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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第47話 守ったのに、戻らない



 火曜の朝から、かなえは意識していた。

"約束"を守ることを。


 遅くなるときは、一言だけ。

理由はいらない。


 会議室で交わしたあの言葉は、契約みたいに胸の奥へ沈んでいる。

恋人じゃないからこそ、言葉の形にしておかないと――また、勝手に組み込まれる。


 なのに。


 約束を守る準備をしている自分が、すでに少しだけ"慣れて"いて腹が立った。

嫌だったはずのものに、体が順応していく。

それは、怖い。


* * *


 週の半ばは、キックオフ後の反動みたいに忙しかった。

会議、差し戻し、先方確認、社内調整。

仕事の文字に追われていれば、余計なことを考えなくて済む。


 ……はずだった。


 席にいる相沢を視界の端に入れないようにしても、

チャットが一件届くだけで胃が反応する。


【相沢:結城さん、先方返しの文言、こちらで整えました。共有します】


 "共有"。

押し付けじゃない顔をして、手の届くところに置く。

断れないところに置く。


 かなえは短く返して、画面を閉じた。


【結城:ありがとうございます。確認します】


 それだけ。

それ以上は増やさない。


 増やしたら、戻ってしまう気がした。

五分が、金曜が、あの家の匂いが。

戻っていいかも分からないのに、戻る道だけが体に残っている。


 ――一方で、増やさない分だけ、喉の奥が落ち着かない。


 あんなに嫌だったはずの"当たり前"が、

消えると消えるで、空白が寒い。


(……私、何やってるんだろ)


 かなえは息を吐いて、仕事の文字に目を戻した。

戻したつもりで、結局ずっと、同じ行を眺めている。


* * *


 金曜の昼過ぎ。

コピー機のそばでふと耳に入った雑談が、胸の内側を小さく撫でた。


「結城さん、最近顔色戻ってきたよね」

「わかる。前のピリピリが薄くなった」


 戻ってきた。

そんなふうに見えるのか。


 かなえは紙束を揃える指先に力を入れた。

戻ってなんかいない。

ただ、崩れないように固めているだけだ。


 夕方。

先方からの返信がひと段落したころ、神谷からチャットが飛んできた。


【神谷:結城さん、今日少しだけ時間あります?】

【神谷:仕事の話抜きで。気分転換、短くでいいので】


 "短くでいい"。

追い詰めない言い方。

逃げ道を残す言い方。


 かなえはキーボードの上で指を止めた。


 正直、外に出る気力はあまりない。

でも、家に帰っても落ち着かないのも分かっている。


 金曜の夜が、今は一番怖い。

"当たり前"はもうないはずなのに、胸が勝手にそれを探してしまうから。


(……気分転換、か)


 かなえは小さく息を吸って、短く返した。


【結城:少しなら】


 送信してから、もう一つの"約束"が頭に浮かぶ。


 遅くなるときは、一言だけ。


 かなえはスマホを取り出して、画面を開いた。

相沢くんの名前が出るだけで、胃がきゅっと鳴る。


 理由は書かない。

書いたら、説明になる。

説明は関係を固定する。


 かなえは一行だけ打って送った。


『遅くなります』


 送信。


 たったそれだけで、息が少し浅くなる。

契約を守っただけなのに、心が揺れる。


(……これでいい)

(必要最低限)


 そう言い聞かせて、かなえは席を立った。


* * *


 玲央の画面に通知が出たのは、ちょうど資料を整えていた時だった。


『遅くなります』


 一行。

理由なし。


 約束通り。

だから正しい。

正しいのに、腹の奥がじわっと痛む。


 玲央はすぐ返事を打ちそうになって、止めた。


(迎えに行かないって言った)

("安心して"って言った)


 守る。

そう決めたのに、指先が勝手に襟元へ行く。


 襟の内側。

薄い赤みが、そこに――もう"ある"と言い切れないくらい、淡く残っている。


 触れた瞬間、呼吸が少しだけ整う。

整ってしまう自分に、ぞっとする。


(……消える)


 消えていく。

耐えるための、たったひとつの拠り所が。


 玲央は襟を戻して、画面を伏せた。

仕事に戻る。

戻れば、守れる。


 キーボードを叩く。

段取りを詰める。

確認事項を整理する。

"結城さんの負担を減らすため"――その正しい理由で、手を動かす。


 動かしているのに、胸の内側が落ち着かない。


 時計を見る。

金曜の夜。

本来なら、戻ってくる時間。


(……俺の時間、って思ってたのは俺だけ?)


