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好きな人

 好きだと気づいてしまった翌日から、円香は直樹の顔をまともに見られなくなった。


 正確には、見られないわけではない。仕事中は普通に話せるし、注文も頼める。直樹が淹れた紅茶を確認して、違うと思えばちゃんと指摘もできる。


 ただ、ふとした瞬間に意識してしまう。


「店長、これお願いします」


「うん」


 差し出されたカップを受け取るとき、手を見てしまう。


「二番、レモンブレンドです」


「はい」


 横を通り過ぎれば、肩幅が気になる。


「店長?」


「何?」


「そこ、通ってもいいですか?」


「あ、ごめん」


 狭いカウンターの中で直樹がすぐ後ろを通るだけで、妙に落ち着かない。


 今までどうして平気だったのか分からなかった。



 何より困ったのは、閉店後だった。


 仕事中なら店長と従業員でいられる。


 けれど看板をしまい、照明を少し落として二人でテーブルにつけば、直樹は円香を「店長」と呼ばなくなる。


「円香」


「……何?」


「聞いていました?」


「聞いてたよ」


「では、僕が今何を言ったか答えてください」


「…………」


「聞いていませんでしたね」


「ごめん」


 向かいに座った直樹が小さく笑う。


 その顔を見ているだけで、好きなんだと思う。


 名前を呼ばれるだけで嬉しくて、同時に苦しい。


 今までずっと二人でこうしていたのに、自分だけが突然違う場所へ来てしまったようだった。



 数日経っても、それには慣れなかった。


 むしろ悪化した。


 午後、以前直樹に焼き菓子を渡した女性客がまた来店した。


「いらっしゃいませ」


 直樹が応対する。


 女性は笑顔で何かを話し、直樹もいつもの穏やかな調子で答えている。


 円香はカウンターの中からその様子を見ていた。


「円香さん」


「ん?」


「見すぎです」


 隣でグラスを拭いていた彩音が、小声で言った。


「見てないよ」


「見てます」


「お客さん見てるだけ」


「直樹さんを?」


「違うって」


「じゃあ、あのお客さん?」


「……彩音ちゃん、仕事しようか」


「してますよ」


 彩音は楽しそうだった。


 円香はトレーを持って、逃げるようにテーブルへ向かった。



 女性客が帰ったあと、円香は直樹のところへ行った。


「さっきの人」


「はい」


「よく来るね」


「そうですね」


「直樹目当てだったりして」


 冗談のつもりだった。


 直樹は少し考えてから、首を傾げる。


「どうでしょう」


「否定しないんだ」


「僕には分かりませんから」


「ふうん」


「何ですか?」


「別に」


 面白くない。


 そう思った瞬間、もっと面白くなくなった。


 直樹が好きだと気づく前なら、こんなことを考えなかった。


 好きになるというのは、ずいぶん面倒くさい。



 その日の閉店後、円香は聞こうとした。


 二つのカップをテーブルに置き、向かいに座る。


「ねえ、直樹」


「はい」


「直樹ってさ」


「はい」


「…………」


「何ですか?」


「アッサムとダージリン、どっちが好き?」


 直樹が数秒黙った。


「急ですね」


「なんとなく」


「どちらも好きですよ」


「そっか」


 聞けなかった。


 好きな人、いる?


