第40話 首輪のない猫は、消える
朝の光は、いつもより薄かった。
カーテンの隙間から差し込む白が、ベッドの上をなぞって、かなえのまぶたの裏まで届く。
……重い。
背中に回された腕が、ただの重さじゃない。
囲い込みの形のまま、眠りの名残でほどけない。
「……おはよう」
耳元で、玲央の声が落ちた。
寝起きの声は少し低くて、甘いのに、どこか焦っている。
返事をしようとして、かなえは喉の奥が詰まった。
“おはよう”を言ったら、ここがまた日常になる。
ここが、帰る場所みたいになる。
「……おはようございます」
敬語に逃げる。
逃げても、玲央は笑わない。
代わりに、髪の匂いを吸うように、頬が寄ってくる。
軽く、擦りつけるみたいな動き。
猫が“ここは俺の”ってやる、あの仕草に似ている。
「……やめてください」
「うん」
返事だけは素直だ。
でも、やめない。
やめないまま、息を吐く。
「……昨日、眠った?」
「ちゃんと」
心配の形をしているけど、確認だ。
“ここにいた”っていう事実を、何度も撫でている。
「……眠りました」
「よかった」
よかった、と言いながら、腕の力が少し強まる。
抱きしめるというより、逃げ道を狭める。
かなえは、目を開けた。
ベッド脇の時計が見える。
土曜の朝だ。
(……帰らないと)
(帰った方がいい)
そう思うのに、身体が動かない。
動かない理由が自分でも分かってしまって、胃が痛い。
玲央が、そっと身を起こした。
ベッドから離れる気配に、かなえの指先が、反射でシーツをつかむ。
その自分が悔しい。
「……何か食べよ」
玲央は振り返って言った。
声は穏やかで、顔だけは優しい。
「パンと、卵と、スープ」
「嫌なら、食べなくてもいい。……でも、ちょっとだけでも」
“選択肢をくれる”形。
なのに、断ると悪者になる形。
かなえは視線を逸らして、小さく言った。
「……少しだけなら」
玲央の肩が、ほんの少し落ちて緩む。
安心したみたいに。
「うん。すぐ」
キッチンへ行く背中を見て、かなえはゆっくり起き上がった。
シーツが肌から離れる。
その瞬間、背中がじくっと熱い。
鏡を見なくても分かる。
玲央が残した“花”が、たぶん今日も咲いている。
(……消えないで)
(消えてほしいのに)
矛盾に胸がざわつく。
ダイニングテーブルには、すでにかなえ用のマグがあった。
それ自体は、もう見慣れてしまった。
怖いのは、見慣れた自分の方だ。
玲央が運んできたのは、湯気の立つスープと、トースト、スクランブルエッグ。
香りが優しくて、空腹を思い出してしまうのが悔しい。
「……ちゃんと食べて」
玲央は椅子を引いて、かなえを座らせる。
座らせる、というより、“座る流れ”を作る。
「……ありがとうございます」
「うん」
玲央は自分の分を作りながら、ちら、とかなえを見る。
目が合いそうで、合わない。
合うと、何かが崩れそうで。
かなえは、スープを一口飲んだ。
温かい。
温かいのに、胃が痛い。
玲央が向かいに座った。
「……今日、帰るの?」
唐突に来る。
優しい声のまま、真ん中だけを突く。
かなえはスプーンを置いた。
「……帰ります」
言い切った瞬間、玲央の目が揺れる。
揺れて、すぐに落ち着いた顔を作る。
作っているのが分かるから、余計に胸が痛い。
「うん」
玲央は頷いた。
頷いてから、少しだけ間を置く。
「……いつ?」
いつ、という問いは、“帰る”を受け入れたふりのまま、範囲を狭める。
「……今日のうちに」
「今日のうち、って」
玲央は小さく笑いそうになって、笑えなかった。
「土曜って、長いよ」
長いよ、が、子どもみたいに聞こえてしまって、かなえは言葉に詰まる。
「……玲央」
呼んでしまった。
家の中だけ、と決めたはずの呼び方が、喉から先に出る。
