第44話 再契約
夜の部屋は静かで、静かすぎて、心臓の音だけがやけに大きい。
かなえはソファの端に座ったまま、スマホを伏せていた。画面は見ていないのに、そこに"さっきまであったもの"の感触だけが残っている。指の腹が、まだ冷たい。
(もう、切った)
(切ったんだから、終わり)
終わり、って何が。
位置情報の共有なんて、普通に考えたら「勝手にされた」の一言で終わる。怒っていい。怖がっていい。線を引いて、当たり前の顔で距離を戻せばいい。
……なのに、胸の奥がざわつく。
かなえが恐れているのは「追われること」だけじゃない。
追われて、勝手に踏み込まれて、選択肢を減らされるのはもちろん嫌だ。嫌なのに――それを嫌だと言い切った瞬間、自分の中の別の痛みが顔を出す。
(……他の人は、気づかない)
(私が黙って飲み込んでるやつ)
喉が少し荒れてるとか、目が疲れてるとか、息が浅いとか。
そんなのは本当は誰でも気づけるはずなのに、誰も気づかない。気づかないし、気づかれなくても回るように自分が作ってきた。
それを――玲央だけが、当たり前みたいに拾う。
拾われたくないのに、拾われるとほどける。
ほどけた自分が怖いのに、その怖さのほうが少しだけ楽になる瞬間がある。
(この関係が、なくなるのが怖い)
言葉にすると、情けなくて胃がきゅっと鳴った。
恋人は苦手、と言ったのは自分だ。年上としての意地も、線引きも、全部、自分が握ってるふりをしたかった。
だけど今、握ってるふりをしている指が、いちばん震えてる。
玲央は、気づいたはずだ。
"消えた"ことを。
それが落ち着かない。落ち着かないのに、少しだけ安心もしてしまう。
安心してしまう自分が、また始末に負えない。
かなえは息を吐いて、膝の上で手を組んだ。
(明日、普通に会う)
(普通に仕事をする)
普通、って便利な言葉だ。
何も言わなくても許されたみたいになるから。
でも、何も言わないまま許すのも、何も言えずに終わるのも、どっちも嫌だ。
嫌だと言える自分でいたい。
スマホが震えない。
震えないのに、耳はずっと"音"を探してしまう。
足音じゃない。
鍵の音でもない。
ただ、誰かが自分の小さな乱れに気づく気配。
それが来ない夜が、こんなに長いなんて知らなかった。
* * *
翌朝。
オフィスの空気はいつも通りで、だからこそ逃げ道がない。かなえは仕事の顔を貼って席に着き、キーボードを叩き始めた。メール、会議、差分、承認ルート。文字が並ぶと頭が整う。整うのに、胸の奥だけは整わない。
視界の端に玲央が入る。
それだけで、胃が先に反応する。
(見るな)
(見たら、余計なことを思う)
余計なこと。
たとえば、あの人は今朝、どんな顔をして出社したんだろう、とか。
かなえは画面を睨むみたいに見た。
すると、チャットが一件だけ浮かぶ。
【相沢:結城さん、先方の返し、今5分だけいいですか】
業務の顔。
断れない形。
かなえは指を止めずに返した。
【結城:会議室2で】
送信した瞬間、心臓が一拍遅れて跳ねた。
(……言う)
(切ったこと、気づいてるよねって)
(それで、終わりにする)
終わりにする、の言い方が自分でも曖昧で、喉が少し痛んだ。
* * *
会議室のドアを閉めると、外の音がすっと遠のく。
残るのは、エアコンの低い唸りと、二人分の呼吸。
玲央は資料を机に置いて、いつもの声を作った。
「先方の文言、ここ――」
「相沢くん」
かなえが呼ぶと、玲央の指が止まった。
止まったのは一瞬。だけど、その一瞬だけ"仕事じゃない顔"が覗いた気がして、かなえの胸がひくりとする。
逃げないように、かなえは先に言った。
「……昨日の件。もう、共有してないです」
「気づいてますよね」
玲央は、目だけで頷いた。
