第52話 怒っていい
金曜の夜。
玄関の鍵が回る音がして、玲央の肩が、ほんの少しだけ跳ねた。
来ないかもしれない――そう何度も思い直した。
思い直したのに、来る前提で部屋を整えて、息を整えて、笑う練習までしている自分がいる。
滑稽だ。みっともない。だからせめて、背筋だけは折らない。
ドアが開く。
かなえが入ってきた。
髪が少し乱れて、目の下に薄い影。疲れているのが一目で分かるのに、足元はぶれない。
逃げると決めた人の足じゃない。今日は――逃げない、と決めてきた足だ。
「……来ました」
硬い声。ツンとしたまま、バッグを抱え直す仕草も、帰る準備を捨てていない。
「話します。今日は」
嬉しい、なんて言ったら最悪だ。
だから玲央は、喉の奥の熱を押し込めて、ゆっくり頷く。
「うん……ありがとう」
ありがとう、がずるいのは分かってる。
感謝の形にした瞬間、かなえの「帰りたい」が悪いものみたいに見える。
それでも言ってしまうのは、今この瞬間が、壊れそうなほど貴重だからだ。
リビングへ。
かなえはソファに座らない。壁際に立ったまま、鞄の紐を握る。
"帰れる姿勢"のまま。
玲央はその距離が痛くて、目線を外すふりをして、先に口を開いた。
「……俺から、いい?」
かなえが小さく頷いた。
それだけで、胸がほどけてしまいそうになる。ほどけると、暴れる。だから、息を数える。
「俺さ……ずっと、わかってなかった」
言葉を選ぶほど、喉が渇く。
「金曜、来なくなって。連絡もなくなって」
言っている途中で、自分の声が自分に刺さる。
「……月曜、目が合わなくなって。俺、何したんだって」
かなえは黙っている。
黙って、目を逸らさない。聞いてる。聞くつもりで来た。
だから玲央は、逃げない。
「迎えに行かないって決めた日もあった」
「待つって決めた日もあった」
笑いたくなる。守るほど遠くなるの、バグみたいだ。
「……でもさ、待つって、俺には向いてなかった」
言い訳じゃない、ただの事実として吐く。
「待ってる間、結城さんの世界が俺の知らないとこで動くのが……怖くて」
怖い、でまとめると軽くなる。
玲央は舌の裏を噛むみたいにして、続けた。
「怖いっていうか……」
うまい言葉が見つからない。
「"俺の居場所が、どこにもない"って感じがした」
かなえの指先が、鞄の紐をきゅっと引く。
それを見て、玲央の心臓が一拍だけ速くなる。
反応がある。まだ。まだ、終わってない。
でも、その"まだ"に縋るのが一番危ない。
「神谷さんのこと」
名前を出した瞬間、喉が鳴った。
「俺、あの人が悪いって言いたいわけじゃない」
言いたいのは別のこと。言ってしまったら、醜さが全部露出する。
「結城さんが、あの人の前だと……普通に息してるのが、刺さった」
刺さった、なんて言い方も情けない。
でも、これ以上きれいに言うと嘘になる。
かなえは少しだけ目を伏せて、息を吐いた。
「……イベントのあと、話しました」
玲央が聞く前に、かなえが言う。
先に置かれる事実は、優しさでもあり、刃でもある。
玲央の背中がひやりとした。
声が掠れないように、指先で膝を押さえる。
「……どうだった」
かなえは一拍置いてから、静かに言った。
「神谷さんは、ちゃんと私を見てくれます」
「仕事の私だけじゃなくて……黙って耐える癖があるのも、当ててくる」
当ててくる。
その言い方が、かなえにとって"安心"の言葉だと分かって、喉の奥が苦くなる。
でも、かなえは続けた。
「それが、すごく嫌じゃない」
嫌じゃない、のところで、少しだけ悔しそうに眉が寄る。
「……悔しいくらい、いい人です」
かなえは、逃げずに褒めた。
褒めて、そこで終わらせない。
「だから、ちゃんと断りました」
「付き合えないって言いました」
玲央の肺に空気が戻ってくる。
戻ってきた瞬間、別の痛みが来る。
断ったことが救いじゃない。断った理由が、怖い。
「……なんで」
かなえは唇を噛んだ。
それから、諦めたみたいに、でも誤魔化さない声で言う。
「神谷さんなら、外に出られる」
「昼に、ちゃんと歩ける」
「隠さないで、堂々と"会っていい"って言える」
玲央の腹の底に、鈍い刃が沈む。
そこが根っこだ。自分が一番見ないふりしてきたところ。
かなえは、視線を上げて玲央を見た。
「それ、私には楽に見えた」
「でも、楽な方を選んだら……あとで自分が嫌になる」
「神谷さんを、気分転換の道具にしたくないし」
「……今の私が誰かと付き合ったら、相手を傷つける」
かなえの声が、ほんの少しだけ揺れた。
「自分が壊れたままだから」
玲央は喉の奥で息を止めた。
