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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第51話 記録に残る日



 会場の空気は、朝から少しだけ熱い。

 まだ客の入っていないホワイエに、台車のゴムが擦れる音と、テープを切る音と、マイクチェックの「はい、はい」が反響している。


 かなえは名札を留め直して、進行表を指でなぞった。

 合同イベント当日。ここまで神谷と一緒に積み上げてきたものが、今日、全部"形"になる。


(仕事)

(今日は、仕事だけ)


 言い聞かせるほど、呼吸が浅くなるのが分かる。

 それをごまかすみたいに、かなえはスタッフの動線へ視線を配った。


「結城さん、受付の案内板が一枚足りなくて……!」


 走ってきたスタッフの声に、かなえは即答する。


「予備、あります。どこが抜けてますか」

「貼る位置、今決めましょう」


 声はいつも通り。

 頭の中は段取りだけ。

 それでいいはずなのに――


「結城さん」


 呼ばれて、胃が先に鳴った。


 振り向くと、玲央が運営用の腕章をつけて立っていた。

 タブレットと資料の束。髪は整っているのに、目の奥が眠っていない。


「来賓席、ひとつ増えるかもしれません」

 玲央は淡々と言った。

「先方から"同行者がもう一名"って。確定は十時」

「今のうちに席の調整、見たいです」


 正しい。全部、正しい。

 かなえは頷いた。


「分かりました。席割り、確認します」

「神谷さんにも共有します」


「お願いします」


 玲央はそれだけ言って、視線を外した。

 外したのに、かなえの周辺を離れない気配が残る。


(……偶然)

(運営だから、当たり前)


 当たり前、と言い聞かせるほど、違和感が積もる。


* * *


 壇上袖の打ち合わせスペース。

 神谷はすでに来ていて、タブレットを見ながら最後の文言を確認していた。


「結城さん。朝からすみません」

 神谷が顔を上げる。

「会場、いい空気ですね。仕上がってる」


「皆さんが段取り良いだけです」

 かなえは仕事の笑顔で返した。


 返したのに、神谷はそこで終わらせない。

 終わらせないのに、押しつけない。


「今日が終わったら」

 神谷が、ひと息で言う。

「少しだけ、時間ください」


 かなえの喉が乾いた。

 "返事"じゃない。でも、逃げ道が減る言い方。


「……今、ですか」


「今がいい」

 神谷はあっさり言った。

「忙しい日のほうが、先延ばしにしないで済むでしょう」


 先延ばし。

 その単語が、かなえの胸を内側から押した。


 神谷は目を逸らさず、静かに続ける。


「イベントが終わったらでいい」

「答えは急がせません」

「でも"時間"だけは、約束してください」


 かなえは、頷く以外の返し方を見つけられなかった。


「……分かりました」

「終わったら、少し」


 神谷は、それを"契約"みたいに受け取って一度だけ頷いた。


「ありがとうございます」


 そこでようやく、仕事の画面に戻る。

 その切り替えの上手さが、余計に刺さる。


* * *


 本番が始まると、会場は一気に"記録に残る日"の顔になる。

 受付の列。案内の声。資料の紙が擦れる音。照明の熱。


 かなえは導線の端で、来賓の到着を確認しながら、スタッフの動きも見ていた。

 忙しい。忙しいのに、視界の端に玲央が入る回数が多い。


 控室の前。来賓席の近く。機材の裏。

 そして、かなえの近く。


 偶然、と言えば偶然。

 運営、と言えば運営。


 ――なのに、背中がぞわっとする瞬間がある。


 小さな揉め事が起きた。

 来賓側の男性が苛立った声を上げる。


「聞いていない。同行者の席がない?」

「こういうところ、段取りどうなってるんですか」


 スタッフの目が泳ぐ。

 かなえが一歩出ようとした、その瞬間。


「申し訳ありません。こちらで調整します」


 玲央がすっと間に入った。

 声は低く、落ち着いている。相手の苛立ちを受け止める温度が、ちょうどよくて――腹が立つくらい"上手い"。


「同行者さまのお名前、確認できますか」

「席は今すぐご用意します。お待たせしません」


 相手の呼吸が一拍で落ち着く。

 玲央は笑わない。笑わずに"落ち着かせる"。


 かなえは、助かったと思ってしまう。

 思ってしまった自分が悔しいのに、仕事は仕事だった。


「……ありがとうございます」

 かなえが言うと、玲央は振り向きもしないまま返した。


「当然です」


 当然。

 その言葉が、腹の奥にぬるく残った。


(……昼の私を助けて、当たり前みたいに言う)

