第46話 証が消える日
朝の洗面所は、やけに白かった。
白い照明の下で、玲央は襟を指先で引く。
首の内側。
そこに残っていたはずの熱の名残が、もう"痕跡"に近い。薄い、薄い色。角度が変われば、なかったことみたいに消える。
光の角度を変える。
鏡に近づく。
息を止める。
(……消えかけてる)
指先が勝手にそこへ行って、触れた瞬間、背骨の奥がひやりとした。
落ち着く、とは違う。薄れていくものを確かめたときの、焦り。取り返しのつかないものを見つけたときの、あの感覚。
恋人じゃない。
だから隠す。隠さなきゃいけない。
会社で誰かに見られたら、面倒になる。結城さんに迷惑がかかる。
分かっている。
分かっているのに、襟を整え直したあとも、指先の感覚が離れなかった。
昨日の会議室。結城さんの声は、静かで、はっきりしていた。
監視されたくない。
勝手に組み込まないで。
会いたいなら言って、私は考えて返す。
正しい。正しい、しかない。
それを「正しい」と言える人の顔が、玲央の中で何度も再生されて、胃の奥がきゅっと縮む。
玲央は"迎えに行かない"を守った。
追わなかった。距離を空けた。仕事の顔を作って、仕事の言葉だけにして、せめて「一言だけ」をお願いした。
それでも——戻ってこなかった。
(……正しくしても、だめなんだ)
じわじわ、黒い形になる。
怖い形だと分かるのに、止められない。
玲央は歯を噛みしめて、シャツのボタンをひとつ上まで留めた。
完全に隠すためじゃない。
"消えていく"現実を、もう見たくないだけだ。
鏡の中に、会社の顔を作る。
笑う練習をして、目の奥を冷やす。
——その下だけが、勝手に囁く。
(戻るって、何に)
(……金曜に、だろ)
(あの夜に、あの部屋に、あの「ただいま」に)
言葉にした瞬間、喉が痛くなった。
欲しいものを欲しいと言う権利が、自分にはないみたいで。
* * *
オフィスは、いつも通りの音で満ちていた。
キーボードの打鍵。コピー機の動作音。誰かの笑い声。
それら全部が、今日も世界が回っている証拠みたいで、玲央には少し眩しい。
玲央は自席に座ると、まず業務の画面を開いた。
先方の返し。キックオフ後の段取り。結城さんの負担を減らすための、正しい準備。
正しい準備をしていれば、距離を越えずに"関われる"。
そういう理屈にしがみつく。しがみついていないと、手が震えそうだった。
——数十分後、社内チャットの通知が一件だけ光った。
【神谷:結城さん、少し確認したいことがあります。午後、5分だけ取れますか】
神谷の名前。
画面の上ではただの文字なのに、玲央の喉の奥が苦くなる。
結城さんの席は少し離れている。
顔は見える。見えるのに、見ない。
見てしまったら、何かが動く。
動いたら、正しさが壊れる。
玲央は手を動かす。資料を整える。メールの文言を直す。誰かの予定を繋いで、穴を埋める。
やれることはある。やれることはあるのに——
(結城さんが"どこへ戻るか"だけは、どうにもできない)
昼前。
玲央は印刷物を取りに立って、通路を歩いた。
その途中で、結城さんの端末が小さく震えたのが見えた。
結城さんは画面を一瞬見て、指先を止める。止めたまま、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
その変化が、玲央には見えてしまった。
(……誰から)
聞けるわけがない。
聞いたら終わる。終わる、という言葉が最初に出てくるのがもうおかしいのに、止まらない。
玲央は歩幅を変えずに通り過ぎた。
"正しい距離"のまま、通り過ぎた。
できた。できたのに、腹の奥は褒めるどころかざらついていく。
(俺は、ちゃんと我慢してるのに)
(我慢してるのに、あの人の肩は抜ける)
そんなこと、思いたくない。
思いたくないのに、事実みたいに残る。
* * *
午後。
結城さんが席を立つ。持っているのは資料だけ。仕事の顔。
向かう方向が会議室だと分かった瞬間、玲央の指が一瞬止まった。
(……業務だろ)
神谷との確認。取引先とのやりとり。結城さんの仕事。
全部、正しい。
正しいはずなのに、玲央の奥には、どうしても別の像が重なる。
"昼の外"。
明るい場所。隠さなくていい時間。
そこに立つ結城さん。そこに並ぶ神谷。
(……俺には、夜しかくれないのに)
喉の奥でぎり、と擦れる。
自分で自分を殴りたくなるくらい醜いのに、出てくる。
夜。金曜。会社じゃない場所。
誰の目もないところでしか、近づけない。