玲央の目尻が、ふっとほどける。
それだけで、かなえは負けた気がする。
「……何ですか」
かなえは慌てて硬くする。
「今、呼んだ」
玲央はうれしそうに言う。
うれしそうなのに、目の奥はまだ落ち着いていない。
「……ねえ、今日は」
「今日だけ、ここにいて」
“今日だけ”をまた置く。
今夜だけ、来週だけ。
その“だけ”が増えるほど、逃げ道が狭くなるのに。
「……昨日も“今夜だけ”って」
「うん」
玲央は素直に頷く。
「でも昨日は、夜だけだった」
「今日は……朝から、ちゃんといるじゃん」
いるじゃん、がずるい。
“事実”にしてしまう言い方。
かなえは唇を噛んだ。
「……仕事、あります」
盾を出す。
出すと、玲央が少しだけ眉を寄せた。
「うん。なら、午後に一時間だけ」
「それ以外は、休む」
玲央の言い方は、提案の形をしているのに、決めている。
「……決めないでください」
「決めない」
玲央はすぐ言う。
言って、目だけでお願いしてくる。
「……決めてほしい。かなえさんが」
“選ばせる”言い方。
なのに、選ぶ側の責任をこっちに押し返してくる。
かなえは、スプーンを握り直した。
(……帰った方がいい)
(でも、帰るって言ったら)
(この人、また折れそうな顔をする)
放っておけない。
放っておけないのが、もう負けだ。
「……夕方まで」
口が勝手に譲歩する。
玲央の息が、ふっと緩んだ。
「うん」
玲央は頷く。
「夕方まで」
言ってから、すぐ付け足すみたいに小さく言った。
「……ありがとう」
ありがとう、の言い方が、昨日より柔らかい。
それが怖い。
***
食器を片付ける間も、玲央は離れなかった。
皿を持つかなえの横に立つ。
同じスポンジを取るわけでもないのに、キッチンにいる。
「……邪魔です」
「うん」
玲央は笑わずに頷く。
「でも、離れたくない」
言い切るのが、ずるい。
恋人じゃないのに、恋人の言葉みたいな温度を置いてくる。
かなえは何も返せないまま、水を止めた。
「……ちょっと、休憩します」
「うん」
玲央は頷く。
「ベッドで」
ベッドで、が、当たり前の流れみたいに出てくるのが怖い。
「……ソファでいいです」
「ソファでもいい」
玲央は譲る。
譲って、すぐ続ける。
「……でも、抱きしめていい?」
許可。
許可を取る形。
取ったら、断りづらい形。
「……だめです」
かなえが言うと、玲央は少しだけ目を伏せた。
そして、穏やかに言う。
「じゃあ、触れない」
「……隣にいるだけ」
隣にいるだけ。
それで落ち着くと言う。
それで落ち着かないのは、こっちだ。
ソファに座ると、玲央もすぐ隣に座った。
触れていないのに、熱が近い。
呼吸が近い。
かなえが視線を落とすと、玲央の指先が、ソファのクッションを軽く叩いた。
「……ここにいてくれるの、嬉しい」
嬉しい。
その単語が、胸の奥を鈍く撫でる。
「……私は、まだ」
何を言いたいのか分からないまま、言葉が途切れる。
“納得していない”と言いたい。
“誤解が解けていない”と言いたい。
でも言ったら、また金曜の夜に戻ってしまう。
玲央が、かなえの顔を見た。
「……俺」
玲央は小さく言った。
「……ほんとに分かんないんだ」
「どうして、帰ってきてくれなかったの」
責めていない。
責めていないから、余計に刺さる。
「……玲央だって」
かなえは喉の奥が痛いまま、言う。
「……美緒さんと」
そこまで言って、自分で嫌になる。
恋人関係が苦手だと言ったのは自分なのに。
嫉妬みたいなものを口にしている。
玲央が、少しだけ目を見開いた。
「……あれ、まだ不安?」
不安そうに眉が寄る。
なのに、口元だけがふわっと緩む。
嬉しいのを隠せない顔で、でも、次の瞬間には折れそうな目。
「……かなえさん、まだ不安?」
「……俺、何か、まだ足りてない?」
