第41話 形だけの週末、形だけの平日
玲央は玄関の鏡の前でネクタイを締め直した。
いつもの動作。いつもの月曜。
なのに、指先が勝手に首元へ寄っていく。
襟の内側。見えない場所。そこに、まだ熱が残っている気がした。
——かなえさんが、残した痕。
恋人じゃない。
だから隠す。隠さなきゃいけない。
会社で見つかったら、面倒になる。結城さんに迷惑がかかる。
分かってる。
分かってるのに、玲央は指の腹でそこを軽くなぞった。
ぞわ、と背骨の奥が甘く震える。
(見られたら困る)
(でも、見られたら……)
喉の奥が熱くなる。笑いそうになるのをこらえるみたいに、玲央は口を引き結んだ。
かなえさんが俺に残したもの。
俺の身体に“かなえさん”があるって証拠。
まるで、俺がかなえさんのものみたいで。
——いや、違う。逆だ。
俺が勝手に、そう思いたいだけだ。
(……変だな、俺)
勝手に好かれて、勝手に期待されて、勝手に重くされて、勝手に失望されて終わる。
それが嫌で、軽い方が楽だったはずなのに。
今は逆だ。
隠すくせに、消えないでほしい。
見つかったら困るくせに、見つけられたら、たぶん——息が甘くなる。
玲央は襟を整え直して、赤みが完全に隠れる位置を確認した。
それから鏡の中の自分に、会社の笑い方を貼り付ける。
仕事の顔。
後輩の顔。
——その下で、胸の奥だけが囁く。
(……まだある)
(今日もこれで、届かないのを耐えられる)
鍵を握る。呼吸を整える。
整えたところで、胸の底のざらつきは消えない。
それでも——今日は行ける気がした。
あの痕があるから。
***
月曜の朝。
かなえはいつも通りに出社した。
いつも通りの挨拶。いつも通りの歩幅。いつも通りの顔。
“いつも通り”を重ねるほど、週末の温度が嘘みたいで怖い。
嘘なら楽なのに、嘘じゃないのが分かるから、余計に。
エレベーターを降りた瞬間、フロアの乾いた空気が肌に刺さった。
ちょうどいい。冷たい方が助かる。仕事は冷たいところから始めた方が、線を引ける。
——引ける、はずだった。
「結城さん」
背後から呼ばれた瞬間、肩が勝手に固まる。
振り向く前から、分かる声だった。
玲央。
仕事の距離、仕事の目、仕事の声。
「これ、先方の差分。今朝戻ってきたので」
紙の束が差し出される。付箋がきっちり揃っていて、余計な癖がない。
それだけで、彼が週末を“無かったこと”にしてくれているみたいで——助かってしまうのが悔しい。
「……ありがとうございます」
受け取る指先が、ほんの少し震えた。
見られたくなくて視線を落とす。紙の角を揃えるふりで、落ち着けるふりをする。
「あと、これも」
玲央がもう一つ差し出す。小さな紙袋。
かなえの胃がきゅっとする。こういう“さりげない”が、いちばんやっかいだ。
「差し入れ?」
警戒が声に出る。
玲央はすぐ首を振った。
「違う。……違わないけど。仕事用」
言い直して、袋の口を少しだけ開ける。
「のど飴。昨日……喉、やられてたでしょ」
——見てた。
見てたのに、言わないでほしい。
気づかれたくないところばかり、見抜かれる。
「気のせいです」
「うん。じゃあ気のせいでいい」
玲央は笑わないまま頷く。
「置いとく。使わなくていい」
“使わなくていい”のくせに、置いていく。
ここにあるだけで、拒否しづらくなる。
それを分かってる置き方。
かなえは何も返せなくなって、紙袋から目を逸らした。
(……楽になる)
(楽になるのが、怖い)
助かるほど、戻れなくなる気がする。
戻りたくないわけじゃない。
“恋人”という箱に押し込まれたくないだけだ。自分でそう言ってしまったから。年上としての意地もある。
——それなのに、こういうのに弱い。
玲央はそれ以上何も言わず、すっと離れた。
その背中が“会社の後輩”で、ほっとして、ほっとした自分がまた嫌だった。
***
午前中は会議が続いた。
差分、数字、決裁、調整。
手を動かしていれば、考えなくて済む。
コピー機の前で紙を揃えていると、背後から雑談が流れてきた。
「相沢くん、最近さ、やけに気遣うよね」
「分かる。営業ってより、なんか……秘書っぽい」
かなえの指が、紙の角で一瞬止まる。
止めない。止まってないふりで、きちんと揃える。
「結城さんも、最近ちょっと雰囲気変わった?」
「余裕ないっていうか。ピリっていうか」
胸の奥が、ひくりと動いた。
(見られてる)
(そんなに、出てる?)