頷きが、早い。
早いのに、喉が動いてから声になるまでに、ほんの少し間があった。
「……うん。気づいた」
あっさりした返事。
だからこそ、かなえは動揺した。
"わかった顔"の下に何が残っているのかが、見えない。
かなえは言葉を続ける。
「私は、ああいうの、嫌です」
「……嫌だって、言います」
言えた瞬間、喉が痛い。
痛いのに、息が少しだけ通る。
玲央は視線を逸らさないまま、低い声で言った。
「……怖かった」
その一言が、ずるい。嘘じゃないのが分かるから、余計に――もっと嫌になる。
かなえは歯を食いしばって、言葉を折らなかった。
「怖いなら、言ってください」
「勝手にやらないで」
「私が決めます」
玲央の眉がわずかに寄った。傷ついたみたいな顔を一瞬だけして、でもすぐに"平気"を貼り直す。
「……分かった」
切り替えの早い声が、逆に怖い。
胸の奥の濁りが消えていないのが分かる。分かってしまうのが、いちばん嫌だった。
かなえは、ここで逃げたらまた同じになる気がして、続けた。
「あと、金曜」
「"当たり前"にしないでください」
「帰る場所も、連絡の頻度も」
「……私の生活に、勝手に組み込まないで」
言い切った瞬間、玲央の肩がほんの少しだけ落ちた。
落ちたのに、玲央は声を荒げない。怒らない。その代わり、声が小さくなる。
「……じゃあ、どうしたらいい」
その小ささが、切実で、胸の奥が揺れた。
揺れたことに腹が立つ。
腹が立つのに、同時に思ってしまう。
(この人、私のことだけ見てるみたいな顔をする)
そういう顔をするくせに、確かな言葉は出さない。
恋人って呼ばない。
でも、戻ってくることには固執する。
かなえは唇を噛んで、言い方を選んだ。
「……会いたいなら、会いたいって言ってください」
「私は、考えて返します」
「"いつもの流れ"にしないで、いちいち」
玲央が一拍置いて、頷く。
「うん」
「……それでいい」
"それでいい"が、どこか苦しそうだった。
苦しそうなのに、受け入れたふりをするのが上手い。
玲央は、少しだけ声を落として付け足す。
「ひとつだけ」
「遅くなる時、理由はいらない」
「……一言だけでいいから、送って」
正しいお願い。
断りづらいお願い。
拒否したら、自分が冷たいみたいになるお願い。
かなえは、そこで一瞬だけ迷って――頷いた。
「……分かりました」
言ってしまった瞬間、玲央の目がほんの少しだけほどける。
ほどけたのに、安心しきれてない目で、まだかなえを見ている。
玲央は一度だけ、目を伏せた。
長い睫毛が影を作って、その一瞬だけ"仕事の顔"がずり落ちる。
かなえはそれを見てしまって、見てしまったことを後悔した。
あの人、ちゃんと傷ついてる。
分かりたくないのに、分かる。分かるたびに、自分の中の何かが少しずつ崩れていく気がして、かなえは視線を逸らしたかった。逸らせなかった。
玲央が顔を上げた瞬間には、もう"平気"が戻っていた。けれど目の縁が、心なしか薄く赤い。
かなえはそこから視線を外して、先に口を開いた。
かなえは視線を逸らさず、釘だけ刺した。
「その代わり、"勝手に"はもうしないでください」
玲央の目が、いっそ痛いほど揺れた。
揺れて、でも逃げない。逃げないまま、ゆっくり頷く。
「……うん。しない。約束する」
約束、という単語が、会議室の空気を少しだけ変えた。
お願いと拒否の会話が、交換条件みたいに見えてしまう。
——契約みたいに。
かなえはそれが嫌で、嫌なのに、嫌だと言うほどの余裕はなくて、話を仕事に戻した。
「……で、先方の返し、どこですか」
玲央もすぐに"仕事の玲央"に戻った。
切り替えが早い。早すぎるのが、逆に苦しい。
必要な確認だけを終わらせる。
終わったら、会議室はただの会議室に戻る。