沈黙が重い。
責めない分、逃げ道がない。
(納得なんて、してない)
(美緒のことも)
(神谷さんのことも)
(私が、どうしてこんなに苦しいのかも)
言葉にできないものが多すぎて、口を開くほど崩れそうだった。
玲央は、確かめるみたいにもう一度だけ言う。
「……来週」
声が少しだけ小さくなる。
「来週の金曜、帰ってきてくれるよね」
“帰ろう”じゃない。
“迎えに行く”でもない。
待つ側みたいな顔をして、選ぶ側をかなえに押しつける言い方。
寂しそうな声なのに、胸の奥にぴたりと爪が立つ。
かなえは強がりを出そうとして――出せなかった。
こんな不安そうで、折れそうで、
それでも嬉しそうに笑ってしまう玲央を、
放っておけない。
(……ずるい)
(そんな顔されたら、私が悪者になる)
かなえは結局、曖昧な逃げ道を選ぶ。
「……分かりません」
言った声がかすれる。
玲央の目が揺れる。
揺れたまま、無理に笑おうとする。
「……うん、分かんないよね」
玲央はふわっと笑って、でも、その笑いが薄い。
「ごめん。今、変だね、俺」
その一言が刺さる。
変なのは、どっちだろう。
かなえは、ぎこちなく口角を上げた。
笑った、というより形を作っただけの笑い。
「……来週、また……」
かなえは言葉を探す。
探して、曖昧なまま落とす。
「……分かったら、連絡します」
玲央の肩が、ほんの少しだけ落ちる。
落ちたのに、目尻が柔らかくなる。
「……うん」
玲央は小さく頷いた。
「それでいい」
「……連絡、待ってる」
待ってる、の一言が、
“次の金曜”をもう既成事実にしていくみたいで、
かなえは胸の奥が甘く疼いて、胃が痛かった。
***
そのまま、昼が溶けた。
玲央は“仕事の一時間”を守った。
守ったふりをして、かなえの横でノートPCを開き、
かなえが画面に集中しそうになると、そっと髪を撫でる。
撫でる前に「いい?」と聞かない。
聞かないで、当たり前みたいに触れる。
触れてから、「ごめん」と言う。
その順番が、ずるい。
「……仕事、終わったら」
かなえが言いかけると、玲央の手が止まった。
止まって、視線が上がる。
「帰る?」
言葉が短い。
短いほど、圧になる。
「……帰ります」
言うと、玲央は頷く。
頷くのに、目が落ち着かない。
「うん」
玲央は言って、すぐ立ち上がった。
「……じゃあ、先に“落ち着かせて”」
落ち着かせて。
便利な言葉。
かなえは反射で首をすくめる。
「……それ、ずるいです」
「ずるい」
玲央は認める。
認めて、近づく。
「でも、俺、今それしかできない」
言い訳に聞こえるのに、どこか本気だ。
玲央の指が、かなえの手首に触れる。
掴まない。
でも、逃げられないくらいの圧で、そこに置く。
「……ベッド、行こ」
行こ、が、柔らかい命令になる。
かなえは断りたかった。
断りたいのに、口を開いた瞬間に、玲央の目が折れそうで。
「……少しだけ」
また言ってしまう。
「うん」
玲央の返事が早い。
「少しだけ」
ベッドに戻ると、空気が変わる。
生活の光が消えて、呼吸だけが濃くなる。
玲央は急がない。
急がないふりをして、最初に“帰る”を奪う。
唇が触れる。
短く、浅く。
そこから、ゆっくり深く。
息が絡まる。
かなえが息を吸おうとすると、玲央がそれを追う。
「……やめ、」
言いかけると、玲央は唇を離して、額を寄せた。
「やめない」
玲央は小さく言う。
「……お願い」
「今日は、消えそうで、無理」
消えそう。
その単語が、心臓の奥をひくりと動かす。
玲央の手が、服の上から背中をなぞった。
確かめるように。
そこに残る熱を拾うように。
布越しなのに、背中がじくっと疼く。
「……花、消えてた」
玲央がぽつりと言う。
昨日まであったはずの“所有の形”が、薄くなっていた。