 その考えが浮かんだ瞬間、喉の奥が苦くなった。

怖い。

その醜さが、自分にちゃんと分かるのに、止められない。


* * *


 神谷と会うのは、駅前の小さなバルだった。

カウンターじゃなく、二人用の小さなテーブル。

明るすぎない照明。


「今日は仕事の話禁止、でいいですか」

神谷が最初に言った。


 かなえは笑ってしまう。

笑えることに、少し驚く。


「……禁止って言われると、逆に楽ですね」


「でしょう」

神谷は肩をすくめる。

「結城さん、仕事の言葉で自分を守るの上手いから」


 その言い方が、優しい。

刺してこないのに、見抜く。


 かなえは一口だけ飲んだ。

喉が温まって、胸が少し緩む。


「短くでいい、って言ってましたよね」

かなえが言うと、神谷は頷いた。


「はい。長くすると、考えすぎるでしょう」

「今日は"息ができる"くらいで十分です」


 息ができる。

その言葉が、胸へすっと入った。


 食事は軽い。

会話も軽い。

でも軽いだけじゃなくて、ちゃんと地面がある。


 神谷は急がない。

答えを迫らない。

保留を保留のまま置いてくれる。


 その置き方が、今のかなえには救いだった。


 食事を終えて店を出る。

夜風が冷たくて、現実が戻る。


 かなえがストールを巻き直した時、神谷が足を止めた。


「結城さん」

声がやわらかい。

「無理して笑ってないですか」


 かなえは反射で「大丈夫です」と言いかけて、やめた。

やめた瞬間、息が少しだけ苦しくなる。


「……分かりません」

かなえは正直に言ってしまう。

「最近、自分がよく分からなくて」


 神谷はすぐに踏み込まない。

でも、逃げ道も消さない。


「じゃあ、分からないままでいい」

神谷は淡く笑った。

「今日のことも、答えも、急がなくていい」

「ただ――結城さんが壊れない選択だけ、優先してください」


 壊れない選択。

それが、今いちばん難しい。


 かなえが息を吐いた、その瞬間。


 背中が、ぞわっとした。


 視線。

どこかに刺さる視線。


 かなえは立ち止まりそうになって、踏みとどまった。

確証を取ったら終わる。

終わったら、戻れない。


 神谷は、かなえのわずかな硬さに気づいたのか、目を細めた。


「今日はここで解散にしましょう」

あえて軽く言う。

「送る、は言わない。選ぶのは結城さんです」

「……無理しないで」


 その言い方が、痛いくらい優しい。

選ぶ権利を返されると、自分の弱さが見える。


 かなえは頷いて、改札へ向かった。


* * *


 改札前。

人の流れの中に――玲央がいた。


 いるはずがない、と最初は思った。

迎えに行かないと言っていた。距離を空けると言っていた。

なのに、そこにいる。


 改札を通ったのに、先へ行けずに、改札の"間"に引っかかっているみたいに。


(……なんで、ここに)


