その人が
ベルの音が、静かな店内に響いた。
円香は動けなかった。
入口に直樹が立っている。
帰ったはずの直樹が、そこにいる。
「……直樹?」
直樹は何も答えなかった。
円香を見る。
それから、テーブルに並んだ二つのカップを見る。
片方は円香の前にあり、もう片方は、いつも直樹が座っていた席に置かれている。
「なんで……」
声が震えた。
「なんでいるの」
直樹はようやく、手に持っていたものを見せた。
「鍵を、返し忘れていました」
「鍵?」
「裏口の予備です。持って帰るわけにはいかないので、戻ってきました」
「……そっか」
「はい」
それだけの会話なのに、息が苦しい。
聞かれただろうか。
どこから。
何を。
円香は目元を拭った。今さら泣いていたことを隠せるわけもないのに、顔を見られたくなかった。
「……聞いた?」
直樹は答えない。
「直樹」
「はい」
「どこから聞いてた?」
少しの沈黙のあと、直樹が言った。
「『直樹がいい』と」
円香は両手で顔を覆った。
「最初からじゃん……」
「すみません」
「なんで謝るの」
「聞くつもりではなかったので」
「もういい……」
消えたい。
今すぐ店の床に穴が開いて、そのまま落ちてしまいたい。
「忘れて」
「できません」
即答だった。
円香は顔を上げた。
「お願いだから忘れて」
「無理です」
「直樹」
「無理ですよ」
いつもの穏やかな声なのに、今日は引いてくれなかった。
「僕の名前を呼んで泣いているのを聞いて、それをなかったことにはできません」
「……でも」
「どうして泣いていたんですか」
答えられない。
もう全部聞かれているのに、それでも本人を前にすると言えなかった。
「円香」
「……やめて」
「やめません」
「お願い」
「嫌です」
そんなふうに言われたのは初めてだった。
円香は唇を噛んだ。
「だって……困るでしょ」
「何がですか」
「好きでもない女に、あんなこと言われたら」
直樹の眉が動いた。
「……何を言っているんですか」
「だから、気持ち悪いよねって」
「やめてください」
低い声だった。
円香が顔を上げると、直樹は怒っているように見えた。
「自分のことを、そんなふうに言わないでください」
「でも」
「僕が嫌なんです」
円香は黙った。
直樹が一歩近づく。
「円香が自分のことを気持ち悪いなんて言うのを、聞きたくありません」
「……優しくしないでよ」
「優しくしているつもりでは」
「してるよ」
涙がまた溢れた。
「そういうところが好きなの」
直樹が止まった。
「だから優しくしないで。もっと好きになるから」
「円香」
「直樹が好きなの」
声が震える。
それでも今度は、ちゃんと直樹を見た。
「大好きなの」
言ってしまった。
本人に。
「でも、直樹は別の人が好きなんでしょ」
直樹の表情が止まった。
「……何ですか?」
「だから、好きな人いるって言ったじゃん」
「言いました」
「レモンによく来る人で、少し前まで別の人と付き合おうとしてたって」
「はい」
「だから私じゃないでしょ」
直樹は何も言わなかった。
円香はその沈黙が答えだと思った。
「分かってるよ。私が勝手に好きになっただけだから」
「待ってください」
「直樹は何も悪くないし、その人のこと好きでいていいし」
「円香」
「私も応援するって言ったし、本当にそうしなきゃって思って――」
「円香」
少し強い声で呼ばれ、円香は口を閉じた。
直樹が、信じられないものを見るような顔をしている。
「何か、勘違いしていませんか」
「……何を」
「僕の好きな人です」
「だから、レモンに来る人でしょ」
「はい」
「よく来る」
「はい」
「少し前まで、ほかの人と付き合おうとしてた」
「そうです」
「じゃあ――」
「その人が、円香なんです」