(当たり前にされたら、困るのに)


 困るのに、胃が痛い。


* * *


 壇上。照明が白く眩しい。

 質疑が始まる。想定より鋭い質問が飛ぶ。


 「効果」「責任」「再発防止」――言葉が刃になって客席から上がる。


 神谷が丁寧に受ける。

 受けながら、最後にかなえへ視線を渡す。


 かなえはマイクを取った。


「ご質問ありがとうございます」


 言葉を選ぶ。逃げない。誤魔化さない。

 現場の温度のまま、必要なところだけを切り取って返す。


 途中、司会が紙を落とした。

 小さな音。でも、その一拍で空気がざわっと動く。


 次の瞬間、壇上袖から玲央が一歩出た。

 運営の顔で、短い指示を出す。マイクのレベルを調整し、司会の視線を正して、場を戻す。


 ――"答える場所"が戻る。


 その場所の中心に、かなえが立っている。


 最後に神谷が一言だけ添えた。


「今の回答が、我々の姿勢です」


 拍手が起きた。

 会場が"納得"に寄る音がした。


 拍手の中で、かなえはふと壇上袖を見た。

 玲央がそこにいる。腕章を触りながら、仕事の顔。


 それだけ。

 それだけなのに、奥がざらつく。


(……この人が、場を作った)

(私が答える場所を、作った)


 それを善意と言い換えたら、断れなくなる。

 だから、かなえは何も思わないふりをした。


* * *


 終了後、控室に戻ると、会場の熱がやっと遠のいた。

 身体の力が抜ける。抜けた瞬間に、心が追いついて胃が痛い。


 写真撮影が入り、関係者の挨拶が続き、片付けの指示が飛ぶ。

 "終わった"はずなのに、終わらない。


 そして、終わったあとに約束していたはずの時間は――


「結城さん、すみません」

 運営スタッフが駆け寄ってきた。

「この後、関係者で軽く打ち上げって話が……。先方も参加希望で」


 打ち上げ。

 断りにくい"仕事の延長"。


 かなえは一瞬だけ目を閉じた。

 神谷との約束が頭をよぎる。玲央から「金曜、少しだけ」と言われていたことも、薄くよぎる。


(……今日、金曜だ)


