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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第43話 知ってるはずのない場所

 朝の改札は、人の波が途切れない。

 かなえは定期入れを握り直して、流れに身体を預けるようにホームへ向かった。


 ――その途中。


 視界の端に、見覚えのある背中が横切った。


 黒いコート。癖のある髪。歩幅がやけに一定で、迷いがない。

 相沢玲央に、似ている。


(……まさか)


 立ち止まりかけて、かなえは自分を叱る。

 ここは最寄りでも会社の最寄りでもない。導線が重なる理由なんて、いくらでも作れる。

 作れる、のに。


 その背中がふっと振り返った。

 目が合う――寸前で、かなえは反射的に視線を逸らした。

 逸らしたのに、気配だけが近づく。


「結城さん」


 会社の呼び方。

 駅の騒音の中でも、玲央の声だけが変に澄んで届いた。


「……おはようございます」

 かなえは“仕事の声”を先に出した。


「おはよう」

 玲央は小さく笑った。笑っているのに、目が落ち着いていない。

「偶然。こっち、用事あって」


「……そうですか」


「うん」


 それ以上は踏み込まない。

 踏み込まないのが、逆に怖い。

 線の外側から、手を伸ばさずに“届く”距離にいる感じがして。


 電車が滑り込む。

 ドアが開いて、人が押し寄せる。


 かなえが乗り込む瞬間、背中に視線が刺さった気がした。

 振り返らない。振り返ったら、何かを確かめてしまいそうだった。


 胃が、きゅっと鳴る。


***


 午前中は会議が詰まっていた。

 キックオフの資料、先方の意図、社内の調整。

 かなえは淡々と回して、淡々と終わらせる。


 終わらせられるうちは、大丈夫だと思える。

 思えるだけで、本当はずっと落ち着かない。


 ――昼前。


 コピー機へ向かう廊下の角で、また玲央を見かけた。


 今度はエレベーターホールの前。

 片手に封筒。もう片方でスマホを確認している。

 視線の落ち方が、仕事のそれじゃない。測っている、みたいな。


(……また?)


 見なかったことにしようとして、足を速める。

 でも、玲央の方が先に気づく。


「結城さん」


 また、同じ呼び方。

 同じ距離。

 同じ、“偶然の顔”。


 かなえは、言うつもりのない言葉を飲み込めなかった。


「さっきも……偶然でしたよね」


 玲央が一瞬だけ瞬きをして、すぐに表情を整える。

 その“整える速さ”に、かなえの背中が冷える。


「うん。偶然」

 間を置いて、少しだけ声が低くなる。

「……変に見えたら、ごめん」


 謝り方が、正しすぎる。

 正しいほど、疑う側が悪者になる。


「いえ」

 かなえは仕事の笑顔で切った。

「仕事します」


 歩き出すと、背中に「うん」と落ちる声が追いかけてくる。

 優しい形のまま、距離だけが詰まっていく。


 かなえはコピー機の前で紙を揃えながら、呼吸を整えた。


(偶然だよ)

(そう思わないと、私が壊れる)


***


 夕方。

 かなえは神谷とオンラインで資料のすり合わせをしていた。


 画面越しの神谷は相変わらず話が早い。

 早いのに、急かさない。

 その“余白”が、かなえの警戒を少しだけゆるめる。


「ここの導線、結城さんの案でいきましょう」

「当日は会場で合流できます?」


「はい」

 かなえは頷いた。

「会場入りの時間、共有します」


「ピン、送れます?」

 神谷が軽く言った。

「当日、迷わないように。地図でやり取りしちゃうのが一番早い」


 迷わないように。

 その言葉が、別の声と重なって喉が詰まる。


 かなえは一瞬だけ息を止めて、それでも仕事の手でスマホを取った。


「分かりました。送りますね」


 地図アプリを開く。

 位置情報を表示する。共有――送信。


 いつも通りの動作のはずなのに。

 画面の端に、小さな表示が浮かんだ。


【位置情報を共有中】


(……共有中?)