何を言われたのか、すぐには分からなかった。
「……え?」
直樹は円香を見ていた。
逃げるような目ではなかった。
「僕が好きなのは、円香です」
「……え?」
「レモンによく来る、というより、毎日いる人です」
「ちょっと待って」
「少し前まで別の方と付き合おうとしていたというのは、高瀬さんのことです」
「待って」
「僕をそういう目で見ているとは思えないと言ったのも、円香のことです」
「待ってって」
「はい」
直樹がようやく黙った。
円香は何度か瞬きをした。
「……私?」
「はい」
「直樹の好きな人?」
「はい」
「私?」
「そうです」
「いつから?」
「はっきり気づいたのは、少し前です」
「少し前っていつ」
「僕が休みの日に、円香が間違えてカップを二つ出したと聞いたころです」
「……あれ?」
「はい」
「そんな前から?」
「僕にとっては、そんな前でもありませんが」
円香は直樹を見た。
頭が追いつかない。
「じゃあ、あの女の人は?」
「どの方ですか?」
「お菓子くれた人」
「お客様です」
「好きじゃないの?」
「好きではありません」
「じゃあ誰」
「円香です」
「…………」
「何度聞くんですか」
「だって分かんない」
「何がですか」
「直樹、私が高瀬さんとご飯行くとき、いいと思いますよって言ったじゃん」
「言いました」
「付き合おうかなって相談したときも、付き合ってみてもいいんじゃないですかって」
「言いました」
「なんで?」
直樹は少し黙った。
その顔が初めて、苦しそうに歪んだ。
「ほかに、何と言えばよかったんですか」
円香は息を止めた。
「円香は高瀬さんと食事に行くと言った。僕に、この人どう思う、と聞いた。付き合うか迷っていると相談した」
「うん」
「そこで僕が、行かないでくださいと言えばよかったんですか」
「……それは」
「僕があなたを好きだから、高瀬さんとは付き合わないでくださいと?」
何も言えなかった。
「そんなこと、言えるわけがないでしょう」
直樹の声は静かだった。
けれど、円香が今まで聞いたことのない声だった。
「円香が高瀬さんを好きなら、僕が言ったことで迷わせたくなかった。僕の気持ちを知ったせいで、円香が選びたい人を選べなくなるのも嫌だった」
「でも……」
「円香が幸せなら、それでいいと思いました」
直樹が少し笑った。
寂しい笑い方だった。
「僕が苦しいだけなら、それでいいと思ったんです」
円香の胸が痛んだ。
「……苦しかったの?」
「当たり前でしょう」
「だって、全然そんなふうに見えなかった」
「見せないようにしていましたから」
「私、直樹がいい人だって言ったから高瀬さんとご飯行ったんだよ」
「知っています」
「二回目も」
「はい」
「付き合ってみようかなって思ったのも、直樹がそう言ったから」
「……はい」
「馬鹿じゃん」
「そうですね」
「直樹がだよ」
「分かっています」
「私もだよ」
涙がまた落ちた。
「知ってたら行かなかった」
直樹が黙る。
「直樹が私のこと好きだって知ってたら、高瀬さんと二回目なんて行かなかった」
「円香」
「だって私も直樹が好きだったんだもん」
「そのころは、まだ気づいていなかったでしょう」
「気づいてなかっただけ」
円香は目元を拭った。
「高瀬さんと付き合おうとしたら直樹の顔が浮かんだ。休みの日は会いたかったし、女の人と話してるの嫌だったし、夜中に用もないのに連絡したし」
「……はい」
「ずっと直樹だったのに、私が気づいてなかっただけ」
直樹が何も言わなくなった。
「何」
「いえ」
「言って」
「……嬉しいです」
その一言で、円香はまた泣いた。
「もう泣きたくないのに」
「すみません」
「なんで直樹が謝るの」
「分かりません」
「何それ」
泣きながら笑った。
直樹も少し笑った。