 背中に寒気が走る。

ゾッとする。

でも、そのゾッとした冷たさの底に、別の感情が混ざっている。


 会えて嬉しい。

そんなふうに思ってしまう自分が、怖い。


 誰も気づかないところを、玲央だけが気づく。

嫌だったはずなのに。

それがなくなる想像のほうが、もっと怖い。


 かなえはICカードを当てて、通った。

「ピッ」という音がやけに大きい。


 通った先、すぐそこに玲央がいた。

目が合ってしまう。

合った瞬間、玲央の表情がふわっと緩みかけて――途中で止まる。

嬉しい、と言いそうな顔をして、言わない顔。


「……結城さん」


 会社の呼び方。

なのに声は会社じゃない。

その矛盾が、かなえの胸をくすぐって、同時に冷やす。


「……遅くなります、って」

玲央が言った。責めない声。

でもその一言に、"待ってた"が全部詰まっている。


 かなえの喉が痛くなる。

待たれたくない。待たせたくない。

でも、待っててくれる人がいなくなるのは怖い。


「はい」

「もう帰ります」


 "帰る"が口から落ちた瞬間、玲央の目の奥が一瞬だけ冷える。

冷えるのに、すぐ隠す。隠すから、見てしまう。


「……送る」

玲央が言った。

「今日は、それだけ」


 迎えじゃない、と言い換えない。

仕事、とも言わない。

正しい言葉に逃げる余裕がないみたいに、ただ真っ直ぐ。


 かなえは息を吸って、いちばん安全な言葉を選ぶ。

素直になったら戻ってしまう気がしたから。

戻ったら、また怖くなるから。


「大丈夫です」


 敬語。仕事の距離。

玲央の口元がかすかに動く。笑おうとして、笑いきれない。


「うん」


 たった一音。

その短さが、胸をざらつかせる。

"うん"の下に、言ってはいけない言葉がいっぱい詰まっているのが分かるから。


 かなえは視線を逸らして、歩き出した。

追ってこない。

ただ、そこに"いる"。


 それが怖いのに。

それが、少しだけ嬉しい。


* * *


 玲央は改札前に立ったまま、動けなかった。

断られたのに、拒絶されたわけじゃない。

その曖昧さが、息をさせて、同時に首を締める。


 追わない。追えない。

なのに、離れない。


 ——会ったら、言ってしまう。

言いたくないことを言ってしまう。


 ——神谷ならいいの?

 ——俺じゃだめなの?


 言った瞬間、全部が終わる。


 だから、迎えに来たわけじゃない。

そう言い聞かせながら、玲央は靴先を見た。

そこだけを見て、踏ん張った。

一歩でも踏み出したら、追ってしまう。


 玲央は改札の流れから半歩だけ外れた。

"見てないふり"の練習をするみたいに。


 それでも、結城さんの背中はちゃんと分かる。

ストールの色。歩幅。肩の力。

一瞬だけ振り返りそうになる癖まで。


(……ほら、今も)


 振り返らない。

振り返らないで行ける。

行けるなら、俺は――


 喉の奥が詰まる。


(行けるなら、俺じゃなくてもいいのか)


 その答えを聞くのが怖くて、玲央は口を閉じた。


 玲央は一度、スマホを取り出しかけて、やめた。

連絡したら"追う"になる。

追ったら、さっきの「うん」が嘘になる。


(……約束、守ったのに)


 守ったのに、胸の内側は満たされない。

守った分だけ、結城さんが遠くなる気がする。


 玲央は歯を噛みしめて、駅の外へ出た。


 駅前の風が冷たかった。

人が多い。

なのに、結城さんの姿だけが、やけに鮮明に見える。


 玲央は距離を詰めない。

詰めないまま、歩く方向だけを合わせる。

見失うのが怖い。

それだけ。

それだけだと、言い聞かせる。


(……見失うのが怖いって、何だよ)


 言葉にしたら終わる。

だから言わない。

言わない代わりに、足だけが動く。


 結城さんが歩道の角を曲がる。

玲央は一拍遅れて、同じ角を曲がる。

信号が赤になって、結城さんが止まる。

玲央は少し手前で止まる。


 近づけない。

近づいたら、声をかけたくなる。

声をかけたら、言ってしまう。


 ——神谷ならいいの?

 ——俺じゃだめなの?


 結城さんがホームへ降りる階段に消える。

玲央はそこで止まった。

ここから先は行けない。


 玲央は息を吐いた。

吐いた息が白い。


(……俺、ちゃんと我慢してる)


 我慢してる。

だから褒めてほしい。

そんな考えが浮かんでしまって、玲央は目を閉じた。


 褒められる立場じゃない。

それなのに、体のどこかが"報酬"を待ってしまう。


 ——金曜が戻る。

戻ってくる。

根拠なんてないのに。


* * *


 かなえは電車に乗って、吊り革を握った。

窓に映った自分の顔が、少しだけ強張っている。


(……追ってこない)


