第50話 昼と外
イベント当日まで、あと一週間。
社内の会議室は、紙と付箋とケーブルの匂いがした。壁一面のタイムライン。役割表。最終版と赤字で書かれた資料の束。
かなえはペン先で、赤い修正をひとつ潰す。潰して、次へ。潰して、次へ。考える前に手を動かせば、心も追いつくと信じてきた。
「ここの誘導文言、先方の法務、まだ気にしてます」
神谷が、画面の端を指で叩いた。
「了解です。じゃあ"お願い"じゃなくて"ご案内"に寄せます」
かなえは即答して、打鍵する。
言い切りを落として、余白を残す。炎上の芽を摘むやつ。
神谷は黙って、かなえの横顔だけを見ていた。仕事の空気を壊さない距離で、でも視線だけは外さない。
「結城さん」
名を呼ばれて、かなえの指が止まった。
「今、僕を"仕事相手"として扱うの、上手いですね」
神谷は笑った。笑っているのに、逃がす気がない目。
「……上手い、ですか」
「上手い」
神谷は肯定してから、ゆっくり言葉を足す。
「でも、僕はもう放っておけない側に回ってます」
喉の奥が、きゅっと狭くなる。
神谷は押しつけない。押しつけないからこそ、断り方が見つからない。
かなえは一度だけ息を吸って、資料へ視線を落とすふりをした。文字は並んでいるのに、頭に入ってこない。
「イベント当日が終わったら」
神谷は一歩だけ近づく。圧はかけない距離で言う。
「返事をください」
返事。
その単語が胸より先に腹の底を掴んだ。
「今すぐじゃなくていい」
神谷は先回りして続けた。
「でも、保留のまま時間だけ過ぎるのは、俺は嫌だ」
かなえは視線を逸らした。
逸らした先に、ガラス越しのフロアが見える。仕事の音。人の動き。世界が正しく回っているように見える景色。
「イベントが終わって、あなたの肩から"締切"が落ちた頃でいい」
神谷は言い方を整えるみたいに、一拍置く。
「その時に、短くでいいから――"結論の置き場所"を俺にください」
「会うでも、電話でも、メッセージでもいい。あなたが決めて」
「俺は合わせる」
逃げ道を消すんじゃなく、逃げ方を指定してくる。
それが神谷の強さだ。優しい顔で、こちらに責任だけを返す。
かなえは頷けなかった。頷いたら、もう"置き場所"を渡してしまう気がした。
だから、口だけが動く。
「……分かりました」
返事が敬語になる。
それでしか線を引けない。線を引くことで、自分の体温を守る。
神谷は小さく頷く。押し勝った顔はしない。ただ、引かない顔をする。
「ありがとう」
それだけ言って、神谷は仕事の温度に戻した。
「じゃあ当日まで、走り切りましょう。ここで崩したくない」
かなえは、曖昧に笑うしかできなかった。
笑いながら、胸の内側がじわじわ締め付けられる。
"合わせる"と言われたのに、自由じゃない感じがした。
選ぶ責任だけが、綺麗に手渡された気がして。
* * *
オフィスへ戻る途中。
通路の角を曲がった瞬間、かなえは足を止めた。
玲央がいた。
複数人に囲まれて、笑っている。冗談を言って、場を回している。仕事の顔。会社の空気。
なのに――どこかが薄かった。
笑い方が表面だけ走っている。声は軽いのに、目の奥だけがどこにもいないみたいで。
ひとつの拍手で崩れそうな、細い張りがある。
(……私のこと、じゃない)
そう思おうとする。そう思うほうが、楽だから。
玲央が頑張ってる理由を、自分に結びつけた瞬間、何かが壊れる気がする。
(玲央が仕事を頑張ってる理由は、私じゃない)
(私のことなんて、物珍しかっただけ)
そう言い聞かせて、視線を逸らした、その時。
「結城さん」
後ろから声がした。
振り向くと、水上美緒が立っている。明るい子の顔のまま、目だけが妙に真面目だった。
「最近、相沢さん……何かおかしいです」
美緒は軽く言うふりをして、言葉を選ぶ。
「私、近いから分かるんですけど。あれ、いつもの"余裕"じゃない」
かなえの胃が、きゅっと鳴る。
関係ないふりをしないといけない。
ここで関わったら、余計に"ある"ことになる。オフィスの空気に、線が滲む。