 背中が冷える。

 そんな設定にした覚えはない。

 “覚えてないだけ”にしたくて、でも指先が震える。


「結城さん?」

 神谷の声。心配というより、ただの確認。


「……すみません」

 かなえは言い訳の形を探して、見つけられなかった。


 共有中の欄を、恐る恐る開く。


 そこに表示された名前を見た瞬間、視界が一段だけ暗くなった。


 ――相沢玲央。


(……なんで)


 さっきの駅。廊下の角。エレベーターホール。

 偶然の顔。正しい謝り方。

 全部が一本の線になって、かなえの胸の奥に落ちてくる。


 かなえはスマホを握りしめた。

 握りしめたまま、画面を閉じた。

 閉じても、名前の形だけが指の裏に残っているみたいだった。


「結城さん、大丈夫?」

 神谷の声が、遠い。


「……大丈夫です」


 大丈夫、と言う声が自分の声じゃないみたいに平らだった。

 仕事の顔を貼り付けて、笑う形だけ作ってみせる。


「すみません、少しだけ。こちらの設定が変で」

 かなえは“仕事の言い訳”を絞り出した。

「ピンは送れてます。続けましょう」


「うん」

 神谷はそれ以上突っ込まない。

 突っ込まないくせに、視線だけは少しだけ柔らかい。


 その柔らかさが、いまは痛い。


 打ち合わせは予定通り終わった。

 神谷は最後にだけ言った。


「無理しないで」

「結城さん、ちゃんと顔に出ないタイプだから」


「……気をつけます」


 切断。

 画面が黒くなった瞬間、部屋が広くなったみたいに静かになって、かなえは息を吸い損ねた。


 スマホが、手の中で重い。

 重いのに、放せない。


 【相沢玲央】

 その文字が、まだそこにいる。


(……私、恋人は苦手って言った)

(あの人も、“恋人”って言葉を避ける)

(なのに、これは……)


 言葉がつかない。

 つけた瞬間、何かが終わる気がして。

 終わったら、楽になるのかもしれないのに。


 かなえは指先を動かした。

 共有の詳細。解除。停止。

 ボタンはある。押せば終わる。


 終わる、はずなのに。


(押したら)

(あの人、気づく)


 当然だ。通知が行く。

 通知が行ったら、“知ってた”が確定する。

 確定したら、話さなきゃいけない。


 怖いのは、追われていたことじゃない。

 追われていたことを、口に出す瞬間だ。

 口に出したら、彼の顔が変わる。

 変わった顔を見たら、きっと私は、もう戻れない。


(……年上のくせに)

(私が先に、怯えてる)


 それでも。

 怯えたまま続く方が、もっと嫌だ。


 かなえは目を閉じて、押した。


 【共有を停止しました】


 画面の文字が淡くなり、胸の奥の冷えが少しだけ現実になる。

 現実になった瞬間、逆に体が震えた。


(……これでいい)

(これで、元に戻れる)


 元。

 元ってどこだ。

 金曜の夜が元? 五分の声が元?

 “恋人じゃない”が元?


 分からないまま、かなえはスマホを伏せた。


 震えるのは、もう通知じゃない。

 自分の指先だった。


***


 同じ頃。

 玲央は会議の議事録を整えながら、スマホを伏せたまま机に置いていた。


 見ない。今日は見ない。

 そう決めた。

 決めたのに、胸の奥だけが落ち着かない。


 仕事の文字を追っているふりをして、耳だけが拾う。

 周りの足音。電話の声。キーボードの音。

 その全部の隙間に、ひとつだけ“待ってる音”がある。


 ――戻ってくる音。


 金曜の夜に、鍵が回る音。

 玄関が開く音。

 靴が揃う音。


 最近、それがない。

 ないのに、体のどこかが、まだ“戻る”前提で立っている。


(余裕が戻れば)

(きっと金曜日が戻ってくる)


 そう思わないと、仕事が手につかない。

 思わないと、心の中の黒いものが形になる。


 その瞬間。


 スマホが、小さく震えた。


 玲央は反射で画面を点けた。

 通知の文が短い。


【位置情報の共有が停止されました】


 一拍。

 呼吸が止まる。

 止まってから、胸の奥がざく、と鳴った。


(……バレた)


 いや、違う。

 バレた、じゃない。

 “やめられた”。


 その言い方の方が、玲央の喉を締める。


(やめられた?)

(拒まれた?)

(……離れた?)


