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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第49話 昼の顔も、欲しい



 イベント当日まで、あと一週間。


 社内の会議室は、紙と付箋とケーブルの匂いがした。

 壁一面のタイムライン。役割表。最終版と書かれた資料の束。

 かなえはペン先で、赤い修正をひとつ潰す。


「ここ、来場導線の誘導文言。先方の法務、まだ気にしてます」

 神谷が、画面の端を指で叩いた。


「了解です。じゃあ"お願い"じゃなくて"ご案内"に寄せます」

 かなえは即答して、打鍵する。

 考えるより先に、手が動く。


 それがいつもの自分で。

 それだけが、自分を保つ方法で。


 神谷は、しばらく黙ってかなえの横顔を見ていた。

 仕事の空気を壊さない距離で、でも視線だけは外さない。


「結城さん」

 名を呼ばれて、かなえの指が止まった。


「今、僕を"仕事相手"として扱うの、上手いですね」

 神谷は笑った。

 笑っているのに、逃がす気がない目。


「……上手い、ですか」


「上手い」

 神谷は肯定してから、ゆっくり言葉を足す。

「でも、僕はもう放っておけない側に回ってます」


 喉の奥が、きゅっと狭くなる。


 神谷は、押しつけない。

 押しつけないからこそ、断り方が見つからない。


「イベントが終わったら」

 神谷は淡々と続けた。

「返事、ください。保留のままでもいいって言ったの、覚えてます」

「……でも、終わったら一回だけ。僕のほうを、ちゃんと見て」


 かなえは息を吸った。

 "仕事"の盾が薄くなる音がする。


「今すぐじゃなくていい」

 神谷は一歩だけ踏み込んで、でも足を止める。

「判断に迷うなら、イベントのあと、一緒に出ましょう」

「昼間に。ちゃんと顔が見えるところで」


 昼間。ちゃんと。

 言葉が、順番に胸へ落ちる。


 玲央の顔が、勝手に浮かぶ。

 夜の部屋。息の近さ。指先の熱。優しい形をした命令。


「僕、悪い奴じゃないの、知ってるでしょう?」

 神谷は笑って言った。

 笑っているのに、釘だけは深い。


 かなえは、頷くことも否定することもできず、目線を資料に落とした。

 落としたのに、文字が頭に入ってこない。


「……イベントを、成功させます」

 口から出たのは、仕事の言葉だけだった。


「うん」

 神谷はそれを受け取って、少しだけ声を柔らかくする。

「だからこそ。終わったら、結城さんの"次"も一緒に考えたい」


 逃げ道みたいで、逃げ道じゃない。


 かなえは、曖昧に笑うしかできなかった。


* * *


 オフィスへ戻る途中。

 通路の角を曲がった瞬間、かなえは足を止めた。


 玲央がいた。


 複数人に囲まれて、笑っている。

 笑って、冗談を言って、場を回している。

 仕事の顔。会社の空気。


 なのに――どこかが薄かった。


 笑い方が、表面だけ走っている。

 声は軽いのに、目の奥がどこにもいないみたいで。

 ひとつの拍手で崩れそうな、細い張りがある。


(……私のこと、じゃない)


 そう思おうとする。

 そう思うほうが、楽だから。


(玲央が仕事を頑張ってる理由は、私じゃない)

(私のことなんて、物珍しかっただけ)


 かなえが視線を逸らした、その時。


「結城さん」


 後ろから声がした。

 振り向くと、水上美緒が立っている。

 明るい子の顔のまま、目だけが妙に真面目だった。


「最近、相沢さん……何かおかしいです」

 美緒は、軽く言うふりをして、言葉を選ぶ。

「私、近いから分かるんですけど。あれ、いつもの"余裕"じゃない」


 かなえの胃が、きゅっと鳴る。


 関係ないふりをしないといけない。

 ここで関わったら、余計に"ある"ことになる。


 かなえは、いちばん無難な線で返した。


「私は関係ないと思います」

 淡々と言ってから、あえて美緒へ視線を向ける。

「水上さんの方が仲が良いでしょう?」

「……喧嘩したの?」


 自分の口から出た言葉が、少しだけ棘を持っていて、かなえは内心でぎくりとした。


 美緒は、一瞬だけ固まった。

 それから、ふっと笑う。


「あー……そっか」

 美緒は、軽い声で言うのに、目が笑っていない。

「結城さん、そう思ってるんですね」


「……何がですか」


「いえ、別に」

 美緒は首を振って、笑顔だけを残す。

「ありがとうございます。聞けてよかった」


 よかった、の意味が分からない。


 美緒はそのまま、玲央のほうへ歩いていった。

 背中がやけに軽い。


 かなえは、その場に残ったまま、指先を握りしめる。


(……私、何を言ったんだろう)


 正しい返しのはずなのに。

 正しい言葉のはずなのに。

 奥だけが、ざらついた。


* * *


 夕方。


 玲央は、資料の束を抱えたまま、給湯室の横で美緒に呼び止められた。

 周りに人がいないタイミングを、選ばれている。


「相沢さん」

 美緒は笑って言う。

「結城さんに聞いてみたんです。最近相沢さんおかしいって」


 玲央の指が、紙の角を強く押した。

 痛みで自分を繋ぐみたいに。


「……で」


「"私は関係ないと思います"って」

 美緒は、わざとそのまま復唱した。

「"水上さんの方が仲が良いでしょう?喧嘩したの?"って」


 玲央の呼吸が、一拍だけ遅れる。


 腹の底が、冷える。

 冷えたところに、黒いものがじわじわ湧く。


(関係ない)

(俺が、関係ない?)