放っておけない。でも、同情は"上下"になる。
言葉を選び直す。今夜は、勝ち負けじゃない。
「……じゃあ、俺と神谷さんの違いって何」
玲央は、できるだけまっすぐ言った。
「俺には、何が足りない」
かなえは一瞬だけ眉を上げる。
その顔が、少し苛立っている。
でも、苛立ちの下に、隠してきた本音がある。
「神谷さんは、私を"選ばせる"」
かなえは言う。
「選ぶ権利を返してくる。急がせないのに、曖昧にしない」
それから、言いにくそうに続けた。
「あなたは……私が戻ることを、どこかで当然にした」
痛い。
当然にした。
その一言で、あの部屋の灯りも、マグカップも、鍵の音を待っていた自分も、全部見透かされる。
「言葉じゃなくて」
かなえの声が硬くなる。
「仕組みとか、既成事実とか」
「私が嫌って言いにくい形で、私の生活に入り込んだ」
玲央は目を逸らさない。
逸らしたら、また"正しい顔"で逃げるから。
「……美緒のことも」
玲央が、あえて名前を出す。
かなえの眉がぴくりと動いた。
やっぱり、そこも刺さっていた。
「美緒さんを呼び捨てにしてた」
かなえは、怒りを抑えるみたいに言う。
「距離が近いの、分かる」
「でも私は、恋人苦手とか言っておいて……勝手に苦しくなった」
言ってから、自分に苛つくように息を吐く。
「最低だよね。私」
玲央の胸の内側が、最悪な形で熱くなる。
嬉しい。妬いてたんだって分かってしまう。
その嬉しさが、汚い。だから顔には出さない。
「……最低じゃない」
玲央は小さく言う。
「苦しいって思ったなら、それはもう、嘘じゃないだろ」
かなえが睨む。
睨むくせに、目が濡れそうで、玲央は息を飲む。
ここで、避け続けてきた一番の地雷に行く。
「……位置情報のこと」
かなえの目が一気に冷える。
冷えて、でも、逃げない。
逃げないからこそ、言葉が刺さる。
「それが一番嫌だった」
かなえの声が、少しだけ震えた。
「怖いとか寂しいとか、そういうのを盾にして」
「勝手に、私を逃げられない状態にしようとした」
玲央は腹の底が焼けるみたいに痛い。
痛いのに、言葉にしないとまた同じことを繰り返す。
「……ごめん」
玲央は、頭を下げない。謝って終わらせないために、目だけは上げたまま言う。
「言い訳にしか聞こえないのも分かってる」
一拍、呼吸を置く。
「でも、結城さんが"いなくなる"って思った瞬間」
息が詰まる。
「俺、頭が壊れた」
「壊れるなら、言って」
かなえが、はっきり言った。
「勝手に壊れて、勝手にやる前に」
「私に選ばせて」
「……私を、閉じ込めないで」
閉じ込めないで。
その言葉が、玲央の腹の底を冷たくした。
自分がどれだけ危ないことをしたか、やっと"外側の温度"で分かる。
玲央は声が掠れそうになるのを堪えて、吐くように言った。
「……俺、どうしたらよかった」
「迎えに行かないって守っても」
「待っても」
「……戻ってこない夜が来るのが、怖かった」
かなえが息を呑む。
呑んで、でも、そこで終わらせない。
「怖い、は分かる」
かなえの声が少し柔らかくなる。
柔らかくなった瞬間、玲央の奥の何かが顔を出しそうになって、歯を食いしばる。
「でも、だからって縛るのは違う」
「分かってる」
玲央は頷く。
「分かってるのに、止められなかった」
恥もプライドも、今夜は邪魔だ。
「……帰ってこないのに、帰ってくる体で待ってた」
「マグ出して」
「鍵の音が聞こえる方に耳を向けて」
「結城さんが今どこにいるか、誰といるか」
「その想像が、止まらなかった」
かなえの瞳が揺れる。
揺れて、怒りだけじゃない顔になる。
その変化が怖い。
やさしくなって許されたら、また甘えてしまう。
だから玲央は、ここで"お願い"をちゃんと言葉にした。
「終わらせたくない」
玲央は言った。
懇願の形になるのが悔しいのに、悔しさより怖さが勝つ。
「俺、終わらせたくない。結城さんとの関係」
「切られるの、無理」
喉の奥が熱い。
「……でも、切られないために、勝手にするのも違う」
かなえが目を逸らしそうになって、逸らさない。
逸らさないまま、ツンとした声で言う。
「遅い」
その一言に、玲央の胸が痛いほど救われる。
遅い、って言えるのは、まだ終わってないからだ。
「遅いね」
玲央は素直に頷いた。
「だから、今から直す」
ここで、約束を"契約"にしない。
かなえが嫌がる形にしない。
「俺、会いたいなら会いたいって言う」
「迎えに行きたいなら、迎えに行きたいって言う」
「……その代わり、結城さんが"嫌"なら嫌って言って」
声が震える。