 たったそれだけなのに、口から出なかった。



 翌日も聞こうとした。


「直樹」


「はい」


「彼女って」


 そこまで言って止まる。


 直樹がこちらを見る。


「彼女?」


「……前にいた?」


「いましたよ」


「そ、そうなんだ」


「ずいぶん前ですが」


「へえ」


 円香は急に知りたくないことまで想像しそうになった。


「何ですか?」


「何でもない」


 逃げた。



 その次の日も。


「直樹ってさ」


「はい」


「好きな……」


「好きな?」


「紅茶、何?」


「またですか?」


「いや、ほら、前聞いたときどっちもって言ったから」


「一つ選ばないと駄目ですか?」


「もういい」


「何なんですか」


 自分でもそう思う。



 三日目の夜。


 閉店後の店で、円香はようやく腹を決めた。


 いつもの二つのカップが並んでいる。


 直樹が紅茶を飲んでいる。


 円香は自分のカップを両手で持った。


「直樹」


「はい」


「聞いていい?」


「どうぞ」


「……好きな人いる?」


 言えた。


 心臓がうるさい。


 直樹の手が止まった。


 ほんの少しだけ目を伏せ、それから円香を見る。


「いますよ」


 円香は笑おうとした。


「……そっか」


 思っていたより、声は普通に出た。


 いる。


 直樹には、好きな人がいる。


 聞かなければよかった。


「急にどうしたんですか?」


「なんとなく」


「また、なんとなくですか」


「そう」


 円香は紅茶を飲む。


 味がよく分からなかった。


 ここで終わればよかった。


 けれど、一度聞いてしまうと止まれなかった。


「私、知ってる人?」


 直樹が少し黙る。


「知っていると思います」


 胸が沈んだ。


「レモンに来る?」


「来ますね」


「よく?」


「……まあ、よく」


 やっぱり。


 あの女性客かもしれない。


 ほかにも直樹とよく話す客はいる。


 円香は頭の中で、レモンに来る女性たちの顔を思い浮かべた。


 直樹が誰を見ていたのか、考えたこともなかった。


「その人に言わないの?」


「何をですか?」


「好きって」


「言いませんよ」


「なんで?」


 直樹はカップへ視線を落とした。


「その人は少し前まで、別の方と付き合おうとしていましたから」


 円香は息を止めた。


「……そうなんだ」


「はい」


「じゃあ、彼氏いるの?」


「いえ。結局、付き合わなかったようです」


「何それ」


 胸が痛かった。


 誰なんだろう。


 少し前まで別の男と付き合おうとしていた、レモンによく来る女の人。


 直樹はその人のことを、いつから好きだったのだろう。


「じゃあ今はフリーなんでしょ?」


「そうですね」


「だったら言えばいいじゃん」


「簡単に言いますね」


「だって、好きなんでしょ?」


「好きですよ」


 その言葉だけで、泣きそうになった。


 自分に向けられた言葉ではない。


 分かっている。


 それでも直樹の口から「好き」と聞くのは、思っていたよりずっと苦しかった。


「じゃあ言えばいいのに」


「言って困らせたくありません」


「困るかどうかなんて分かんないじゃん」


「分かりますよ」


「なんで?」


 直樹は少しだけ笑った。


「僕をそういう目で見ているとは思えませんので」


 円香は何も言えなくなった。


 直樹が好きな人。


 レモンによく来る。


 少し前まで、ほかの男と付き合おうとしていた。


 直樹のことを恋愛対象として見ていない。


 そんな人がいる。


 自分ではない。


 当たり前だ。


 直樹が自分を好きなら、こんなふうに相談されて平然としていられるわけがない。


 高瀬と食事に行くときも、「いいと思いますよ」と言ってくれた。


 付き合うか迷ったときだって、「付き合ってみてもいいのではないですか」と言った。


 あんなに自然に背中を押してくれたのだから、自分を好きなはずがない。


「でもさ」


 円香は無理に笑った。


「その人も、直樹のこと好きかもしれないじゃん」


「それはないと思います」


「なんで決めつけるの」


「そう見えないので」


「鈍いだけかもよ」


 直樹が一瞬、円香を見る。


「……そうでしょうか」


「そうだよ。本人に聞いてないんでしょ?」


「聞けませんよ」


「じゃあ分かんないじゃん」


「円香は、僕に告白させたいんですか?」


 冗談めいた声だった。


 円香は胸の奥が痛むのを無視して笑った。


「だって好きなんでしょ。応援するよ」


 言ってしまった。


 直樹の表情が、ほんの少しだけ変わった。


 けれど円香には、その意味が分からなかった。


「……ありがとうございます」


「うん」


「でも、今はいいです」


「そっか」


