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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第48話 イベントが終わったら、返事をください



 最終調整の週は、空気が薄い。

 会議室の壁も、モニターの白さも、全部が"締切"の色をしている。


 合同イベント。

 キックオフよりずっと長い時間をかけて、かなえと神谷が積み上げてきたものだ。企画の筋、役員の顔色、現場の導線、当日の質疑、台本の語尾。詰めるほどに、胃が先に痛む。


 かなえは資料の差分を見ながら、ペン先で一文を丸で囲んだ。

 言い切った瞬間に燃えるやつ。言い切らないで逃がすやつ。


「ここ、最後の助詞落とすと強すぎます」

 かなえが言うと、神谷は「うん」とだけ頷いて、すぐに言葉を削った。


 早い。

 決めるのも、直すのも、迷いがない。

 だからこそ、終わりが見えてしまう。終わった後に、残るものまで見えてしまう。


 資料が一段落したところで、神谷がペンを置いた。

 音が、やけに綺麗に響いた。


「結城さん」

 声が、仕事の温度からほんの少しだけ外れる。


「はい」


 神谷は机の上の資料を整え直しながら、まっすぐ見た。

 逃げ道をくれる目じゃない。逃げ道を塞ぐ目でもない。ただ、こちらを"ちゃんと"扱う目。


「もう、放っておけない」

 言い切る。

 言い切ってから、呼吸を整えるみたいに続けた。


「イベントが終わったら、返事をください」

「今すぐじゃなくていい。ここまで終わって、ちゃんと呼吸が戻ってからでいい」

「でも、"保留"のままにされるのは、もう嫌です」


 かなえの喉が、きゅっと鳴った。


 言い返せない。

 仕事の言葉じゃないのに、神谷の言葉は仕事より筋が通っている。自分の都合で相手を宙ぶらりんにしている、という事実だけがまっすぐ来る。


 神谷が少しだけ笑う。

 笑うのに軽くない。逃がさない笑い方。


「俺、悪い奴じゃないの、知ってるでしょ」


 その言葉が、ずるい。

 否定しづらい"事実"で迫ってくる。人格の評価を、交渉材料にするみたいに。


 かなえは視線を落とした。息を整える。

 整えたつもりでも、胸のざらつきは消えない。


「……今は、本当に余裕がなくて」


「うん。分かってる」

 神谷は頷く。頷いて、さらに踏み込む。

 突き放さないまま、段差を一段だけ上がってくる。


「だから提案」

「判断に迷うなら、イベント後にデートしましょう」

「昼に。外で。ちゃんと顔が見えるところで」

「それで"対象として見る"かどうか決めて」


 昼に。外で。ちゃんと。

 言葉が、順番に胸へ落ちる。


 胸の内側が痛いのに、少しだけ楽になった。

 責めない。追い詰めない。……でも逃がさない。


「……考えます」


 それだけ言うと、神谷は"合格"みたいに頷いた。


「それでいい」

「逃げるための"考えます"じゃなくて、"決めるための考えます"でいて」


 かなえは小さく頷いた。

 頷くしかできなかった。


 ――その瞬間、ふっと頭をよぎる。

 自分は、誰かに"決めること"を求められるのが、こんなに怖いんだっけ。


 恋人は苦手。

 そう口にしたのは、自分だ。だから今さら揺れるな、と自分を叱る。

 なのに、胸の奥が変に温かい。温かいのが、怖い。


* * *


 オフィスに戻ると、いつもの騒がしさがまだ残っていた。

 なのに、かなえの耳は変な方向だけ拾ってしまう。


 笑い声。雑談。コピー機の音。

 その中に、玲央の声が混ざっている。


 玲央は席で、誰かと短い確認をしながら笑っていた。

 笑っているのに、壊れそうな雰囲気がある。目の奥の光だけが薄い。笑顔の形をしているのに、呼吸が浅いのが分かる。


(……仕事、頑張ってる)


 そう思いかけて、かなえはすぐ自分で打ち消した。


(私のためじゃない)

(私のことは、物珍しかっただけ)

(頑張る理由は、私じゃない)


 そう思い込まないと、胃が痛い。

 思い込んでいるのに、目は勝手に玲央を拾う。拾ってしまう自分に腹が立つ。


 席に戻ってPCを開いた瞬間、背後から声がした。


「結城さん」


 水野美緒だった。

 紙コップのコーヒーを持って、柔らかい笑顔を貼り付けている。貼り付けているのに、目だけが鋭い。


「最近、相沢さん……何かおかしいです」

 言い方は軽いのに、探ってくる。

「結城さん、何かご存知ですか」


 腹の奥が、ひくりと動く。


(……私に聞くんだ)

(やっぱり、私のこと――)


 思いかけて、また打ち消す。


(違う)

(私が関係あるって思うのが、もう自意識過剰)


 かなえは画面から目を離さないまま、淡々と返した。


「私は関係ないと思います」

 声を仕事の声にする。


 そして、言ってしまう。

 自分の中の釘を、相手に渡すみたいに。


「水野さんの方が仲が良いでしょう?」

「喧嘩したの?」


 美緒の笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。

 止まって、すぐに戻る。


「あ、そっか」

 軽く頷く。

「そうですよね。私の方が、近いですもんね」


 その"近い"が、かなえの胸を刺した。

 刺したのに、顔は上げない。上げたら負ける気がした。


 美緒は紙コップを握り直して、何かを確かめたみたいに言った。


「ありがとうございます。参考になりました」


 言い終わると、美緒はそのまま去っていった。

 背中が妙に軽い。軽すぎて、逆に怖い。


 かなえはキーボードに指を置いたまま、動けなかった。


(……私は、何を言ったんだろう)