たった一週間会えなかっただけで、玲央の中では“消える”になる。
「……だから、また咲かせる」
囁きが、怖いほど優しい。
玲央は、見えないところを選ぶ。
首の裏、髪の影。
鎖骨の内側、襟の縁。
背中の上、服のラインのすぐ下。
“見えない”が、秘密じゃなく“所属”になる。
熱が落ちるたびに、かなえの身体が小さく跳ねる。
跳ねるのを、玲央が嬉しそうに見てしまうのが分かってしまって、悔しい。
「……かなえさん」
玲央は囁く。
「俺のこと、嫌い?」
質問が、急に子どもみたいで。
でも、答えを間違えたら壊れる種類の問いで。
「……嫌いだったら、ここにいません」
かなえは、息の間で言った。
言ってしまって、胸が熱い。
言葉にしたら、ここが“帰る場所”になる気がして怖い。
玲央の目尻が、くしゃっとなる。
その笑いが、ずるい。
「……それだけでいい」
玲央は満足しないはずなのに、満足したふりをする。
ふりをして、また唇を落とす。
午後が溶けて、夕方が滲む。
かなえが「帰ります」と口にするたびに、
玲央の熱が増えた。
“帰る”が合図になる。
合図にされてしまう。
「……帰ります」
「うん」
玲央は頷く。
「じゃあ、もう一個だけ」
「……一個だけ、って言うの、ずるいです」
「ずるい」
玲央は笑わずに言う。
「でも、かなえさんが“帰る”って言うたび、俺、無理になる」
無理になる。
それを言われたら、かなえは逃げられない。
結局、夜まで、ベッドの上で時間が流れた。
直接的なことは何も言われない。
でも、身体が“ここにいろ”と言われ続ける。
背中の上に、見えない赤い花束が増える。
増えているのに、玲央の目は満足しない。
増えるほど、焦りが透ける。
(……足りないんだ)
(これだけじゃ、足りないって顔してる)
それが怖いのに、目を逸らせない。
***
夜。
カーテンの外が暗くなって、部屋の中の灯りが濃くなるころ、
かなえは、ようやく身体を起こした。
息が乱れているわけじゃない。
でも、心臓の奥だけがまだ熱い。
「……帰ります」
三度目か四度目の“帰ります”。
玲央の動きが止まった。
止まって、ゆっくりこちらを見る。
その目が、怖い。
怖いのに、どこか折れそうで。
折れそうなのが、一番ずるい。
「……うん」
玲央は頷いた。
頷いて、喉が小さく鳴る。
「……帰ってほしくない」
言い切るのに、声が震える。
ああ、この人は今、言葉にしないと壊れそうなんだ、と分かってしまう。
「……玲央」
呼んでしまう。
呼んだ瞬間、玲央の目が少しだけ明るくなる。
それがまた、悔しい。
玲央は、ゆっくり自分の襟元を指で引いた。
「……最後に」
玲央は言う。
「一個だけ、お願いしていい?」
かなえは眉を寄せる。
「……何ですか」
「ここ」
玲央が指さすのは、首の付け根。
鎖骨の上。
襟で隠れるけど、ふとした瞬間に見える場所。
「外では見えない」
玲央はそう言って、すぐ訂正するみたいに付け足した。
「……でも、ちょっとだけ見えるかも」
ちょっとだけ。
その“ちょっと”が、狙いだと分かる。
「……嫌です」
かなえは反射で言った。
言ってから、玲央の顔が少しだけ沈む。
沈むのに、追わない。
追わないまま、静かに言う。
「うん。嫌なら、やめる」
玲央は頷く。
頷いて、視線を落とす。
「……でもさ」
声が小さくなる。
「俺、これがあったら、平日、ちゃんと頑張れる」
頑張れる。
仕事の言葉に逃げる。
逃げるほど、気持ちの黒さが見えなくなる。
それが、怖い。
「……見えるところに残すの、嫌じゃない?」
かなえは、ぎりぎりの正論を探す。
「見えないと意味ない」
玲央は淡々と言った。
淡々と言ったのに、目だけが必死だ。
「……俺、見たい」
「しんどい時に、これが見えたら……帰ってきてくれるって思えるから」
