やばいかも
高瀬からの誘いを断った翌日も、その次の日も、レモンはいつも通りだった。
直樹は仕事中なら「店長」と呼び、閉店後になれば「円香」と呼ぶ。円香も直樹を呼び捨てにして、二人で紅茶を飲む。
何も変わっていない。
高瀬と付き合うことを考えたとき、なぜ直樹の顔が浮かんだのか。その答えも、円香は深く考えないことにした。
毎日のように一緒にいるからだろう。
レモンで一番長い時間を一緒に過ごしている相手だから、頭に浮かんだだけ。
そういうことにしていた。
「店長、これお願いします」
「はい」
午後二時過ぎ。
直樹からカップを受け取ろうとして、指が触れた。
「あ、ごめん」
「いえ」
それだけだった。
直樹は次の注文票へ目を落とし、円香もカップを受け取る。
何度もあったことだ。
狭いカウンターの中で一緒に働いていれば、肩が触れることも、手が触れることもある。
だから、気にするようなことではない。
円香はカップをトレーに置いた。
置いてから、直樹の手を見た。
大きい。
今さらだった。
初めて店に来た日から知っている。白いカップを持ったときにも、大きな手だと思った。
指が長くて、節が目立つ。男の人らしい、ごつごつした手。
「店長?」
「ん?」
「それ、二番ですよ」
「あ、そうだった」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫」
慌ててトレーを持つ。
直樹の横を通り過ぎてから、円香は小さく眉を寄せた。
何を見ていたんだろう。
それから、妙に目につくようになった。
ポットを持つ手。
カップを棚へ戻す手。
茶葉を量る手。
シャツの袖を捲ったときに見える腕。
今までだって毎日見ていたはずなのに、一度気になり始めると、どうしても目が行く。
「円香さん」
「え?」
休憩中、彩音に呼ばれて顔を上げた。
「何?」
「いや、こっちが何? なんですけど」
「何が?」
「さっきから何見てるんですか?」
「別に」
「直樹さん?」
「違うよ」
答えるのが早すぎた。
彩音がにやっとする。
「私、まだ直樹さんって言ってないですよ」
「言ったじゃん」
「今言いましたけど、その前は言ってません」
「……うるさいなあ」
「何見てたんですか?」
「だから何も見てないって」
円香は手元の紅茶を飲んだ。
向こうでは直樹が棚のカップを並べ直している。
また手を見そうになって、慌てて彩音を見る。
「ほら」
「何が」
「やっぱり見てる」
「見てない」
「見てました」
「彩音ちゃん、休憩終わり」
「まだ七分あります」
「細かい!」
「店長が十五秒にこだわる店ですから」
「直樹みたいなこと言わないで」
彩音が声を立てて笑った。
その日の閉店後。
いつものテーブルに二つのカップを置いて、円香は向かいに座る直樹を見た。
「今日、彩音ちゃんに変なこと言われた」
「何ですか?」
「私が直樹のこと見てたって」
直樹の手がわずかに止まる。
「……見ていたんですか?」
「見てないよ」
「では、いいのでは」
「でも、ちょっとは見てたかも」
「どちらですか」
「手」
「手?」
「うん」
円香はカップを持ったまま、直樹の右手を指した。
「直樹って、手でかいよね」
「今さらですか?」
「今さら」
直樹が自分の手を見る。
「普通では?」
「普通じゃないでしょ。でかいよ」
「円香の手が小さいのでは」
「普通だよ」
「僕も普通です」
「じゃあ比べてみる?」
言ってから、円香は自分の右手を上げた。
直樹が黙る。
「何?」
「本当にやるんですか?」
「手の大きさ比べるだけじゃん」
「……そうですね」
直樹も手を上げる。
手のひらを合わせる直前で、円香は少しだけ躊躇した。
さっき仕事中に指が触れたことを思い出したからだ。
「ほら」
それでも、そのまま合わせた。
「やっぱりでかい」
円香の指先より、直樹の指はずっと先まで伸びている。
「円香が小さいんですよ」
「だから普通だって」
「僕も普通です」
「絶対直樹がでかい」
言いながら、円香は二人の手を見た。
手のひらが触れている。
直樹の手は温かかった。
指が長い。
節がごつごつしている。
この手で。
そこまで考えた瞬間、なぜか自分の頬にその手が触れるところを想像した。
円香は勢いよく手を離した。
