙間なく撫でつけた髪に厳めしい顔──藤咲家当主、藤咲清一郎が護衛もつけずたった一人で姿を現した。

 猛禽類を思わせる鋭い目が眠る燈真を捉え、そして小夜へと移った。


「食わせたか。」

「はい。完食とはいきませんでしたが……」

「食うたのなら良い。」


 一瞥だけして視線を燈真へと戻した。

 まるで戦況報告を聞いてるかのような淡々とした声。そこに父親らしい感傷は一切ない。


「婚約が破談になり血を残すのが困難になった。こんな出来損ないだが、せめて早急に復帰させよ。使い物にならんようなら──」


 その先は言わなかった。必要がないと判断したのか、先を考えていなかったのか。恐らくは前者。だからこそ小夜の背筋がピンと伸びた。


「貴様も精々役目を果たせ。」

「……はい。」


 返事を聞き終えると、もう用はないと言わんばかりの勢いで踵を返した。足袋が板張りを踏みつける音が遠ざかり、やっと聞こえなくなったところで小夜は大きく息を吐いた。

 清一郎が去った後も、部屋は緊張に支配され続けていた。



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