 ぐらり、と視界が揺れる。

 机の角がやけに尖って見えた。


 玲央は画面を見つめたまま、笑いそうになった。

 笑って誤魔化す癖が、こんな時にも出るのが最悪だ。


(やばい)

(やばい、やばい)


 指が勝手に、地図を開こうとする。

 開けない。

 点が、もういない。


 “届いていたもの”が、突然届かなくなる。

 それがこんなに怖いなんて、知らなかった。


 玲央は息を吸って、吐いて、吸えない。

 胸の奥に溜まっていた濁りが、一気に上がってくる。


(落ち着け)

(仕事だ)

(ここで崩れたら、終わる)


 終わる、が何を指すのか分からない。

 仕事?

 金曜?

 かなえさん?


 全部だ。


 玲央はスマホを伏せた。

 伏せた瞬間、手のひらの下で震えが伝わる。

 震えているのはスマホじゃなく、自分の指だと気づいて、胃がきりきりする。


(……いや、まだ)

(まだ終わってない)


 ここで終わらせない。

 終わらせたくない。


 玲央は、仕事用のチャットを開いた。

 “正しい理由”を作る。

 正しい形で近づく。

 追ってる顔をしない。


 ――それが、いまの自分の唯一の生存方法だった。


【相沢:結城さん、先方の質疑、追加で一つ来てます】

【相沢:帰り際でいいので、目だけ通せますか】


 送信。

 すぐ既読はつかない。


 既読がつかない数秒が、地獄みたいに長い。


(見て)

(見て、返して)

(返したら、まだ繋がってる)


 繋がってる。

 その言葉が、もはや恋人の言葉じゃない。

 命綱みたいな言葉になる。


 玲央は椅子を引いた。

 立ち上がった。

 立ち上がってから、自分が何をするつもりか分かってしまって、喉の奥が乾いた。


(……行くのか)

(今、行ったら)

(偶然じゃない)


 偶然じゃない。

 そう思われたら終わる。


 でも、今は。

 今は“偶然”を作れる。


 朝、駅で会った。

 “用事があった”。

 その用事を、もう一回増やせばいい。


 玲央はコートを掴んで、フロアを出た。

 歩く速度が一定なのは、自分が崩れそうだからだ。

 一定にしていないと、走り出してしまいそうだった。


***


 かなえは、帰りのエレベーターを待ちながらスマホを見た。


 チャット通知。

 相沢。


【相沢:結城さん、先方の質疑、追加で一つ来てます】

【相沢:帰り際でいいので、目だけ通せますか】


(……仕事)


 盾。

 嫌いなくせに、いまはそれしか持てない。


(返したら)

(返したら、また)


 また、何だ。

 また偶然が増える?

 また届いてしまう?


 かなえは返信欄に指を置いて、止めた。

 止めたまま、エレベーターのドアが開いて人が流れ込む。


 その流れに乗る。

 乗った瞬間、胸が少しだけ落ち着く。

 落ち着いたところで、また怖くなる。


(私は)

(恋人は苦手って言った)

(そういう関係にしないって)


 だから、言えない。

 “怖い”なんて言えない。

 言ったら、私が一番困る。

 年上の意地も、線引きも、全部崩れる。


 かなえは短く打った。


【結城:確認します。送ってください】


 送信。

 送った瞬間、胃がきゅっと鳴った。


 ――これでいい。

 仕事の範囲。仕事の形。

 そう言い聞かせて、ビルを出た。


***


 外はもう暗かった。

 風が冷たくて、ストールを巻き直す。


 そのとき。


「結城さん」


 背後から声がした。


 かなえの背中が、ひやりと固まる。

 振り返る前に分かってしまう。

 “届かないはず”の距離が、いつの間にか背後まで来ている。


 振り返ると、玲央が立っていた。

 コートの前をきっちり留めて、仕事の顔を貼っている。

 貼っているのに、目だけが落ち着かない。


「……相沢さん」

 かなえは息を整えた。

「どうしたんですか」


「さっきの質疑、紙でも渡した方が早いと思って」

 封筒を軽く持ち上げる。

「たまたま近く通ったから」


 また、偶然。

 たまたま。

 その言葉が、今は刃みたいに薄い。


「……ありがとうございます」

 かなえは受け取る指先を、できるだけ平らにした。


 玲央は笑う。

 いつもの薄い笑い。

 その笑いが“正しさ”を装ってるって、今は分かってしまう。


「帰り、寒いね」


 ただそれだけ。

 ただそれだけなのに、かなえの胸が小さく跳ねる。


(……どこまで知ってる)