紙を抱えてその場を離れる。
離れても耳に残るのは“余裕がない”じゃなくて——“相沢くんの気遣い”。
そこに、自分が含まれているのが分かる。
分かるから、胃が痛む。
***
昼休み。
かなえが一人で席に残って弁当を開くと、社内チャットが鳴った。
【神谷:資料、助かりました。ありがとう】
【神谷:今週、15分だけ確認したい箇所がある。無理なら来週でいい】
“無理なら来週でいい”。
急かさない。追い詰めない。逃げ道を残す。
かなえの肩から、ふっと力が抜けた。
(……こういうのが、楽)
楽だと思ってしまう自分に、すぐ胃が痛む。
楽=好き、に繋げたくない。
でも、息がしやすいのは事実だった。
【結城:今日の夕方なら、短時間なら大丈夫です】
【結城:駅前のカフェで、で良いですか】
送って、スマホを伏せる。
伏せた瞬間、隣に影が落ちた。
「結城さん」
玲央だった。
さっきと同じ距離、同じ声——でも、さっきより少しだけ低い。
玲央は紙袋をそっと置く。さっきの飴とは別の、薄い紙袋。
「食べれる? 昼」
かなえは箸を止めた。
言い返す言葉はある。年上としての意地もある。
でも、喉で詰まった。“抜きがち”を当てられているから。
「……大丈夫です」
「うん。大丈夫ならいい」
玲央は頷いて、そこで一拍、視線を落とす。
「でも、嫌なら食べなくていい」
「置いとく。今日は……ここまで」
“今日はここまで”。
線を引く言い方なのに、線のこちら側に物だけ残していく。
かなえの机の端に、紙袋が残った。視界の隅にずっと残る。
(……ずるい)
怒れない。
怒ったら、関係に名前がつきそうで怖い。
恋人じゃない、と言ったのは自分なのに。
***
夕方、駅前のカフェ。
神谷は先に来ていて、かなえを見つけると立ち上がった。
近づきすぎない歩幅、詰めすぎない距離。
「無理させた?」
「……無理ではないです」
かなえは曖昧に笑った。
「そう。なら、よかった」
“よかった”で止まる。
掘らない。追わない。
その感じが、助かる。
確認は本当に十五分で終わった。
神谷は余計な話をしない。仕事の話を仕事のまま終わらせる。
でも、最後だけ少し声を落とした。
「結城、最近顔が硬い」
淡々と言って、淡々だから刺さる。
「眠れてる?」
かなえは笑って流そうとして、笑いがうまく作れなかった。
「……仕事が、立て込んでて」
「仕事は、立て込む。いつも」
神谷が言う。
「だから、それ以外のやつ」
言い切らずに息を吐く。
「言いたくなったら聞く。言いたくないなら、それでいい」
優しすぎて痛い。
優しい言葉は、受け取った瞬間に借りができる気がする。
「……ありがとうございます」
「うん」
それだけ。
“候補になりたい”みたいな温度を見せない。
見せないから、安心してしまう。安心してしまう自分が、また怖い。
***
カフェを出ると、夜風が冷たかった。
かなえはストールを直しながら、駅へ向かう。
その途中で、スマホが震えた。
玲央。
『今、駅前のカフェ出た?』
かなえの足が、一瞬だけ止まる。
(……なんで分かるの)
駅前のカフェはいくつもある。
でも、いま出たのは——ここだ。
胸の奥が、すうっと冷たくなる。
指先まで冷える。
次の通知。
『風、冷たいから。ストール、ちゃんと巻いて』
さっきの自分の動きまで見られていたみたいで、かなえはスマホを握りしめた。
偶然だ。偶然、通っただけ。偶然、見えただけ。
そう言い聞かせようとして、言い聞かせきれない。
また震える。
『帰り、急がなくていい』
『でも、寒いのだけは嫌だから』
優しい文章。正しい文章。
なのに、背中に薄い汗が出る。
——“どこにいるか”を前提にした文だ。
見守りの形をして、見張りに近い温度が混ざる。
(……怖い)
(でも、怖いって言えない)
怖いって言ったら、全部が壊れそうだ。
恋人が苦手だって言った自分の言葉まで、嘘になる気がする。
年上の意地も、かっこつけも、全部はがれてしまう。
かなえは返信欄に指を置いて、止めた。
返したら“つながる”。つながったら、もっと届かなくなるのが怖い。
なのに、黙ったら追われる気がして、それも怖い。
結局、画面を伏せた。
金曜じゃない。
ただの月曜の夜。
なのに週末の温度は消えない。首元じゃなく、胃の奥に残っている。
(形だけ)
(形だけの仲直り)
形だけのはずなのに、平日にまで染みてきている。
その染み方が、じわじわ怖い。
かなえはスマホを握ったまま、電車に乗った。
返信は、しないまま。
——しないままでも、追ってくる気がして。
***
玲央は、送信した画面をしばらく見つめていた。
既読はつかない。
当たり前だ。
会社のあとに“駅前のカフェ”なんて、余計だ。
余計だと分かってる。分かってるのに、止まらなかった。
画面の小さな点が、動く。
駅へ向かう線。改札に吸い込まれるみたいに消えて、また現れる。
(……帰ってる)
(ちゃんと、帰ってる)
それだけで、胸が少しだけ落ち着く。
落ち着いてしまう自分が、気持ち悪いほどいとおしい。
(最低だ、俺)
そう思うのに、指先はもう次の言葉を探している。
“心配だから”という正しさの服を着せた言葉。
“束縛じゃない”って顔ができる言葉。
——でも本当は、違う。
届かないのが嫌だ。
仕事の顔の結城さんに、俺は届かない。
神谷の隣で笑う結城さんにも、届かない。
だから、せめて“ここ”だけは。
せめて“帰り道”だけは、俺の方から手が伸びる場所にしておきたい。
(なくしたくない)
(静かに離れて、気づいた時には届かない、あれがいちばん怖い)
既読はつかない。
それでも玲央は、画面の点が家の方角へ消えていくのを見届けるまで、スマホを手放せなかった。
そして、胸の奥で小さく囁く。
(……大丈夫)
(まだ、ここにいる)
大丈夫じゃないのに。
確かめないと落ち着けない時点で、もう、とっくに。