 それでも、かなえは仕事の顔を作った。


「分かりました。顔だけ出します」

「長くは居られないので、その前提で」


* * *


 打ち上げは会場近くの店だった。

 "軽く"のはずが、人数が揃うと場は勝手に温まる。


 乾杯。労い。写真。次回の話。


 かなえは笑って頷いて、必要な言葉だけを返す。

 それができる自分が怖い。怖いのに、仕事は回る。


 席の斜め向こうに玲央がいるのが見える。

 笑っている。周りと会話している。

 笑っているのに、何かが薄い。


 水上美緒が、玲央の隣――ではない。

 一つ席を空けて、斜め後ろ。

 会話の輪に入っているのに、視線だけが時々玲央に落ちる。


 かなえはそれを見ないふりをした。

 見たら、胃が痛むから。


 神谷が、グラスを置いてかなえの方へ身を乗り出した。


「結城さん」

 声は控えめ。周囲には聞こえない距離。

「……約束、覚えてますか」


 かなえは息を吸った。頷く。


「はい」


「少し、外出ましょう」

 神谷は淡々と言った。

「二分でいいです」


 二分。

 逃げ道みたいに小さい数字なのに、重い。


 かなえは立ち上がった。


「失礼します」

「すぐ戻ります」


* * *


 店の外は、夜風が冷たかった。

 酔いが一瞬で薄まる。


 神谷は距離を詰めすぎず、壁際に立った。

 押しつけないのに、逃がさない立ち方。


「結城さん」

 神谷はまっすぐ言った。

「今日、よかったです」

「だから、言います。僕は――あなたを、ちゃんと"対象"として見たい」


 かなえの喉が詰まる。

 言葉が綺麗すぎて、盾が薄くなる。


 かなえは、決めていた。

 今日、答えると。


 だから、息を整えて言った。


「神谷さんは、すごく魅力的です」

「仕事も、言葉も、安心させるのも、全部」


 神谷の目がわずかに揺れる。


「でも」

 かなえは続けた。

「……付き合えません」


 言った瞬間、胸の内側がきゅっと痛む。

 泣きそうでもないのに、息が薄い。

 それでも、ほんの少しだけ空気が通った気がした。


 神谷はすぐに問い詰めない。

 一拍置いて、淡々と頷いた。


「理由は、聞かない」

「今は、聞かない方がいい顔です」


 かなえは唇を噛んだ。


「すみません」


「謝らないでください」

 神谷は軽く笑う。

 軽く見せて、軽くない。

「僕は、選択肢になりたいと言った」

「選択肢に"なれない"と言われたわけじゃない」


 かなえは返せない。


 神谷はそこで、強くは出ない。

 強く出ないのに、釘だけ刺す。


「イベントが終わったら、って言いましたよね」

「終わったから、今日言いました」

「……また迷ったら、呼んでください」


 呼んでください。

 迎えに来るでもない。

 正しい形の"手"の差し出し方。


 かなえは、苦しくて、でも少しだけ救われる。


「……ありがとうございます」


「戻りましょう」

 神谷はそれだけ言って、先に扉へ向かった。


* * *


 結城さんが席を立った瞬間、音が一段遠のいた気がした。


 誰かが「お疲れさま!」ってグラスを鳴らす。笑い声が跳ねる。料理の皿が回る。

 それ全部が、いつも通りの"打ち上げ"のはずなのに、玲央の耳には薄い膜越しにしか届かない。


 神谷が後を追う。

 追う、というほど大げさじゃない。立ち上がるタイミングも、声も、視線も、全部が上手くて自然で、周りに理由を残さない。


 ——外。


 たった二文字が、喉の奥を擦った。


 玲央は箸を持ち上げたまま、動けなかった。

 動けなかったのに、顔だけは笑ってしまう。誰かの話に「そうっすね」って返す。

 返した声が、妙に軽い。


 ……軽くしないと、形が崩れるから。


 テーブルの向こうの窓ガラスに、夜の街が滲んでいる。

 その滲みの向こうへ、結城さんの背中が消える。

 消えた瞬間、腹の底がすっと冷たくなった。


(ああ、そうだ)


 俺は、いつもそれを見送る側だ。

 入れない場所がある。

 正しい理由がないと立てない場所。

 "仕事じゃない時間"の入り口。


(神谷さんは、入れる)

(俺は、入れない)


 たったそれだけの差が、今は刃みたいに鋭い。


 テーブルの下で、玲央は自分の手を握った。

 指先が熱い。掌の皮膚が軋むくらい握る。

 痛みがあると、まだ"正しい顔"を保てる。


 ——見ない。

 見たら、壊れる。


 そう思っているのに、視線が勝手に窓へ行く。

 窓の向こうに見えるのは、二人の影の輪郭だけ。

 声は届かない。届かないのに、想像だけが増えていく。


 結城さんが、あの顔をする。

 仕事の顔じゃない、少しだけ柔らかい顔。

 それを引き出せる人間がいる、と知ってしまう。


(俺の前じゃ、出さないくせに)


 口にしたら終わる言葉が、舌の裏で暴れる。

 暴れるのを歯で押さえる。

 笑って、頷いて、乾杯の輪に戻る。


 隣の席で、美緒がグラスを置く音がした。

 玲央の横顔を見ている気配だけが、薄く刺さる。


 玲央は気づかないふりをする。

 気づいた瞬間に、自分がどれだけみっともないか露呈するから。


 窓の外で、神谷が一歩引く。

 結城さんが何かを言う。

 口の形だけが見える。小さく。丁寧に。

 その丁寧さが、胸をえぐった。


 丁寧な言葉は、逃げ道を塞ぐ。

 結城さんは、逃げ道のない場所でしか本音を言わない。

 ——俺の部屋みたいに。夜みたいに。


 でも神谷は、外でそれを引き出す。


(……俺がそこに立てないだけだ)