近づいたあとでしか、柔らかい顔を見られない。
「恋人は苦手」
そう言ったのは結城さんだ。だから線が必要なんだと納得したふりをしてきた。
でも、神谷は——その線の外にいるみたいに見える。
(……神谷には、許されるんだ)
昼に会うのが。
外を歩くのが。
仕事のふりをしないで、声の温度を落とすのが。
俺には許されない。
俺がやったら「勝手に組み込まないで」になるのに、神谷がやったら「助かる」に見える。
不公平だ、と言いたいんじゃない。
ただ、理由が知りたい。
(なぜ俺じゃだめなんだ)
(どうして俺は、夜で、隠れて、しかも"今夜だけ"なんだ)
玲央は首元のボタンに触れそうになって、指を机の下に押し込んだ。
触れたら思い出す。薄れていく熱の名残を思い出す。
残っているのに、消えていくものを思い出す。
それは今日いちばん思い出したくない。
* * *
一方で。
結城さん——かなえは、会議室へ向かう廊下で、胸を小さく押さえたくなる衝動を飲み込んでいた。
神谷の「五分だけ」の通知が来たとき、肩が抜けた。
抜けてしまった。楽だった。
理由を聞かれない。踏み込みすぎない。助け方が上手い。
(……こういうのに、私、弱い)
そしてすぐに、別の怖さが来る。
楽だと思うほど、そっちに傾いてしまう。
傾いたら、相沢くんとの"あの関係"が終わる気がした。
相沢くんは、気づく。
他の人が気づかないところに気づく。
自分が無理をしていること。飲み込んだ言葉。肩の硬さ。目の乾き。
そして——自分でも認めたくない寂しさ。
気づかれるのが怖い。
でも、気づかれなくなるのはもっと怖い。
(……なくなるのが、怖い)
"気づいてくれる人がいる"という事実だけが、いまの自分を保っている。
その関係が、こちらの手で切れてしまったら。
かなえは、唇を噛んだ。
恋人は苦手。言ってしまった。
言ってしまった自分が、いちばん臆病だ。
* * *
夕方。
玲央は業務の名目で、結城さんに近づくしかなかった。
社内チャットに短い文を打つ。
【相沢:結城さん、先方の返し文言、念のため確認したいです。今5分いいですか】
送信してから既読がつくまでの数秒が長い。
その間だけで心臓が変な音を立てる。
【結城:今なら。会議室2で】
短い返事。敬語。仕事の温度。
それでも「今なら」があるだけで、玲央の胸が少しだけ息をする。
玲央は資料を持って席を立った。
会議室2のドアを開ける。
結城さんはすでに座っていて、PC画面を開いていた。
視線は画面。顔は上げない。
ああ、と思った。
これは"線"だ。
俺が越えないための線で、結城さんが守るための線で、同時に俺を締める線。
「ここの文言だけ、先方のニュアンスに寄せた方が安全だと思ってて」
玲央は仕事の声で言う。
「結城さん、確認お願いできますか」
「分かりました」
結城さんは淡々と言う。
「差し替えます」
それで終わるはずの会話なのに、玲央の舌が勝手に余計な言葉を探した。
やめろ、と頭が言う。
やめないと、と胸が言う。
玲央は結局、仕事の枠をもう一枚重ねた。重ねるしかなかった。素手で触れたら、壊してしまうから。
「週末、先方から追加の確認が入る可能性があって」
「もし遅くなるなら……一言だけでいいので、共有もらえると助かります」
"助かる"は嘘じゃない。
でも本当は「助かる」じゃない。
本当は「分からないのが怖い」だ。
それを言える権利が、俺にはない。
結城さんの指が一瞬止まった。
止まって、短く頷く。
「……分かりました」
声は低い。
頷き方が、少し重い。
玲央の奥が、ほんの少しだけ息をする。
たった一言の"分かりました"が、首に細い紐を結ぶみたいに残る。
結城さんは画面を閉じて立ち上がった。
玲央も立つ。距離を保つ。
会議室を出る直前、結城さんが小さく言った。
「相沢くん」
「……仕事、ありがとうございます」
礼儀の言葉。仕事の言葉。
それが今日いちばん痛い。
ありがとう、の中に、何も含まれていない。
含ませないようにしている。
それでも言ってくれる。言ってくれるから余計に——
(なくなるのが、怖いって顔を、俺にだけ見せてくれよ)
そんなこと、言えるわけがない。
玲央は「いえ」とだけ返して笑った。会社の顔のまま。
結城さんが先に廊下へ出ていく。
玲央は少し遅れて出て、距離を空けた。
守る。守っている。
守っているのに、距離が空くほど奥の黒いものが濃くなる。
その黒さを、誰にも見せずに歩いた。
* * *