ようやく、いつもの直樹の顔が戻った気がした。
直樹が手を上げた。
大きな手だった。
円香の頬へ伸びる。
けれど、触れる直前で止まった。
「……何?」
「いえ」
直樹は手を下ろそうとした。
円香はその手首を掴んだ。
「なんでやめるの」
「前に避けられたので」
「え?」
「額に触れようとしたときです」
円香は思い出した。
好きだと自覚した翌朝。
熱があるのかと直樹が手を伸ばして、自分は反射的に一歩下がった。
「あれは違う」
「違う?」
「嫌だったんじゃない」
「では、なぜ」
「好きだって気づいたばっかりだったから」
直樹が黙る。
「前の日に、私、直樹のこと好きだって気づいたの」
「……はい」
「それで次の日、いきなり直樹の手が顔に来たから」
「はい」
「無理だった」
「嫌だったのでは?」
「逆!」
円香は思わず声を上げた。
「好きだから無理だったの!」
直樹が目を見開く。
「触られたらどうしていいか分かんなかったの。前の日から直樹の手ばっかり見てたし」
「僕の手?」
「そこはいいの!」
「気になります」
「今はいい!」
「……分かりました」
円香はまだ掴んでいた直樹の手を見る。
大きい。
指が長くて、節が目立つ、ごつごつした手。
ずっと見ていた手だった。
円香はその手を、自分の頬へ持っていった。
直樹の息が止まる。
手のひらが、涙で濡れた頬に触れた。
温かかった。
「……円香」
「来てよ」
「え?」
「もっと早く来てよ」
円香は直樹の手に頬を寄せた。
「ずっと待ってたのに」
「僕も待っていました」
「知らないよ」
「僕も知りませんでした」
「言ってよ」
「円香も言ってください」
「今言ったじゃん」
「僕も今から言います」
直樹が円香の頬を包む。
今度は、途中で止まらなかった。
「円香が好きです。ずっと好きでした」
「……うん」
「高瀬さんと食事に行ってほしくなかったし、付き合ってほしくなかった。僕以外の人を好きになってほしくないと思っていました」
「……うん」
直樹の親指が、円香の涙を拭った。
「円香がいいです。あなたがいいんです」
「……直樹」
「はい」
「直樹」
「はい」
もう一度呼ぶ。
「直樹」
「はい」
ちゃんと返ってくる。
一人で泣いていたときには、何度呼んでも返ってこなかった声が、今はすぐ目の前から返ってくる。
円香は直樹のシャツを掴んだ。
「もう一回言って」
「何をですか」
「好きって」
「円香が好きです」
「もう一回」
「好きです」
「もう一回」
「何度でも言いますよ」
直樹が笑った。
「円香が好きです」
円香は顔を伏せた。
「……私も。直樹が好き。大好き」
「……はい」
今度は、直樹の声が少し震えた。
次の瞬間、円香の体が引き寄せられた。
直樹の腕の中だった。
思っていたよりずっと強い力で抱きしめられて、円香は一瞬息を詰めた。
「直樹」
「すみません」
「なんで謝るの」
「抱きしめたかったので」
「じゃあ謝らないでよ」
「……はい」
「もっと」
直樹の腕に力が入る。
円香も直樹の背中へ腕を回した。
ずっと近くにいた。
毎日のように同じ店に立っていたし、何度も手が触れ、二人で何杯も紅茶を飲んだ。
それなのに、こんなふうに触れたのは初めてだった。
「直樹」
「はい」
「私たち、馬鹿だね」
「かなり」
「直樹もね」
「円香もです」
「私はちょっとだけ」
「かなりです」
「うるさい」
直樹の胸元で笑う。
笑ったら、また少し泣けた。
どれくらいそうしていたのか分からない。
先に離れたのは円香だった。
そこでようやく、直樹がテーブルの上のカップに目を向けた。
「……これ」
「何?」
「僕の分ですか?」
円香は直樹の席に置いたカップを見る。
さっきまで湯気を立てていたレモンブレンドは、もうすっかり冷めていた。
「……うん」