 それなのに、金曜の夜は俺の家にいた。

 それなのに、俺の腕の中で眠った。

 それなのに、あの"連絡は一言"だけは、まだ守ってくれる時がある。


 希望がある。

 あるはずだ。

 あるから、壊れないでいられる――はずなのに。


 美緒は玲央の顔を覗き込んで、少しだけ声を落とした。


「結城さん、相沢さんと私が……そういう距離に見えてるっぽいです」

 笑いながら言う。笑いの形だけで。

「分かりますよね。あの人、ちゃんとしてるから、言わないけど刺さるやつ」


 玲央の喉が鳴った。


 ――誤解。


 誤解が原因で拗れたくせに。

 誤解のままでも、かなえは離れていける。

 静かに、何も言わずに。


 その想像だけで、背骨の内側がぞくりと震えた。


「……ありがとう」

 玲央は、会社の声で言った。

 正しい返事。正しい顔。


 美緒は、少しだけ目を細める。


「相沢さん、今まで"恋人いらない"って言ってたの、覚えてます?」

 軽く刺す。悪意じゃないふりで。

「それでも、結城さんだけは別ですか」


 玲央は笑えなかった。


 別だ。

 別に決まってる。

 もう、別以外の言葉がない。


 でもそれを口にした瞬間、終わる気がした。

 自分の中の最後の線が切れてしまう気がした。


 美緒は肩をすくめて、明るい声に戻す。


「ま、いいです。イベント近いし」

「でも私、巻き込まれたくないんで。必要なら、ちゃんと言ってくださいね」


 言ってくださいね、の語尾が軽いのに、妙に鋭い。


 美緒が去った後。

 玲央はその場で、しばらく動けなかった。


(……昼のかなえさんが欲しい)


 今のままだと、手に入らない。

 夜だけ。部屋の中だけ。息の届く範囲だけ。

 それじゃ足りない。


 足りないと気づいた瞬間から、もう戻れない。


 玲央は、資料を抱え直した。

 表面上は正しいまま、歩き出す。


 頭の中だけが、どろどろに煮詰まっていく。


(肩書きが欲しい)

(ちゃんと、俺のって言える形が)


 自分が一番嫌っていたもの。

 重さ。束縛。証明。

 それに、今、自分が縋ろうとしている。


* * *


 夜。


 玲央の部屋は、明るかった。

 誰もいないのに、明るい。


 テーブルにはマグカップが二つ出ている。

 片方は使われないのに、片付けられない。


 玲央は、いつもの癖でソファの端を空けた。

 かなえが座る場所。

 座るはずの場所。


 スマホが鳴らない。

 鳴らないのに、玲央は音量を上げてしまう。


(……来るかもしれない)

(来ないって分かってるのに)


 受け入れられない。

 諦められない。


 それでも、かなえが送ってくる時がある。

 あの、一言だけの連絡。


 ——遅くなる/今日は帰る/疲れた。


 それだけで、呼吸が戻る。

 それだけで、"まだ繋がってる"って錯覚できる。


 玲央は笑った。

 笑ったのに、目が熱い。

 泣いてるのか笑ってるのか、自分でも分からない。


「……かなえさん」


 誰もいない部屋に、名前だけが落ちる。

 返事はない。

 ないのに、玲央は続けた。


「迎えに行かないって、守ってるよ」

「ちゃんと、守ってる」


 守っているのに。

 戻ってこない。


 玲央は立ち上がって、キッチンへ行き、また戻ってくる。

 やることを作る。

 止まったら壊れるから。


 ソファの前で、玲央は自分の首元に触れた。

 何もない。

 薄い赤みも、もう残っていない。


(ない)

(俺の体に、もう"証"はない)


 それが現実だった。

 現実が、玲央の胸を削る。


(俺は、かなえさんのものじゃない)

(……ただの、相沢だ)


 そのままの自分を、かなえは捨てられる。

 静かに、簡単に。


 玲央は息を吸って、吐いた。

 吐いても落ち着かない。


 だから、決める。


 正しい形で動く。

 仕事の顔のまま、外堀を埋める。

 誰にも文句を言わせない道を作って、その先で――かなえの"昼"を取りに行く。


 玲央はスマホを開き、短い文を打った。

 送信する直前で、指が止まる。


 お願い、の形にしたら逃げられる。

 命令、の形にしたら壊れる。


 その間の、いちばんずるい言い方を選ぶ。


 ——イベントが終わったら、話したい。

 ——仕事じゃなくて、ちゃんと。


 玲央は、送信した。


 画面に既読はつかない。

 つかないのに、玲央はスマホを胸に押し当てた。

 押し当てた形のまま、息を笑いに変える。


「……大丈夫」

 誰にともなく言う。

「今度は、ちゃんと手に入れる」


 その言葉だけが、部屋の中でやけに生々しく響いた。


 外は静かだった。

 静かすぎて、玲央の心臓の音だけが大きい。


 ——かなえが戻ってこない夜。


 玲央は唇を噛んで、目を閉じた。

 正しい顔の下で、何かがゆっくり形を変えていく。


 崩れない。まだ崩れない。

 崩れないように繋ぎ止めている指先が、少しずつ、取り返しのつかない方へ滑っていた。

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