だから、いちばん無難な線で返した。
「私は関係ないと思います」
淡々と言ってから、あえて美緒へ視線を向ける。
「水上さんの方が仲が良いでしょう?」
「……喧嘩したの?」
自分の口から出た言葉が、少しだけ棘を持っていて、かなえは内心でぎくりとした。
ツン、と立てた針が、戻らないままそこに残る。
美緒は、一瞬だけ固まった。
それから、ふっと笑う。
「あー……そっか」
美緒は軽い声で言うのに、目が笑っていない。
「結城さん、そう思ってるんですね」
「……何がですか」
「いえ、別に」
美緒は首を振って、笑顔だけを残す。
「ありがとうございます。聞けてよかった」
よかった、の意味が分からない。
分からないまま、美緒はそのまま玲央のほうへ歩いていった。背中がやけに軽い。
かなえは、その場に残ったまま指先を握りしめる。
(……私、何を言ったんだろう)
正しい返しのはずなのに。
正しい言葉のはずなのに。
奥だけが、ざらついた。
それに。
"関係ない"って言えたくせに、玲央が視界に入ると呼吸が少しだけ楽になる自分がいる。
他の人は気づかない。
かなえが崩れそうでも、仕事してる顔だけ見て終わる。
なのに玲央だけは、ほんの僅かな違和感に気づいてしまう。気づいて、言葉にせずに寄せてくる。
その関係がなくなるのが怖い。
怖いのに欲しい。欲しいのに認めたくない。
かなえは画面に視線を戻して、仕事の文字を追った。
* * *
夕方。
玲央は資料の束を抱えたまま、給湯室の横で美緒に呼び止められた。
周りに人がいないタイミングを選ばれている。
その"選び方"が、もう嫌な予感を連れてくる。
「相沢さん」
美緒は笑って言う。
「結城さんに聞いてみたんです。最近相沢さんおかしいって」
玲央の指が、紙の角を強く押した。痛みで自分を繋ぐみたいに。
「……で」
「"私は関係ないと思います"って」
美緒は、わざとそのまま復唱した。
「"水上さんの方が仲が良いでしょう?喧嘩したの?"って」
玲央の呼吸が、一拍だけ遅れる。
胸の底が冷える。
冷えたところに、黒いものがじわじわ湧く。
(関係ない)
(俺が、関係ない?)
なのに金曜の夜は俺の家にいた。
なのに俺の腕の中で眠った。
なのに、連絡は"一言だけ"って決めたあとも、守ってくれる時がある。
希望がある。
あるはずだ。
そう思わないと、立っていられない。
美緒は玲央の顔を覗き込んで、少しだけ声を落とした。
「結城さん、相沢さんと私が……そういう距離に見えてるっぽいです」
笑いながら言う。笑いの形だけで。
「分かりますよね。あの人、ちゃんとしてるから、言わないけど刺さるやつ」
玲央の喉が鳴った。
誤解。
誤解が原因で拗れたくせに。
誤解のままでも、かなえは離れていける。静かに、何も言わずに。
その想像だけで背骨の内側がぞくりと震えた。
「……ありがとう」
玲央は会社の声で言った。正しい返事。正しい顔。
美緒は、少しだけ目を細める。
「相沢さん、今まで"恋人いらない"って言ってたの、覚えてます?」
軽く刺す。悪意じゃないふりで。
「それでも、結城さんだけは別ですか」
玲央は笑えなかった。
別だ。
別に決まってる。もう、別以外の言葉がない。
でもそれを口にした瞬間、何かが決定してしまう気がした。
引き返せない場所に足を置く音がする気がした。
美緒は肩をすくめて、明るい声に戻す。
「ま、いいです。イベント近いし」
「でも私、巻き込まれたくないんで。必要なら、ちゃんと言ってくださいね」
言ってくださいね、の語尾が軽いのに妙に鋭い。
美緒が去った後、玲央はその場でしばらく動けなかった。
喉の奥で、言葉にならないものがぐつぐつ煮えている。
"結論の置き場所"。
廊下で、神谷の声が耳の端を掠めた。
行きがけに通路の角を曲がった時。ガラス一枚挟んで、かなえに向かって言っていた言葉。
置き場所をもらう。合わせる。引かない。
(……それ、俺には言わないくせに)