「僕はいなかったのに?」
「一週間ずっと一個だったから」
円香は少し恥ずかしくなって目を逸らした。
「今日は二個にしたかったの。一人で飲むの、もう嫌だったから」
直樹はしばらく何も言わなかった。
「何」
「嬉しいです」
「でも、もう冷めてるよ」
「そうですね」
「淹れ直そっか」
円香がカップへ手を伸ばす。
けれど直樹は、その前に自分のカップを取った。
「え、直樹」
「いただきます」
「待って。冷めてるって」
直樹はそのまま一口飲んだ。
「……直樹」
「はい」
「美味しくないでしょ」
「冷めていますね」
「だから言ったじゃん」
「でも、飲みたいんです」
直樹はカップを両手で持ったまま、円香を見る。
「円香が僕のために淹れてくれた紅茶でしょう」
「そうだけど」
「僕がいないのに、僕の分まで」
「……うん」
「だったら、これは僕が飲みます」
円香は何も言えなくなった。
直樹はもう一口飲む。
「泣きながら淹れたやつだよ」
「それでも」
「冷めてるし」
「はい」
「美味しく飲んでほしかったのに」
「十分ですよ」
「何が」
「僕の分があったので」
また泣きそうになった。
「……ずるい」
「何がですか」
「そういうこと言うの」
「本当のことです」
円香も自分のカップを持った。
こちらも、もう温かくはなかった。
「じゃあ私も飲む」
「無理しなくても」
「直樹だけ飲むのずるい」
「では、一緒に」
二人で冷めたレモンブレンドを飲んだ。
淹れたてのときより香りは弱く、円香がいつも客に出す紅茶とは比べものにならない。
「……やっぱり美味しくない」
「店長が言ってはいけないのでは?」
「閉店してるから今は店長じゃないもん」
「そうでした」
「円香だから言うけど、美味しくない」
直樹が笑った。
「では、飲み終わったら美味しいものを淹れましょう」
「もう一杯?」
「今度は、最初から二人で」
円香はカップの向こうにいる直樹を見る。
「……うん」
今度はちゃんと笑えた。
二人で冷めた紅茶を最後まで飲んだ。
空になった二つのカップを円香が流しへ運び、直樹が新しい湯を沸かす。
「私が淹れるよ」
「僕もやります」
「二人で淹れるの?」
「駄目ですか?」
「変なの」
「では、円香が茶葉を」
「直樹、ポット温めて」
「はい」
何度もやってきたことだった。
円香が茶葉を量り、直樹がポットを温める。
いつものレモンブレンド。
いつもの閉店後。
それなのに、何もかもが昨日までとは違って見えた。
「直樹」
「はい」
「十五秒、短くする?」
直樹が笑う。
「今日は、そのままでいいと思います」
「そっか」
「はい」
今度は淹れたての紅茶を、それぞれのカップへ注いだ。
二人でいつもの席につく。
円香の前に一つ。
直樹の前に一つ。
同じように湯気が上がっている。
「ねえ、直樹」
「はい」
「明日になっても好き?」
「明日どころか、今日中に変わる予定もありませんよ」
「そういう意味じゃなくて」
「分かっています」
「じゃあちゃんと答えて」
直樹はカップを置いた。
「明日も好きです」
「明後日は?」
「好きです」
「来週は?」
「好きです」
「来年は?」
「円香」
「何?」
「どこまで聞くつもりですか」
「安心するまで」
直樹が少し黙った。
それから、テーブルの上に手を出した。
円香はその大きな手を見る。
「では、安心するまで言います」
円香はその手に自分の手を重ねた。
「うん」
大きな指が円香の指の間に入り、ゆっくり絡む。
もう、どちらも手を引かなかった。
テーブルには、二つのカップが並んでいた。
一度冷めてしまった二人分も、ちゃんと二人で飲んだ。
そして今、その場所には新しく淹れた紅茶がある。
円香が一人で用意した二つではなく、二人で淹れた、二人分だった。