(どこまで、見てた)


 言えない。

 聞けない。

 聞いたら、答えが出る。

 答えが出たら、戻れない。


 かなえは、仕事の声で切った。


「私、急ぎます」


「うん」

 玲央は頷いた。

 頷いたまま、一歩も近づかない。

 近づかないのに、“逃がさない”目をしている。


 かなえは踵を返して歩き出した。

 歩き出したのに、背中に視線が残る。


 背中に残る視線が、さっき解除したはずの“共有”みたいに、薄く貼り付く。


***


 玲央は、かなえの背中が人混みに紛れるまで見ていた。


(……切られた)

(でも、まだ終わってない)


 終わってない、にしたかった。

 だから来た。

 偶然の顔で、近くに来た。


 追ってない。

 追ってないって顔をした。


 でも、胸の奥は分かっている。


 いま自分が欲しいのは、仕事の返事じゃない。

 封筒を受け取る手でもない。


 ――戻ってくること。


 金曜が戻ること。

 鍵が回る音が戻ること。

 「今日は行く」って、あの人が自分で選んでくれること。


 それが怖くて。

 それが欲しくて。


 欲しいのに、恋人って言葉は怖い。

 言った瞬間、逃げられる気がするから。

 確かめたいのに、確かめる言葉を持っていない。


 玲央は喉の奥で笑いそうになって、笑わなかった。


(……じゃあ、どうする)


 答えは、もう体が知っている。

 届かない場所を、作らせない。

 届かない時間を、作らせない。


 それを口に出したら終わるから、口に出さない。

 “正しいこと”を積み上げるふりをして、距離を埋める。


 玲央はスマホを握り直した。

 画面には、かなえからの返信がまだ来ない。


 来ないだけで、胸の奥がざらつく。

 来ないだけで、もう“離れられている”気がしてしまう。


 玲央は親指を動かした。

 打つ文は、短く。

 正しく。

 拒否されにくく。


『さっきの質疑、帰ってからでいい』

『無理しないで』


 送信。

 優しい形。

 でも、その優しさは、相手のためじゃない。


(これで、繋がる)

(これで、途切れない)


 途切れないことに、玲央は縋っている。

 縋っていることを、まだ自分に認めたくない。


 ポケットの中で、手が汗ばむ。


(……次、切られたら)


 次。

 次があると思ってしまう自分が、もうおかしいのに。


 玲央は歩き出した。

 帰る方向とは逆に。

 かなえの家の方向へ――ではない。そんな露骨なことはしない。


 ただ、同じ街の明かりの中を、遠回りするだけ。

 偶然が作れる距離を保つだけ。


 それが“届かない”を埋める唯一の方法になっていることに、玲央は気づいている。

 気づいているのに、やめられない。


***


 かなえは電車に乗って、窓に映った自分の顔を見た。


 仕事の顔。

 いつもの顔。


 いつもの顔のまま、胸の奥だけが冷たい。


 スマホが震える。

 玲央から。


『さっきの質疑、帰ってからでいい』

『無理しないで』


 優しい文。

 拒否しにくい文。


 そして、さっき自分が“共有を止めた”ことを、なかったことみたいに流す文。


(……怖い)


 怖いのに、指が返信欄に行く。

 行って、止まる。


(返したら)

(また“当たり前”が増える)


 当たり前が増えた先に、何がある。

 恋人?

 それとも、もっと別のもの?


 かなえはスマホを伏せた。

 伏せたまま、息を吐いた。


(恋人は苦手)

(そう言ったのは私)

(だから、私が線を引かないと)


 線。

 線を引いたはずなのに。


 引いた線の外側から、あの人は今日も“偶然”の顔で届いてくる。


 電車が揺れる。

 吊り革が鳴る。

 その音の隙間で、かなえは気づいてしまう。


 解除したはずの震えが、まだ指先に残っている。

 まるで、見えない共有が続いているみたいに。


 かなえは目を閉じた。


(……このままじゃ、だめだ)


 でも、だめだと言う言葉を――誰に、どうやって?

 その“言い方”が分からないまま、電車は駅を通り過ぎていった。

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