第42話 知らないはずの距離
朝、ネクタイを結ぶ指先がふっと止まった。
襟の内側が、やけに熱い。
布が擦れるたび、薄い痛みが戻ってくる。
(……残ってる)
鏡は見ない。
見たら、顔が変わる。会社の顔が崩れる。
崩れたら——余計なことを言いそうになる。
玲央は首元を整えて、息をひとつ落とした。
見えない位置。ぎりぎり隠れる位置。
それで充分なはずなのに、触れている感触だけで背骨の奥がぞくりとする。
恋人じゃない。
だから隠す。隠さなきゃいけない。
分かってる。
分かってるのに、喉の奥が熱くなる。
(……あの夜の名残が、まだ俺の体にある)
証拠、なんて言い方は嫌いだ。
でもこれがあると、届かないところに行かれない気がする。
俺が勝手にそう思って、勝手に楽になる。
(……変だな、俺)
軽いほうが楽だと思ってた。
期待も、約束も、名前も、全部めんどくさい。
勝手に好かれて勝手に重くされて、最後は勝手に失望される——あれが一番嫌だった。
なのに今は、逆だ。
隠すくせに、消えないでほしい。
見つかったら困るくせに、見つけられたら……息が甘くなる。
玲央は一度だけ唇を引き結び、顔を作った。
仕事の顔。
誰にも気づかれない顔。
——その下だけが、勝手に囁く。
(今日も、これで……耐えられる)
靴を履く。鍵を握る。
出勤、という形に体を押し込む。
行ける。
行ける気がする。
この熱がまだ消えていないから。
* * *
午前中は、キックオフ後の対応で埋まった。
確認、差分、折り返し、関係部署への投げ直し。
玲央はいつもより声を出した。
いつもより先に動いた。
結城さんの机の上から、ひとつでも"面倒"を消すみたいに。
(負担を減らす)
(余裕を作る)
(余裕が戻れば——)
続きが喉まで上がってきて、玲央はキーボードを強く叩いた。
言葉にしたら黒く形になる。
でも、奥でだけ、続きが勝手に完成してしまう。
(きっと、あの金曜が戻る)
(また夜に、あの人が"いつもの顔"で来る)
(玄関の鍵の音がして、部屋の空気が変わる)
名前も付けてないのに、曜日だけが約束みたいに増えていく。
それが怖いのに、手放せない。
昼過ぎ、通路ですれ違う。
「お疲れさまです」
かなえの声は、いつも通りだった。
冷たくもなく、温かくもない。
仕事の声。
目は、合わない。
合わないことで線を守っているのが分かる。
守ってるのに、避けられているのも分かってしまう。
立ち止まりそうになって、玲央は止めた。
追わない。
職場では、追えない。
その代わり、正しいことをする。
かなえの席に"戻らない形"で、チャットを送る。
【相沢:結城さん、先方の質疑まとめました】
【相沢:今日中に返す必要あるものだけ赤で付けてます】
会話じゃない。
気持ちじゃない。
仕事の形で、距離だけ詰める。
既読はつく。返事は短い。
【結城:ありがとうございます。確認します】
短い。
盾だ。
盾だと分かっているのに、喉の奥がざらつく。
五分の習慣が戻らない。
戻らないのに、戻る前提みたいに心だけが待ってしまう。
(……俺、何してんだ)
自分にだけ聞こえる声で、玲央はもう一度キーボードを叩いた。
* * *
退社間際、同じフロアの雑談が耳に入った。
「結城さん、最近ずっとピリッとしてるよね」
「分かる。前より余裕ない感じ」
「相沢くんも顔こわくない? 今日通った時、笑ってなかった」
笑ってなかった。
玲央は手元の資料を揃える指に、少しだけ力を入れた。
笑ってないのは、たぶん自分だ。
笑えるほど、余裕がない。
(それでも、会社では普通でいなきゃ)
普通で、仕事して、追いついて。
そうしていれば、かなえさんは安心する。
——そう思いたい。
だから玲央は、余計な連絡をしないまま会社を出た。
出たはずなのに。
電車に揺られている間、スマホが何度も手の中で温かくなる。
触ってないのに、そこにあるだけで熱い。