「はい」


 二人の間に沈黙が落ちる。


 いつもなら心地いいはずの静けさが、今日は苦しかった。



 その夜、円香は家に帰ってからベッドに横になった。


 眠れなかった。


 目を閉じると、直樹の声が聞こえる。


『いますよ』


『好きですよ』


 好きな人がいる。


 自分ではない。


「……そっか」


 もう一度口にすると、涙が出た。


 円香は慌てて目元を拭う。


「何泣いてんの」


 自分で自分に呆れた。


 好きになったのは自分だ。


 直樹は何も悪くない。


 むしろ、好きな人がいるのに高瀬とのことを何度も相談されて、それでもちゃんと話を聞いてくれた。


 自分はさっき、その恋を応援するとまで言った。


 だったら応援すればいい。


 直樹が好きな人とうまくいけば、それでいい。


 好きな人には幸せでいてほしい。


 そう思うべきなのに。


「……やだ」


 声が漏れた。


 円香は枕に顔を押しつけた。


「私がいい」


 涙がまた出てくる。


「私にしてよ……」


 子どもみたいだと思った。


 直樹が誰を好きになるかなんて、円香が決められることではない。


 それでも嫌だった。


「直樹が好き……」


 誰にも聞かれない部屋で、初めて声に出した。


 好きだと気づいたときより、ずっとはっきりした。


 直樹が好きだった。


 自分を見てほしかった。


 ほかの誰かではなく、自分を好きになってほしかった。



 同じころ。


 直樹も眠れずにいた。


 円香の言葉が頭から離れない。


『応援するよ』


 あれほど分かりやすい答えもない。


 もし少しでも自分に気持ちがあるのなら、好きな人がいると聞いて、あんなことは言わないだろう。


 少なくとも直樹には言えない。


 円香が高瀬と食事に行くと聞いただけで、あれほど苦しかった。


 それなのに円香は、自分の恋を応援すると言った。


「……そうですよね」


 期待した自分が馬鹿だった。


 高瀬を断ったと聞いたとき。


『付き合うって考えたら、直樹の顔が浮かんだ』


 あの言葉に、少しだけ期待した。


 もしかしたら自分にも可能性があるのではないかと。


 けれど違った。


 円香にとって自分は、恋愛の相談ができるくらい近い相手でしかない。


 店長と従業員。


 閉店後に二人で紅茶を飲む相手。


 大切に思ってもらえているとは思う。


 でも、それと恋愛は違う。


 直樹は目を閉じた。


 明日から少し距離を置こうと思った。


 円香が好きなことは変わらない。


 それでも、このまま期待し続けるのは苦しい。


 何より、自分の気持ちを円香に背負わせたくなかった。



 翌朝。


「おはようございます、店長」


「……おはよ」


 直樹はいつも通りだった。


 円香も、いつも通りにしようとした。


「昨日、寝た?」


「はい。円香……店長は?」


「寝たよ」


「そうですか」


 嘘だった。


 円香の目は少し腫れていた。


 直樹は気づいていたが、何も聞かなかった。


 円香も、直樹が少しよそよそしいことに気づいた。


 けれど理由は分かっているつもりだった。


 好きな人がいる。


 自分ではない誰かを見ている。


 だったら、自分がいつまでも閉店後まで直樹を引き止めるのはよくない。


 その人と連絡を取ったり、会ったりする時間だって必要なのかもしれない。



 その日の閉店間際。


 最後の客を見送って、直樹が看板をしまう。


 円香はいつもの棚を見た。


 そこには、二人がよく使うカップが並んでいる。


「直樹」


「はい」


「今日……」


 紅茶飲んでく?


 いつもなら、そう続ける。


 けれど円香は言葉を変えた。


「今日、もう上がっていいよ」


 直樹が少しだけ黙った。


「分かりました」


「うん。お疲れさま」


「お疲れさまでした」


 直樹はエプロンを外した。


 円香は見ないふりをして、カウンターを拭く。


「では、また明日」


「うん。また明日」


 扉のベルが鳴った。


 直樹が出ていく。


 音が消えてから、円香は顔を上げた。


 静かだった。


 いつもの棚を開ける。


 手を伸ばして、カップを一つ取った。


 もう一つには触れなかった。


 一人分の紅茶を淹れる。


 いつものテーブルに座る。


 向かいの席には、誰もいない。


 少し前まで、二つあるのが当たり前だった。


 どちらかが休みの日だけ一つになって、次の日にはまた二つに戻った。


 けれど今日は、二人とも店にいた。


 それなのに、一つだった。


 円香はカップを両手で包んだ。


 好きだと気づいたばかりなのに、気づく前より遠くなった気がした。


 二つだったものが、一つになった。

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