 そう思った瞬間に、腹の奥が少しだけ楽になる。

楽になるのに、同時に寒い。


 追ってこないのが正しい。

正しいのに、物足りない。


 玲央が気づく。

玲央だけが気づく。

その関係が、怖いくせに――欲しい。


(ほんと、何やってるんだろ)


 かなえはスマホを見た。

通知はない。

"送る"と言ったのに、何も来ない。


 来ないことにほっとして、来ないことに寂しくなる。

その二つが同じ胸に同居して、気持ち悪い。


 かなえは画面を伏せた。

伏せたまま、目を閉じる。

電車の揺れが、今の自分を現実へ押し戻す。


 神谷の言葉が浮かぶ。


 ——壊れない選択だけ、優先してください。


 壊れない選択。

それは、玲央を遠ざけることなのか。

それとも、玲央を"夜だけ"に押し込め続けることなのか。


 どっちも、どこか壊れている気がした。


* * *


 玲央は駅前の明かりの下に戻って、しばらく動けなかった。

さっきの背中が、まだ視界の奥に残っている。

残っているのに、触れられない。


 帰ればいい。

家へ。

仕事へ。

正しい場所へ。


 玲央はようやく足を動かして、自分の部屋のドアの前に立った。

鍵を差し込む。

回す。


 カチャ、と乾いた音。


 その音が、腹の奥に落ちる。

――結城さんの家の鍵も、いま同じ音を立てているのかもしれない。

その想像だけで、喉が熱くなる。


 部屋に入って、電気をつける。

眩しい。

眩しいのに、寒い。


 玲央は靴を脱ぐのも忘れて、しばらく玄関に立ったまま、耳を澄ませた。


 ——鍵の音が、する気がする。


 するはずがない。

ここは自分の部屋だ。

結城さんは"帰る"と言った。

帰ったのは、自分の家だ。


 分かっているのに、耳だけが勝手に期待する。

期待して、何もなくて、落ちる。


 玲央は靴を脱いで、部屋の奥へ行った。

テーブルの上に、カップが一つだけある。

いつの間にか、二つ用意する手癖をやめている。

やめたはずなのに、二つの影がまだ見える。


 玲央はカップを手に取って、シンクへ置いた。

置いた瞬間、胸がきゅっと縮む。


(……俺が消してる)


 自分で。

正しさの顔で。

結城さんのための顔で。


 でも、その"結城さんのため"が、いつの間にか自分の言い訳になっているのも分かる。


 玲央はソファに沈んだ。

スマホを手に取って、トーク画面を開く。


『おつかれさま』

打つ。消す。


『無事?』

打つ。消す。


『今日は……見かけた』

打つ。消す。


 言葉にした瞬間に、"待ってた"が露骨になる。

露骨になったら、結城さんはまた線を引く。

線を引かれたら、戻れない。


 玲央はスマホを伏せて、両手で顔を覆った。

指の隙間から、部屋の光が白い。


(……俺には、許されない)


 昼に外を歩く権利。

並ぶ権利。

"短くでいい"が優しさになる権利。


 俺が欲しがったら、たぶん重い。

俺が願ったら、たぶん怖い。


 だから俺は夜に回される。

金曜に回される。

誰にも見られない時間にだけ、触れていいみたいに。


(……それでも、戻ってきてほしい)


 その言葉が奥で形になって、玲央は息を止めた。

止めたまま、唇を噛んだ。


 言ったら終わる。

言わないから終わりに近づく。


 その矛盾が、地獄みたいにじわじわ広がっていく。


 玲央は、もう一度だけスマホを握った。

握って、開かない。

開かなかった代わりに、奥が勝手に囁く。


(……次は)

(次は、守らないほうが――戻るのか)


 自分で自分が怖くなる。

怖いのに、その考えを捨てきれない。


 玲央は背中を丸めて、ゆっくり息を吐いた。

吐いた息が、かすかに震えている。


 今日も、灯りを落とせないまま、夜を待った。


 守ったのに、戻ってこない。

諦められないのに、近づけない。


 玲央は、まだ崩れない。

崩れないように、必死で自分を繋ぎ止めている。

――その指先が、少しずつ、黒いほうへ滑っていくのを感じながら。

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