打つな。
送るな。
送ったら"追う"になる。
追ったら、壊れる。
……壊したくないのに。
壊れたくないのに。
玲央は、気づいたらスマホを開いていた。
地図アプリ。
前に「迷わないように」って教えたやつ。
たったそれだけのはずだった。
画面の端に小さく"友だち"の項目が見える。
指が勝手にそこへ滑る。
——いる。
点が、家のあたりで止まっている。
動いていない。
(……着いた)
安心が先に来る。
次に来るものが、安心じゃないのが分かって、玲央は喉の奥を噛んだ。
閉じろ。
今すぐ閉じろ。
なのに襟元に指が入っていく。
触れないようにして、触れてしまう。
うっすら残る熱の場所。そこに、わざと。
ぞくり、と背骨の奥が震える。
(……まだ、ここにいる)
(今夜は、離れてない)
画面を閉じる。ロックをかける。
何もなかったふりをする。
誰にも言わない。本人にも言わない。
言えば、壊れる。
言わなくても、もうどこかは壊れてる。
* * *
かなえは帰宅して、玄関でストールを巻き直した。
首元。
鏡の中の自分が、そこで一瞬だけ止まる。
(……私、何してるんだろ)
あの夜。
襟でぎりぎり隠れる場所に残した、"自分が選んだ跡"。
自分の首じゃない。
相手の体に残したのに、今さら責任みたいに重い。
恋人じゃない。
なのに、所有みたいで。
自分がそんなことをしたのが、まだ信じられない。
バッグを置いて、キッチンへ向かう。
手を洗って、蛇口を閉めた瞬間——スマホが震えた。
玲央。
『おつかれさま』
『家、着いた?』
たったそれだけ。
場所も時間も言ってない。
なのに、胸の奥がざわつく。
(……家に着いた? って)
(それ、前は"当たり前"だった)
五分のやりとり。
金曜の夜。
帰ってきてね。
全部、体のどこかに残っている。
かなえはすぐに返信できなかった。
できないのに、指先が画面から離れない。
もう一度、震える。
『返事いらない』
『ただ、無事ならそれでいい』
善意の言葉。
断りにくい形。
それでいて、会話を無理に繋がない距離の取り方。
かなえは息を吐いて、短く打つ。
【結城:着きました】
送信した瞬間、胃がきゅっと鳴った。
自分の"素直"が勝手に出たみたいで。
すぐ既読。
返事もすぐ。
『よかった』
『……今日、ちゃんと寝て』
それだけ。
追ってこない。責めてこない。
優しい形だけ残して引く。
——なのに落ち着かない。
落ち着かないのに、少しだけ楽になる。
(……ずるい)
(こういうの)
かなえはスマホを伏せた。
伏せたのに、指先だけが熱い。
* * *
玲央は自室の玄関で靴を脱いだまま、スマホを見つめていた。
"着きました"。
それだけの文字が喉の奥を甘く焼く。
安心、と言えば綺麗だ。
でも、安心より重い。
(……戻った)
(今日も、どこかへ消えなかった)
戻ったのは、かなえさんじゃない。
かなえさんは自分の家に帰っただけだ。
分かってる。
分かってるのに、"戻った"が勝手に浮かぶ。
玲央は襟元に指を入れて、触れてしまう。
あの夜の熱が薄く残っている場所。
確かめるみたいに、なぞる。
ぞくり、と背骨の奥が震える。
(消えないでほしい)
(見つかったら困るのに)
笑ってしまいそうになって、笑わない。
代わりに息を吐く。
そしてもう一度だけ、思う。
(俺は、かなえさんにとって)
("戻る場所"になれるのかな)
(届かないまま、終わるのかな)
その答えが怖くて、玲央は今日も"正しい形"に逃げる。
明日の資料。次の会議。段取り。負担軽減。
正しいことを積み上げれば、安心してくれる。
そう信じるしかない。
——信じるしかないのに。
スマホのロック画面を見つめながら、玲央はまた思ってしまう。
(点が動いたら、どうしよう)
(動いたら、追いかけるのかな)
(追いかけたら、もう戻れないのに)
言葉にならない濁りが、胸の底に静かに沈んでいった。