夜。
玲央は残業していた。
正しい段取り。正しい準備。正しい報告。
積み上げるほど、ひとつの結論が冷たく固まっていく。
(……正しいだけじゃ、戻ってこない)
"戻る"という前提が、もう崩れているのかもしれない。
その可能性が、足元をじわじわ沈ませる。
スマホが震えた。反射で画面を見る。
結城さんからじゃない。
同じフロアの誰かが、雑談混じりに言った声が耳に入る。
「そういえばさ、結城さんって取引先の神谷さんと、昼に一緒にいるの見たことある?」
「この前、外で。なんか雰囲気……デートっぽいって言ってた人いたよ」
玲央の指が止まった。
昼。外。デート。
単語が順番に並ぶ。並んだ瞬間に、結城さんが笑う顔が勝手に再生される。
仕事で笑うだけだ。
それでも、笑える。
俺の前では、あんなふうに笑わない。
夜の部屋では、いつも少しだけ硬い。
柔らかくなるのは、最後まで"今夜だけ"の縁にいる。
(……俺には、くれないくせに)
吐き気がする。
吐き気がするのに、思考が止まらない。
(神谷には、許されるんだ)
(昼の顔を渡すのが)
(俺が欲しがったら、重いのに)
玲央は息を吐いて、仕事の画面に戻ろうとして——戻れなかった。
机の角を指先で押した。痛いくらいに押した。
痛みで正気を保つ。
でも正気は保てても、現実は変わらない。
結城さんは昼に外へ行ける。
神谷と並んで歩ける。
それを"デートっぽい"と言う目が世界にはある。
そして俺は、迎えに行かないを守っている。
守って、消えていく。
(……何を守ってるんだ)
守れば守るほど遠くなるなら。
正しさが結城さんのためじゃなく、"自分の安全装置"になっているだけなら。
玲央の中で、何かがゆっくり崩れた。
"仲直り"という言葉が、もろく崩れる音がした。
* * *
金曜の夕方。空が薄く暗い。
玲央は退社の流れに混ざりながら、駅へ向かった。
向かった、と言っても目的地は自分でも曖昧だ。
迎えに行かない。
そう決めた。そう決めたはずだった。
でも、足が止まらない。止められない。
改札前の明かりが、いつもより冷たい。
人の流れは速い。会社帰りの顔が次々通り過ぎる。
玲央は柱の陰に寄る。
寄って、スマホを出しそうになって、やめる。
位置を見たいわけじゃない。
見たら終わる。
そう思っているのに、指先が勝手に画面を触る。
開くのは地図じゃない。時計。時間だけを確認する。言い訳みたいに。
その瞬間、無意識に首元に指が行った。
襟の内側。もう、ほとんど残っていない場所。
触れると熱くなる。熱くなるのに、そこに"ある"感じは薄い。
(……なくなる)
腹の奥がきゅっと縮む。
玲央は襟を整え直した。
会社の顔。仕事の顔。
この顔で結城さんに会ってはいけない。
会ったら、言ってしまう。
言いたくないことを言ってしまう。
——神谷ならいいの?
——俺じゃだめなの?
言った瞬間、全部が終わる。
だから、迎えに来たわけじゃない。
そう言い聞かせる。
そう言い聞かせながら、玲央は改札の明かりの下で立ち尽くした。
人の波の向こうに、結城さんの姿が見えた気がして、
玲央の心臓だけが、先に跳ねた。
——見えた、と思っただけで、体が前に出そうになる。
駄目だ。止まれ。
止まれ、と言っているのは理性じゃない。
"終わらせたくない"だけだ。
結城さんがこちらに気づく前に、玲央は一歩、影へ戻った。
自分が今、どんな顔をしているのか分からない。
神谷と並ぶ結城さんを見たら。
昼の顔を見たら。
俺が持っていない権利を、あの人が持っているみたいに見えたら。
たぶん、言ってしまう。
言った瞬間、終わる。
終わったら、戻ってこない。
金曜も、あの部屋も、あの習慣も、二度と——
玲央は口の中で、何も言えないまま噛み潰した。
それでも視線だけは、波の向こうを探してしまう。
"気づかれる関係が怖い(でも欲しい)"
結城さんは、そういう人だ。
だからきっと、気づかれないように笑って、気づかれないように帰って、気づかれないように離れる。
——それがいちばん怖い。
玲央は、影の中で息を吐いた。
吐いた息が白くならないのが悔しかった。
白くならないくらい、世界はまだ温かいのに、自分の中だけが冷えていく。
(……戻ってこい)
声にしない。
声にしたら終わるから。
終わらせないために、玲央は今日も黙っている。
黙っているのに、固執だけが育っていく。
——結城さん。
俺は今、ちゃんと正しい。
正しいのに、どうして戻ってこないんだよ。