 誰かのせいにしたら楽になる。

 楽になれないから、腹の底だけが濁っていく。


 玲央は息を吸って、吐いた。

 吐いた息が震えないように、喉を一度鳴らす。


(落ち着け)

(まだ、終わってない)

(結城さんは、俺を"切って"ない)


 言い聞かせるたびに、その"切ってない"が、祈りみたいに薄くなる。


 窓の外で、結城さんが頭を下げた。

 神谷が何か言って、肩が少しだけ緩む。

 その緩みが、玲央には許せないほど眩しい。


 笑うな。

 笑われたら、俺の夜が軽くなる。

 俺の夜が、ただの"都合のいい場所"になる。


 玲央は箸を置いた。

 指が震えている気がして、テーブルの縁を指先で押さえる。

 大丈夫。大丈夫。会社の顔。


 ——扉が開く。

 結城さんが戻ってくる。


 戻ってきた瞬間、玲央の胸の内側が、反射で熱くなる。

 "戻ってきた"。それだけで救われるみたいに。

 救われた自分が、すぐに腹立たしい。


 結城さんは席へ戻る途中、誰とも目を合わせない。

 いつもの仕事の歩き方に、無理やり戻している。

 その硬さが、玲央には分かってしまう。


 ——言われた。

 ——ちゃんと、言われた。


 声は聞こえないのに、結果だけが胸に落ちてくる。

 答えを出した人間の、妙に軽い疲れが、結城さんの肩にある。


 玲央は笑う準備をした。

 ほら、何でもない。ほら、気にしてない。ほら、仕事の延長。


 結城さんが席に着く。

 グラスを触る指先が、一瞬だけ迷う。

 迷って、でも笑う。


 その笑いが、玲央の中の何かを静かに削った。

 削られたまま、表面だけが整う。整えるほど、奥が濁る。


(俺の知らない場所で)

(俺の知らない言葉で)

(結城さんは、何かを終わらせた)


 終わらせたのが神谷の気持ちならいい。

 終わらせたのが"選ぶ"の迷いならいい。

 でも——終わらせたついでに、俺の夜まで片付けていたら?


 想像が喉に刺さって、玲央は一度だけ視線を外した。

 外して、戻せない。戻したら、目の奥が崩れる。


 誰かが玲央に話しかける。

「相沢くん、今日ほんと助かったわ」

 玲央は笑って頷く。言葉を返す。問題なく返せる。


 返せるのに、奥だけが濁っていく。


 結城さんがふと、こちらを見る。

 いや、見る"しかける"。

 視線が泳いで、最後の一センチで逸れる。


 逸れたことに、玲央は腹が立った。

 逸れたことに、玲央は嬉しくなった。


(見たかったんだろ)

(でも、見たら——何かが起きると思ったんだろ)


 その"何か"が、俺には甘い。

 俺には危ない。

 俺のせいで結城さんが壊れるみたいな顔をするから、結城さんは自分で自分を縛る。


 そして神谷は、縛らなくていい言葉を渡す。


(……与えるものが違う)


(俺には、夜しか残さないくせに)

(外で呼吸できる場所は、別の男に渡す)


 受け取ったら終わるから、受け取れない。

 終わるくらいなら——形を作る。

 正しい形。誰も文句を言えない形。

 昼に立つ理由。隣にいる許可証。


 玲央はグラスを持ち上げて、一口飲んだ。

 味がしない。

 味がしないのに、喉だけが熱い。


 向かいの席で、結城さんが小さく息を吐く。

 肩がほんの少しだけ落ちる。

 その落ち方が、"誰かに受け取られた"落ち方で。


 笑ってしまいそうになった。

 笑ったら、きっと崩れる。


 だから、視線は優しくする。声は穏やかにする。

 言葉は一つも増やさない。


 増やさないまま、心の中だけで、ぎりぎり自分を繋ぎ止める。


(会ったら、言ってしまう)

(言いたくないことを言ってしまう)

(——だから今は、言わない)