帰ってきてくれるって思える。
それは願いの形をしているのに、
同時に“帰ってくる”を既成事実にする言葉だ。
かなえの喉が痛くなる。
(……形ばかりの仲直り)
(解けてないのに)
(こういうふうにされると、断れない)
かなえは、しばらく黙った。
黙って、息を吸って、吐いた。
「……一個だけです」
かなえは言った。
「それ以上は、だめです」
玲央の目が、はっきり揺れる。
揺れて、嬉しそうにほどける。
その表情がずるい。
「うん」
玲央は小さく頷いた。
「一個だけ」
かなえは身を寄せた。
玲央の皮膚はあたたかい。
鼓動が近い。
その近さが、今さら胸を甘くさせるのが悔しい。
唇を落とす。
短く。
深くしない。
でも、熱を残す。
離れた瞬間、玲央の息が漏れた。
「……っ」
声にならない吐息。
玲央はその場所を、指先でそっと撫でる。
確かめるみたいに。
拝むみたいに。
そして、うっとりした顔のまま言った。
「……これ、すごい」
「……平日、これ見たら乗り切れる」
「何言ってるんですか」
「ほんと」
玲央は真面目な顔で言う。
「しんどい時に、これが見えたら」
「……かなえさん、帰ってくるって思える」
“思える”が、ずるい。
決めつけじゃない顔をして、決めている。
かなえは、胸の奥がざわつくのを飲み込んだ。
「……分かりました」
かなえは、やっと言う。
「平日は、それで……乗り切ってください」
玲央の口元が、ふわっと緩む。
「うん」
玲央は小さく頷く。
「……ありがと」
ありがとう、がやけに優しい。
優しいのに、胃が痛い。
玲央は、襟元の熱をもう一度だけ指でなぞって、
大事なものをしまい込むみたいに、シャツの襟を戻した。
「……週末、終わっちゃうね」
終わらせたくない声。
かなえは曖昧に笑うしかできなかった。
笑って、畳むしかない。
「……帰ります」
玲央は頷いた。
頷いてから、最後に小さく言う。
「……来週も、会える?」
“会える”。
“帰ってきて”じゃない。
待つ側の言葉に見せるのが、余計にずるい。
かなえは、答えをはっきりさせないまま、
首を縦に動かした。
「……予定、分かったら」
玲央はそれで満足したみたいに頷く。
「うん」
「……連絡、待ってる」
待ってる、が
“次の金曜”をもう首輪にする。
***
玄関で靴を履くとき、かなえの背中がじくっと痛んだ。
服の下に咲いた花束が、動くたびに熱を思い出させる。
ドアノブに手をかけたところで、玲央の声が背中に落ちる。
「……気をつけて」
「襟、ちゃんと立てて」
優しいふりをした所有の言葉。
かなえは振り返らない。
振り返ったら、また曖昧になる。
ドアを閉めた瞬間、
外の空気が冷たくて、現実が戻った。
なのに——
胸の奥だけが、まだあの部屋の温度を引きずっている。
(……離れた方がいいのに)
(求められると、拒否できない)
かなえは歩き出す。
自分の家へ。
そのはずなのに、背中の熱と、玲央の襟元の熱が、
どこかで繋がったまま離れない。
***
ひとりになった部屋で、玲央は自分の襟元に指を当てた。
そこに残る熱が、まだ生々しい。
たった一個。
たった一個なのに、胸の奥が静かに満たされていく。
(……これがあれば)
(平日、頑張れる)
そう言い聞かせる。
言い聞かせないと、すぐ黒くなるから。
玲央は目を閉じた。
閉じたまま、ぼそっと言う。
「……次の金曜も」
お願いの形。
でも、もう決めている声。
そして、胸の奥の濁りが、ふと別の形になる。
かなえさんが、神谷さんに笑うところ。
心を許すみたいな、あの顔。
(……あれ、俺には見せないのに)
恋というには、重すぎる。
でも、手放すには、もう遅い。
玲央は、襟元の熱を指でなぞったまま、
小さく笑った。
笑うのに、目が笑っていなかった。