「……何ですか?」
「いや」
「円香?」
「何でもない」
カップを持つ。
紅茶を飲む。
熱い。
「熱っ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「今日はさっきから大丈夫ではなさそうですが」
「大丈夫だって」
直樹が不思議そうにこちらを見ている。
円香は目を合わせられなかった。
何を想像しているんだ。
手が頬に触れるところなんて。
意味が分からない。
その夜。
ベッドに入ってからも、なかなか眠れなかった。
スマートフォンを見る。
十一時四十八分。
いつもなら、もう直樹と連絡を取るような時間ではない。
用事もない。
それなのにメッセージ画面を開いた。
『起きてる?』
送る。
「……何やってんだろ」
送ってから後悔した。
けれど一分もしないうちに既読がついた。
『起きていますよ』
返事が来ただけで、少し嬉しい。
『明日何時だっけ』
『十時です』
『だよね』
そこで会話が終わった。
円香は画面を見た。
明日のシフトを作ったのは自分だ。
直樹が十時からなのは知っている。
何のために聞いたのか、自分でも分からない。
『どうしました?』
追加で届く。
『なんでもない』
『そうですか』
『うん』
また終わる。
円香はスマートフォンを置いた。
数秒して、また取る。
『直樹』
送ってしまった。
今度はすぐに返ってきた。
『はい』
それだけ。
たった二文字なのに、胸のあたりが妙に落ち着いた。
『おやすみ』
しばらくして。
『おやすみなさい、円香』
円香は画面を伏せた。
「……何これ」
顔が熱かった。
翌日の午後、若い女性客が一人でレモンに来た。
何度か見たことのある客だった。
会計を担当したのは直樹で、女性は財布をしまったあと、小さな紙袋を差し出した。
「これ、よかったら」
「僕にですか?」
「この前、紅茶のこと教えてもらったので。そのお礼です」
「そんな、気を遣わなくて大丈夫ですよ」
「本当にちょっとしたものなので」
「……では、ありがとうございます」
直樹が受け取る。
少し離れたところで、その様子を円香は見ていた。
「店長」
「ん?」
「三番、お願いします」
彩音に呼ばれて我に返る。
「はい」
トレーを持つ。
気にすることではない。
常連から差し入れをもらうことくらいある。
自分だって橋本から菓子をもらったことがある。
それなのに、女性が帰ったあと、円香は直樹のそばへ行った。
「何もらったの?」
「焼き菓子みたいです」
「ふうん」
「あとで皆さんで食べますか?」
「直樹にもらったんでしょ」
「僕一人では食べきれませんから」
「……そっか」
紙袋を見る。
可愛らしい包装だった。
「知り合い?」
「お客様ですよ」
「前から?」
「何度か来てくださっていますね」
「よく話すの?」
「紅茶について聞かれたことはあります」
「へえ」
直樹がこちらを見る。
「どうしたんですか?」
「別に」
「さっきから質問が多いですが」
「店長だから」
「それは関係ありますか?」
「ある」
「そうですか」
直樹は納得していない顔だった。
円香は少し迷ってから聞いた。
「直樹って、彼女いないよね?」
直樹の動きが止まった。
「……いませんが」
「だよね」
「なぜ聞くんですか?」
「なんとなく」
「なんとなくで確認することですか?」
「いいじゃん、別に」
円香は背を向けた。
いない。
そのことに、ほっとした。
ほっとした自分に気づいて、今度は別の意味で落ち着かなくなった。
数日後。
直樹は休みだった。
それだけで、レモンの中がいつもより少し静かに感じる。
「円香さん、これどこですか?」
「そこ。下の棚」
「あ、ありました」
「うん」
彩音が奥へ戻っていく。
円香はカウンターの中で時計を見た。
午後四時。
あと五時間ほどで閉店。
長い。
「……何考えてんだろ」
自分で呟く。
別に直樹がいなくても店は回る。
以前は直樹がいないのが普通だった。
今だって休みの日くらいある。
それなのに、何度も入口を見てしまう。
客として来るかもしれないと思っている自分がいる。
来るわけがない。
休みなのだから。
「店長、お先に失礼します」
「うん、お疲れさま」
夜、最後まで残っていた彩音を見送る。
「また明日」