問いの形にすると軽くなる気がして、玲央は敢えて思考を言葉にしない。
代わりに、事実だけを並べる。
神谷は昼の世界に立てる。
堂々と、かなえに"結論"を要求できる。
"保留"を嫌だと言っていい権利を、持っているみたいに見える。
そして俺は。
夜の隙間でしか、息が届かない。
資料を抱え直した。
表面上は正しいまま歩き出す。
頭の中だけがどろどろに煮詰まっていく。
(肩書きが欲しい)
(隣に立っていい理由が)
自分が一番嫌っていたもの。
重さ。束縛。証明。
それに今、自分が縋ろうとしているのが分かるのに、止められない。
* * *
夜。
鍵が回る音が、やけに大きかった。
玲央は玄関で靴を脱ぎ、部屋の暗さに一拍遅れて息が詰まる。
電気をつける。明るくなる。
明るくなったのに、"ここは明るいはずだ"という感覚が抜けない。
帰ってくるはず。
そう決めていないのに、体が勝手にそう振る舞う。
手を洗って、いつも通りの動作をなぞる。
なぞらないと、顔が崩れる気がした。
リビングに戻って、ソファの背を指で一度撫でる。
そこに誰もいないのを確認するみたいに。
キッチンに立つ。
カップを一つ手に取って、置きかけて止めた。止めたくせに、結局置く。
「……別に、来るって言ってない」
声に出すと少しだけ正しくなる。
正しくなった分だけ、胸の奥が痛くなる。
スマホを見る。
"帰宅しました"の短い通知だけが淡々と残っている。
それが希望みたいに見えてしまう自分が、もう気味が悪い。
(まだ終わってない)
(切られてない)
(繋がってるって、言っていい……?)
そう言い聞かせると、喉の奥が熱くなる。
口の端が動く。笑えない。笑ったら、壊れる。
玲央は首元に手をやった。
もう、赤みはない。
触れても、何も残っていない。
"何も残っていない"という事実が、腹の底を冷やした。
(俺は、ただの相沢だ)
(かなえさんの、外側にいる)
そのままの自分を、かなえは捨てられる。
声を荒げる必要もなく、ただ"忙しい"の一言で。
ただ"保留"のまま、時間で。
玲央はソファに座った。座って、すぐ立ち上がる。
落ち着かない。落ち着いたふりを続けたいのに、体が許さない。
スマホを握り直して、画面を伏せる。
打たない。迎えに行かない。今日は"正しい"を守る日だ。
守ったのに、戻ってこない夜。
玲央は低く笑った。
笑ったのに、息だけが震えていた。
「……昼も、欲しい」
独りごちた声が、壁に吸われていく。
夜のかなえさんだけじゃ足りない。
隠す形じゃ、いつか負ける。
"正しい顔"をした外の世界で、ちゃんと手に入れないと。
そう思ってしまう。
思った瞬間、自分の中の古いポリシーが、乾いた音を立てて折れる。
正しさなんて、戻ってこない夜には役に立たない。
待って、守って、何も起きないまま薄れていく。
玲央は部屋を見回した。片づいている。生活が整っている。
整っているのに、空白だけが増えていく。
諦められない。
受け入れられない。
それでも通知が一つでもある限り、希望は残る。残ってしまう。
その"残ってしまう"が、いちばん残酷だ。
(隣に立つ理由がいる)
("結論"を受け取っていい立場がいる)
そう考える自分が、もう元の自分じゃない。
でも、元に戻る道がどこにもない。
玲央はスマホを裏返し、テーブルに置いた。
置いたまま、何もない首元を押さえる。
証はない。
もう何も残っていない。
だからこそ、欲しい。
昼の顔も、外の時間も、みんなの前のかなえさんも。
全部。
玲央はゆっくり息を吸った。
吐くとき、奥歯を噛んで声を殺す。
唇が、少しだけ震えた。
「……取る」
誰に言うでもなく。
自分にだけ、誓うみたいに。
迎えに行かない夜は、終わった。
正しさだけで待つ夜も、終わった。
玲央は立ち上がって、部屋の電気を一つだけ消した。
暗くするためじゃない。明るすぎると、壊れた顔が映るから。
暗い中で、"仕事の顔"だけが残る。
——その下で、胸の奥だけが、まだ泣き笑いのまま煮えていた。