「俺に、言わせてくれ。俺も、選ばせてほしい」
かなえが眉をひそめる。
反射で、強がりが出る。
「何それ。ずるい」
「ずるいよ」
玲央は笑わない。笑ったら、軽くなる。
「でも、ずるくしないと俺、ここで壊れる」
言った瞬間、自分の言い方が危ないのも分かる。
脅しに聞こえる。
だからすぐに、言い直す。
「……違う」
玲央は息を吐く。
「壊れるのを盾にしたくない。ごめん」
「ただ、俺の本音、もう隠せない」
かなえは、鞄の紐を握ったまま小さく言った。
「私だって、隠してた」
その声が小さすぎて、玲央は息を止める。
「恋人苦手って言ったの」
かなえの声が少しだけ掠れる。
「本当は、自分が怖かったから」
「惹かれてるのに」
「信じたら、もし違った時に、私が立て直せないと思った」
玲央の胸が、ぎゅっと縮む。
そこに手を伸ばしたいのに、今日は触れない。
触れたら、また夜の形に逃げる。
かなえは続ける。ツンとしたまま、でも目だけは逃げない。
「神谷さんは、いい人」
「だから余計に、振った」
「私が今、誰かに甘えたら」
「それは相手のためじゃないから」
言い切ってから、最後に小さく付け足す。
「……あなたにも、そうしたくない」
玲央の胸が熱い。
言葉の意味が分かるから、余計に痛い。
「じゃあさ」
玲央は、声を落とした。
縋るみたいにじゃなく、ちゃんと向き合う声で。
「俺、どうしたらいい」
「"夜だけ"じゃなくなるために」
「結城さんが、逃げなくて済む形にするために」
かなえは一瞬黙って、目を伏せた。
それから、短く言った。
「まず、勝手にしない」
「ちゃんと聞いて」
「私が決める」
ツンとしたまま言う。
「嫌って言ったら、止まる」
玲央は、何度も頷く。
頷きすぎて、みっともない。
でも今夜は、そのみっともなさを隠さない。
「止まる」
「……止まるよ」
言いながら、自分で信じ切れてないのも分かって、怖くなる。
だから玲央は、怖さごと差し出した。
「俺、また暴れそうになったら」
「ちゃんと言う」
「"今、変なことしそう"って」
声が出ない一拍がある。
「……情けないけど、言う」
かなえが、鼻で笑いかけて、笑いきれない顔になる。
「ほんと、情けない」
「うん」
玲央は即答した。
「情けない」
それから、もう一つだけ。
言ったら終わりそうで、でも言わないと始まらない言葉。
「結城さんの昼が、欲しい」
かなえの目が揺れる。
反射で突っぱねる言葉が出そうになって、でも出さない。
出さない代わりに、ツンとしたまま、言う。
「"欲しい"とか言い方が重い」
「重いよ」
玲央は目を逸らさない。
「軽いフリ、もうできない」
そして懇願の本体を、やっと言葉にする。
「お願い、終わらせないで」
「俺、ちゃんと直すから」
「直して、ちゃんと――」
喉が詰まる。
「ちゃんと、あなたの隣に立てるようにするから」
かなえは唇を噛んで、しばらく黙った。
その沈黙が怖くて、玲央の指先が震えそうになる。
でも、耐える。今日は耐える。
かなえが、息を吐いた。
その吐息に混ざって、諦めと、苛立ちと、どこかの安堵が滲む。
「……終わらせるために来たわけじゃない」
玲央の胸が、かつん、と音を立てて落ち着いた。
落ち着いた瞬間、目の奥が熱くなる。奥歯を噛む。
かなえは続ける。素直じゃないまま。
「ただ、言う」
「次、勝手にしたら、私はほんとに消える」
目がまっすぐで、怖いくらい真剣。
「脅しじゃない。事実」
玲央は頷く。
頷いて、今度は言い訳をしない。
「うん」
「……分かった」
かなえは鞄を床に置いた。
それだけで、"帰れる姿勢"が少しだけ解ける。
玲央は、その変化に気づいてしまって、腹の底の黒いものが甘く疼いた。
抱きしめたい。引き寄せたい。今すぐ"確かめたい"。
でも、それをしたら、今夜の意味が消える。
だから玲央は、手を伸ばさない。
代わりに、声だけを伸ばす。
「……ありがとう」
さっきのずるい"ありがとう"じゃなくて。
今度は、痛みごと受け取るためのありがとう。
かなえは「別に」と言いかけて、飲み込んだ。
その飲み込み方が、玲央には救いだった。
金曜の夜。
いつもみたいに、既成事実で終わらせない。
甘い言葉でごまかさない。
怖いまま、痛いまま、それでも――終わらせないために話す。
玲央はゆっくり息を吐いた。
吐き切った後で、ようやく肩の力が少しだけ抜ける。
奥には、まだ、ねっとりした欲が残っている。
残っているのに、今夜はそれを"行動"に変えない。
終わらせたくないから。
終わらせないために、ここで一度、壊れ方を変える。