 言ったことは正論だ。恋人じゃない。関係ない。

 形に戻したかっただけ。戻したかったはずなのに、胃だけが痛い。


 そして、もっと嫌なことが奥で囁く。


(……関係ない、って言い切ったら)

(玲央だけが気づく関係も、消えるんだ)


 怖い。

 怖いくせに、その"気づかれる"が欲しい自分がいる。


* * *


 夕方。

 美緒は玲央の席の横に立った。


「相沢さん」


「どうした?」

 玲央は仕事の顔のまま答える。声は穏やかで、距離はきちんと仕事の距離。


 美緒はその距離を崩さないまま、言った。


「さっき結城さんに聞きました」

「相沢さん、最近おかしいって」


 玲央の指先が止まる。ほんの一瞬。

 止まったまま、玲央は何も言わない。


「結城さん、"自分は関係ない"って」

 美緒は続ける。淡々と、でも残酷に。

「それから、"私の方が仲いいでしょう?喧嘩したの?"って」


 玲央の奥で、何かが音もなく崩れた。


 ――そう言わせたのは、誰だ。

 自分だ。


 距離が近いのを見せた。笑って歩いた。

 "ただの後輩"で済ませた。済ませたふりをした。


 それで結城さんが"関係ない"に戻るなら、

 結城さんはもう、俺を"関係ない側"に置いたんだろう。


 玲央は笑いそうになって、笑えなかった。

 喉の奥が苦い。


「……そう」


 それだけ言って、画面を見たふりをした。

 ここで崩れたら、余計に面倒になる。面倒になるのは、結城さんだ。


 美緒は玲央の反応を見て、何も言わずに一歩引いた。

 そして最後に、軽い声で落とす。


「相沢さん」


 玲央は顔を上げなかった。


「金曜の夜、結城さんと出てるの、見てる人いますよ」


 玲央の背中が、少しだけ固まった。


 美緒はそれ以上言わずに去っていく。

 去り際の足音だけが、やけに大きい。


* * *


 玲央は、トイレの鏡の前で襟元に指を入れた。


 薄い赤みは、ほとんど消えかけている。

 光の角度で、ただの影に見えるくらいだ。


 指先が、そこを無意識に押さえる。

 押さえた瞬間、呼吸が少しだけ落ち着く。落ち着いてしまうのが怖い。


(……俺、これで保ってたんだ)


 消えるのが怖い。

 でも本当は、それよりもっと怖いものがある。


 "昼の結城さん"が、遠い。


 夜の結城さんは、ここに来る。

 言葉がうまくいかなくても、体温で繋げてしまえる。

 曖昧なままでも、何かが"あった"ことにしてしまえる。


 でも昼は違う。

 昼は、肩書きがないと隣に立てない。

 正しい理由がないと、手を伸ばせない。


 今のままだと――奪われる。

 神谷の"昼"に。


(……なんで俺じゃだめなんだ)


 言葉が喉の奥で擦れる。

 痛い。吐き出したら終わる。だから飲み込む。飲み込んでも、苦い。


 結城さんは恋人は苦手だと言った。

 だから線が必要なんだと、納得したふりをした。

 夜なら、隠れてなら、許されるふりをしてきた。


 なのに神谷は"昼に外でちゃんと"と言える。

 それが、許される顔をしている。

 許されないのは俺のほうだと、世界が決めているみたいに。


(……全部が欲しい)


 鏡の中の自分が、会社の顔をしている。

 この顔で、昼に立てたら。

 この顔で、結城さんの隣にいたら。

 ――神谷みたいに、当然の権利みたいに。


 玲央は襟を戻し、スマホを取り出した。

 画面を見た瞬間、指が動く。


 宛先を開く。かなえではない。

 神谷でもない。美緒でもない。


 "正しい言葉"が通るところ。

 当日の権限を握っている、社内運営の責任者。


 短い文章を打つ。


【相沢:合同イベント当日、結城さんの動線サポートを私が担当したいです。配置、変更できますか】


 送信。


 送信した瞬間、腹の奥が少しだけ落ち着いた。

 理由を作った。昼に立つ理由を。

 役割があれば近くにいられる。正しい顔で、結城さんの昼に入れる。

 神谷が"外で、ちゃんと"と言う前に、俺が先にいる。


(これでいい)

(正しい形で、そこにいる)


 そう言い訳をするのに、奥の本音だけが静かに笑う。


(正しくなくても、もう、欲しい)


 玲央は目を伏せて、個室を出た。

 外に出る前に、もう一度だけ襟元に指が触れる。


 ほとんど消えた赤みを、確かめるみたいに。


 指先が離れない。

 たったそれだけで、奥の黒いものがまた少し濃くなる。


 ――夜だけじゃ足りない。

 社外で隠れてるだけじゃ足りない。

 結城さんを、昼にも欲しい。


 言葉にしたら終わる。

 でも、終わりはきっと、言葉にしなくても近づいてくる。


 玲央は会社の顔を貼り直して、廊下へ出た。

 貼り直せてしまう自分が、いちばん怖かった。

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