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私がいい

 閉店後に二人で紅茶を飲まなくなって、一週間が経った。


 きっかけらしいきっかけはない。


 円香が一度「今日はもう上がっていいよ」と言い、直樹が「分かりました」と帰った。


 次の日も、その次の日も、どちらからも「飲もう」と言わなかった。


 それだけだった。



 仕事中は、何も変わらない。


「店長、二番お願いします」


「はい」


「橋本さん、アッサムおかわりです」


「また?」


「聞こえてるよ、円香ちゃん」


「聞こえるように言ったの」


「ひどくない?」


「二杯目飲むんでしょ?」


「飲むけど」


「じゃあ待ってて」


「はいはい」


 橋本が笑い、カウンターの向こうで直樹も少し笑う。


 円香はいつも通り紅茶を淹れた。


 直樹もいつも通り働いている。


 朝は「おはようございます、店長」と言うし、円香が休憩を取らなければ「休んでください」と言う。


 重いものを持とうとすれば、何も言わずに代わる。


 何も変わっていないように見える。


 変わったのは、店を閉めたあとだけだった。



「じゃあ、お先に失礼します」


「うん。お疲れさま」


「お疲れさまでした」


 ベルが鳴る。


 直樹が帰る。


 円香は一人になった店で、カップを一つだけ出す。


 一人分の紅茶を淹れる。


 向かいの席には誰もいない。


 最初の二日くらいは、そのうち慣れると思っていた。


 一人で飲んでいた時期のほうが、ずっと長いのだから。


 けれど、一週間経っても慣れなかった。



「なんか二人、喧嘩した?」


 橋本に言われたのは、その日の午後だった。


「してないよ」


「ほんとに?」


「何で?」


「最近、直樹くん帰るの早くない?」


「仕事終わったら帰るの普通でしょ」


「まあ、そうだけど」


 橋本はアッサムを飲みながら、円香と直樹を交互に見た。


「前は閉店後も残ってたじゃん」


「橋本さん、なんで閉店後のこと知ってるの」


「円香ちゃんが前に言ってた」


「余計なこと覚えてるなあ」


「喧嘩じゃないならいいけど」


「してないって」


 円香は空いた皿を下げる。


「ただ……」


「ただ?」


「……つまんない」


「ん?」


「何でもない」


 橋本は聞き返したが、円香はそのままカウンターへ戻った。


 少し離れたところで、直樹がカップを拭いていた。


 聞こえていない。


 たぶん。



 夕方、あの女性客がまた来た。


 直樹に焼き菓子を渡した人だ。


「いらっしゃいませ」


 直樹が席へ案内する。


 女性はレモンブレンドを頼み、そのあと何か直樹に尋ねた。


 茶葉についてらしい。


 直樹が説明している。


 女性が笑う。


 直樹も笑う。


 円香は見ないようにした。


 あの人かもしれない。


 直樹の好きな人。


 よくレモンに来る。


 直樹とも話す。


 少し前まで誰かと付き合おうとしていたのかどうかは知らない。


 でも、条件には当てはまる。


「円香さん」


「何?」


「怖いです」


 隣に来た彩音が小声で言った。


「何が?」


「顔」


「普通だけど」


「全然普通じゃないです」


「彩音ちゃん、仕事しよ」


「してます」


 このやり取りも、もう何度目か分からない。



 女性客が帰ったあと、円香はカウンターを拭いていた。


「店長」


「ん?」


「そこ、さっき拭いていましたよ」


「知ってる」


「では、なぜもう一度」


「汚れてる気がしたから」


「そうですか」


「何」


「いえ」


 直樹は何も言わなかった。


 それがまた腹立たしい。


 好きな人なら追いかければいいのに。


 連絡先くらい聞けばいいのに。


 自分には関係ない。


 そう思ったら、胸が痛くなった。



 夜、閉店前にカップを片づけていたときだった。


 円香と直樹が同時に棚へ手を伸ばした。


 白いカップ。


 細い緑の線が入った、直樹が初めてレモンに来た日に使ったカップだった。


 二人の指が触れそうになる。


 円香が手を引いた。


 直樹も引いた。


「……どうぞ」


「直樹が取ろうとしてたんでしょ」


「いえ、店長が」


「別の取るからいいよ」


「僕も別ので構いません」


「じゃあ私が取る」


「どうぞ」


 円香がカップを取る。


 変な会話だった。


 前なら、こんなことでお互いに手を引かなかった。


 触れたって、「ごめん」で終わっていた。


 好きだと気づく前のほうが、ずっと近かった。


 円香は白いカップを棚へ戻した。


 使う気になれなかった。



 閉店時間になった。


 最後の客が帰り、直樹が看板をしまう。


 レジを締める。


 テーブルを拭く。


 いつもの作業が終わっていく。


 円香は何度も口を開きかけた。


 今日、飲んでく?