* * *
会議室を出る前、玲央がぽつりと落とした。
「……今日は、迎えには行かないから」
かなえは答えなかった。
答えたら、許したみたいになるのが怖い。
ドアを開ける。
外の空気が戻る。
玲央は少し遅れて出て、距離を空けたまま歩いた。
それが"正しい距離"のはずなのに、脇腹のあたりに空白ができたみたいで落ち着かない。
(これでいい)
(これで、元に戻れる)
元、って何だろう。
かなえは自席に戻って、画面に視線を落とした。
数字と文字を追いながら、胸の奥だけがずっとざらついていた。
(……怖いのは、追われることじゃないのかもしれない)
自分の小さな乱れに気づく人がいなくなるのが怖い。
でも、その"気づく"が、いつの間にか刃になるのも怖い。
矛盾が、喉の奥に引っかかったまま取れない。
* * *
同じ昼過ぎ。
玲央はフロアの端、誰もいない小さな給湯スペースに入って、カップを取るふりをした。
何も淹れない。淹れられない。手が落ち着かない。
胸の奥が、ずっと騒がしい。
昨夜、点が消えたときの感覚がまだ残っている。
画面の上で消えただけなのに、喉が渇いて、耳の奥がきんとして、視界が一段暗くなった。
(……切った)
(切れるんだ、あれ)
当たり前だ。切れる。切られる。
たった一回、勝手に踏み込んだだけで、こうして"戻れない線"が引かれる。
分かってたはずなのに、分かってたはずだからこそ、腹の奥が濁る。
(余裕が戻れば——)
玲央はそこで、言葉を飲み込んだ。
続けると、もう言い訳にならない。
でも、頭の中では勝手に続く。
(……きっと金曜日が戻ってくる)
(戻ってこいよ)
(戻ってこい、って、俺が思ってるのがもう終わってる)
自分で自分が気持ち悪い。
気持ち悪いのに、止められない。
会議室で「しない」と言った。
約束した。
ちゃんと頷いた。
正しい顔で。
なのに胸の奥では、"しない"の代わりを探している。
偶然、同じ動線。
業務、5分だけ。
資料、確認、差分。
そうやって近くにいる理由を積む。積んで、積んで、積んで――
(それなら、勝手じゃない)
(勝手じゃない、はず)
玲央はカップの縁を指でなぞった。
冷たい陶器が、妙に現実的で腹が立つ。
そして、思ってしまう。
金曜の夜。
玄関の前で、鍵が回る音。
あの音を、玲央はまだはっきり覚えている。
自分の鍵じゃない音。少し軽い金属音。回して、止まって、もう一回回して、開く。
——あの音が、もう鳴らないかもしれない。
それだけで喉が詰まる。
(やだ)
(それだけは、やだ)
恋人って呼ぶのは苦手なくせに。
関係性の名前をつけるのは怖いくせに。
音だけは、戻ってくる前提で覚えてしまっている。
玲央は息を殺して笑いそうになって、笑わなかった。
笑ったら、終わりだ。
スマホに手を伸ばして、止めた。
見ない。今日は見ない。
見たら、また"勝手"になる。
その代わり、玲央は頭の中で予定表を叩いた。
会議、段取り、負担軽減。
結城さんが回りやすい形。
困らない形。
頼らなくてもいい形――
(頼らなくてもいい形にしたら)
(俺の存在、薄くなるじゃん)
矛盾で、胸が痛い。
玲央はカップを持ったまま、結局何も淹れずにその場を出た。
フロアに戻ると、みんな仕事の顔をしている。
かなえも仕事の顔をしている。
目が合わない。
合わないのに、玲央の中だけがずっと騒がしい。
(……戻ってこい)
(戻ってこいって、言えない)
(言えないから、正しいふりをする)
正しいふりをしながら、玲央は今日も、金曜の鍵の音を頭の中で反芻する。
まだ鳴っているみたいに。
鳴っていてほしいみたいに。
そして、鳴らない未来を想像するたびに、胸の奥が静かに地獄へ沈んでいった。