 言わない代わりに、決める。

 取りに行く。夜だけで済ませない。


 玲央は、もう一度だけ結城さんを見た。

 結城さんは、見ていないふりをしている。

 ふりが下手で、胸が痛い。


 痛いから、目を細める。

 "可哀想"に見せないための、仕事の笑顔で。


(大丈夫)

(今度は、離さない)


 それが愛情かどうかなんて、もうどうでもよかった。


* * *


 打ち上げが解散すると、街はもう遅い時間の顔になっていた。

 みんながそれぞれの帰路へ散っていく。


 かなえは神谷に短く頭を下げた。


「今日は、ありがとうございました」

「……すみません」


「謝らないで」

 神谷は小さく言う。

「仕事、最後までお願いします」

「それだけで、今日は十分です」


 かなえは頷いて、駅へ向かった。


 ――その背後で。


 玲央は、かなえと神谷が最後に交わした距離と温度だけを見ていた。

 言葉は聞こえない。聞こえないから、想像だけが増える。


 声を出したら壊れるから、玲央は何も言わない。

 ただ、帰る。


 迎えに行かないと決めた金曜。

 約束を守ったつもりの金曜。

 それでも、彼女は戻ってこない金曜。


 玲央はひとりで電車に乗った。


* * *


 帰宅しても、部屋の電気はすぐにつけなかった。

 暗いままの玄関で靴を脱ぎ、息を吐く。


 息を吐いた瞬間、胸の内側が痛んだ。


 玲央は、ゆっくりと灯りをつけた。

 キッチンの灯り。リビングの灯り。

 "帰ってくる"時の順番みたいに。


 ソファの近くのクッションを整える。整えて、また戻す。

 意味がないと分かっているのに、手が止まらない。


 冷蔵庫を開ける。

 何か飲み物を出そうとして閉める。

 出そうとして、閉める。


(……来ない)

(来るわけがない)


 分かってる。

 分かってるのに、スマホの画面だけが怖い。


 ——帰宅の連絡だけは、来る。

 "ルール"として決めたから。

 決めたから、希望が残る。


 玲央は口の端が動くのを感じた。

 笑いが喉に引っかかって、咳みたいになる。


(……何してんだよ、俺)


 涙が出るほどじゃない。

 でも、腹の中が泥みたいに重い。


 玲央はソファに座って、スマホを握りしめた。

 通知が来ないのに、握りしめる。


(今日は、迎えに行かない)

(守った)

(守ったのに)


 守ったのに、戻ってこない。


 玲央の指が、無意識に首元へ行きかけて止まった。

 もう、赤みはない。証はない。

 自分の体に"かなえ"は残っていない。


 その事実が、静かに突き刺さる。


 スマホが震えた。


 玲央の心臓が跳ねる。

 画面を見る。


 ――結城さん。


『帰宅しました』


 たったそれだけ。

 たったそれだけなのに、玲央の呼吸が一拍乱れる。鼻の奥が、じわっと熱くなる。


(帰った)

(帰ったのに、俺のとこじゃない)


 玲央は目を閉じる。

 閉じたまま、文字をもう一度頭の中で読み直す。


 それでも、手が勝手に動いてしまう。


『今、少しだけ』

『金曜だから』

『……約束、覚えてる?』


 送信。


 送ってしまった後で、玲央は息を止めた。

 止めた息が、細く震える。


 返事が来なければ、終わりになる。

 返事が来ても、終わりになる。


 どっちでも怖いのに、指は止められない。


 数秒。数十秒。

 時間が伸びていく。


 そして、もう一度、スマホが震えた。


『……今から行きます』

『少しだけ、です』


 玲央の喉の奥が、熱くなる。


(来る)

(来るんだ)


 勝ったわけじゃない。何も解けてない。

 それでも"来る"という事実だけが、玲央の奥を生かす。


 玲央は立ち上がった。

 玄関灯を、少しだけ明るくする。

 鍵の音が聞こえやすいように、部屋の音を消す。


 それから、玲央は鏡の前に立った。


 会社の顔じゃない。

 でも、壊れた顔も見せられない。

 その間の顔を、ゆっくり作る。


 インターホンが鳴る前に、息を整える。


 今日は奇しくも金曜日。

 そして、彼女が来る。


 "少しだけ"でいいはずなのに、

 玲央の奥は、もうそれじゃ足りないと知っていた。

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