 たったそれだけなのに言えない。


 直樹には好きな人がいる。


 その人と連絡を取っているかもしれない。


 会う約束をしているかもしれない。


 自分が毎晩引き止めるのはよくない。


「では、お先に失礼します」


 直樹がエプロンを外した。


「……うん」


「お疲れさまでした」


「お疲れさま」


 言わなければ。


 今ならまだ間に合う。


「直樹」


 直樹が振り返った。


「はい」


「…………」


 飲んでいかない?


 喉まで出た。


「……明日、十時からだから」


 一瞬だけ、直樹の表情が止まった。


「はい。分かっています」


「遅れないでね」


「遅れませんよ」


「だよね」


「では、また明日」


「うん」


 ベルが鳴った。


 直樹が出ていく。


 円香は扉を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「何やってんだろ」



 直樹も、店を出てすぐには歩き出せなかった。


 扉の向こうには円香がいる。


 今までなら、ここからもう一時間くらい一緒にいた。


 二人で紅茶を飲んで、くだらない話をしていた。


 戻りたい。


 今日は飲みませんかと、自分から言えばいい。


 でも、それでは距離を置くと決めた意味がない。


 円香は自分の恋を応援すると言った。


 自分を恋愛対象として見ていない。


 だったら、これ以上近づいて気持ちを隠し続けるより、少し離れたほうがいい。


 直樹は扉から離れた。



 一人になったレモンで、円香はいつもの棚を開けた。


 カップを一つ取る。


 それで閉めようとした。


 できなかった。


 棚の中を見る。


 白いカップ。


 細い緑の線。


 初めて直樹がレモンに来た日に使ったもの。


 円香はそれも取り出した。


「……何してんの」


 テーブルに、二つ置いた。


 一週間ぶりだった。


 二人分のレモンブレンドを淹れる。


 片方を自分の前に置き、もう片方を向かいの席へ置いた。


 直樹はいない。


 分かっている。


 それでも、二つにしたかった。



 円香は自分のカップを持った。


 飲んでも、味がしない。


 向かいのカップから湯気が上がっている。


「直樹」


 呼んでみる。


 返事はない。


 当たり前だ。


 いつもなら、


『はい』


 と返ってくる。


「直樹」


 もう一度呼ぶ。


 何も返ってこない。


 胸が苦しくなった。


「……やだ」


 涙が落ちた。


 円香は慌てて拭った。


 泣くつもりなんてなかった。


 直樹に好きな人がいるなら、仕方がないと思っていた。


 応援すると言った。


 好きな人には幸せでいてほしい。


 直樹が幸せなら、それでいい。


 何度もそう思おうとした。


「無理だよ……」


 また涙が落ちる。


「そんなの無理」


 向かいの席を見る。


「直樹がいい」


 声にしたら、もう止められなかった。


「ほかの人じゃ嫌……」


 高瀬に告白されたときも、直樹が浮かんだ。


 付き合おうとしたときも、直樹だった。


 夜中に声が聞きたくなったのも。


 休みの日に会いたくなったのも。


 あの大きな手に触れられたらと思ったのも。


 全部、直樹だった。


「私にしてよ……」


 円香は両手で顔を覆った。


「私を好きになってよ……」


 泣きながら言って、自分でも勝手だと思った。


 直樹には好きな人がいる。


 その気持ちを変えろなんて言えるはずがない。


 だから本人には絶対に言わない。


 ここには自分しかいない。


 今だけなら、何を言ってもいい。


「直樹が好き……」


 向かいの紅茶は、少しずつ冷めていった。



 そのころ、直樹はレモンへ戻ってきていた。


 駅へ向かう途中で、ポケットの中に鍵があることに気づいた。


 裏口の予備鍵。


 昼間、納品の確認で裏口を開けたあと、そのまま返し忘れていた。


 明日でもいいかと思ったが、店の鍵を持ち帰るわけにはいかない。


 まだ円香はいるだろう。


 直樹はレモンまで引き返した。


 店の前まで来る。


 照明がついている。


 入口へ手をかけようとして、中から声が聞こえた。


「……直樹がいい」


 手が止まった。


 聞き間違いかと思った。


 直樹は動けなかった。


「ほかの人じゃ嫌……」


 円香の声だった。


 泣いている。


 何を言っているのか、理解が追いつかなかった。


「私にしてよ……」


 心臓が大きく鳴った。


「私を好きになってよ……」


 直樹は扉の前に立ったまま、息をすることさえ忘れた。


 円香が泣いている。


 自分の名前を呼んでいる。


 自分を好きになってほしいと言っている。


 それでも、まだ信じられなかった。


 自分に都合よく聞き違えているのではないかと思った。


「直樹が好き……」


 今度は、はっきり聞こえた。


 直樹は目を閉じた。


 もう聞き間違えようがなかった。


 手の中には、返しに来た鍵がある。


 扉一枚向こうで、円香が泣いている。


 直樹はドアノブに手をかけた。


 ベルが鳴った。



 円香が顔を上げる。


 涙で濡れた目が、大きく見開かれた。


「……直樹?」


 直樹は何も言えなかった。


 テーブルを見る。


 二つのカップが並んでいる。


 一つは円香の前。


 もう一つは、いつも自分が座っていた席。


 そのカップからは、もうほとんど湯気が立っていなかった。

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