「はい。お疲れさまです」
扉が閉まる。
一人になった。
円香は店内を片づけながら、明日のことを考えた。
明日は直樹がいる。
そう思っただけで、少し気分が軽くなる。
「……早く明日になんないかな」
口に出してから、手が止まった。
誰も聞いていない。
そう思った。
「円香さん」
「うわっ!」
振り返る。
まだ彩音がいた。
奥から鞄を持って出てくる。
「何!?」
「スマホ忘れてました」
「帰ったんじゃないの!?」
「今帰ります」
「びっくりした!」
「私もびっくりしました」
彩音がにやにやしている。
「何?」
「別に」
「何その顔」
「明日、直樹さん出勤ですよね」
「……そうだけど」
「早く明日になるといいですね」
「彩音ちゃん!」
「お疲れさまでーす」
「ちょっと!」
今度こそ扉が閉まる。
円香はしばらくそこに立っていた。
「……最悪」
顔が熱い。
閉店作業を終え、いつもの棚を開けた。
カップを一つ取る。
今日は間違えなかった。
二つ目には手を伸ばさない。
一人分のレモンブレンドを淹れて、いつもの席へ座る。
向かいは空いている。
静かだった。
直樹がいれば、何か話している。
今日あったこと。
橋本が何を言ったとか、彩音が何をしたとか、紅茶がどうだったとか。
大した話ではない。
それなのに、その大したことのない時間がないだけで、こんなに静かになる。
円香は紅茶を飲んだ。
直樹に彼女はいない。
それを聞いて、安心した。
女の客から何かをもらっているのを見て、面白くなかった。
休みの日には、何度も入口を見た。
明日は直樹がいると思ったら嬉しかった。
夜中に、用もないのに連絡した。
名前を呼んだら「はい」と返ってきて、それだけで安心した。
高瀬と付き合おうとしたときには、直樹の顔が浮かんだ。
そこまで並べたところで、円香はカップを置いた。
「……え」
一つずつなら、何でもないと思えた。
全部まとめると、何でもなくなかった。
「いやいや」
誰に言うでもなく首を振る。
そんなわけがない。
だって直樹だ。
毎日一緒に働いて、閉店後に紅茶を飲んで、休めだのご飯を食べろだの言ってくる直樹。
手が大きくて。
名前を呼ぶと「はい」と返事をして。
閉店後だけ、自分を円香と呼ぶ。
円香は両手で顔を覆った。
「……やばいかも」
もう一度、今度はもっと小さな声で呟く。
「私、直樹のこと好きじゃん」
言葉にした瞬間、全部がつながった。
高瀬を断った理由も。
女の客が気になった理由も。
明日が待ち遠しい理由も。
一人で飲む紅茶が寂しい理由も。
「うそでしょ……」
向かいの空席を見る。
昨日までなら、そこに直樹がいることを何とも思わなかった。
明日からは、もう無理だった。
翌朝。
開店準備をしていると、扉が開いた。
「おはようございます」
聞き慣れた声だった。
円香の肩が跳ねる。
「……おはよ」
直樹がコートを脱ぎ、いつものようにエプロンをつける。
何も変わっていない。
昨日と同じ直樹だ。
「店長?」
「何?」
「顔、赤くないですか?」
「赤くない」
「そうですか?」
「赤くないって」
直樹が近づいてくる。
「熱でもあるんじゃ――」
大きな手が、円香の額へ伸びた。
昨日までなら、避けなかった。
けれど今は、その手が自分に触れるところを想像しただけで無理だった。
円香は反射的に一歩下がった。
直樹の手が止まる。
「あ……」
「すみません」
直樹はすぐに手を下ろした。
「勝手に触ろうとしました」
「違う」
「大丈夫です。すみませんでした」
「直樹、違うって」
「開店準備しますね」
直樹が背を向ける。
円香は何も言えなかった。
嫌だったわけではない。
むしろ逆だった。
触ってほしくないから避けたのではない。
触れられたら、自分がどうなるか分からなかったから。
円香は直樹の背中を見た。
好きだと気づいただけで、昨日まで普通にできていたことが、急にできなくなっている。
「……ほんとにやばい」
聞こえないように呟いた。
直樹が振り返る。
「何か言いました?」
「何も!」
円香は慌ててカウンターへ向かった。
昨日までと同じ朝のはずだった。
同じ店で、同じ人と、同じように一日が始まる。
ただ一つ違うのは、円香がもう、自分の気持ちを知ってしまったことだった。




