付き合ってみようかな
二度目の食事に誘われたと聞いてからも、直樹は何も言わなかった。
言えることがなかった、と言ったほうが正しい。
高瀬は感じのいい人だった。少なくとも直樹が店で見た限りでは、店員への態度も穏やかで、円香に無理に距離を詰めるような様子もなかった。
円香自身、一度目の食事を「楽しかった」と言っている。
なら、止める理由などない。
直樹の気持ちを除けば。
「直樹、アッサムお願い」
「はい」
「あと三番、ティラミス二つ」
「分かりました」
午後三時。
レモンは昼の混雑が少し落ち着いたところだった。
直樹がポットを温めていると、カウンター席に座っていた橋本が身を乗り出した。
「直樹くん」
「はい」
「俺のアッサム?」
「そうです」
「さすが。もう言わなくても出てくるね」
「注文はしてください」
「えー、常連なのに?」
「注文しない客に紅茶を出す店はないと思います」
「円香ちゃん、直樹くんが冷たい」
「橋本さんが面倒くさいだけ」
「店長まで!」
橋本の声に、厨房の和子が笑う。
いつものレモンだった。
その少し離れたところで、円香はスマートフォンを見ていた。
「店長」
「ん?」
「三番、会計です」
「あ、はい」
円香が慌ててスマートフォンを伏せる。
その一瞬、画面に表示されていた名前が見えた。
高瀬。
見ようとしたわけではない。
それでも、見えてしまったものは仕方がない。
直樹は何も言わず、アッサムを橋本の前へ置いた。
「どうぞ」
「ありがとう。……直樹くん?」
「何ですか?」
「いや、別に」
「そうですか」
橋本は何か言いたそうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
円香が高瀬と二度目の食事に行く日は、三日後だった。
一度目と違い、その日はレモンの営業日だったので、円香は夕方まで店に出てから少し早めに上がることになっている。
「じゃあ私、六時で上がるから」
開店前、円香が予定表を確認しながら言った。
「そのあと和子さんと彩音ちゃんがいるし、大丈夫だと思うけど、何かあったら連絡して」
「分かりました」
「直樹、閉店お願いしていい?」
「はい」
「ごめんね」
「謝ることではありませんよ」
「ありがと」
円香はそれだけ言って、予定表を閉じた。
直樹も、それ以上は何も聞かなかった。
六時少し前になると、円香は一度店の奥へ引っ込んだ。
しばらくして戻ってきたときにはエプロンを外し、髪を整えていた。
「じゃあ、あとお願いね」
「はい」
「和子さん、先上がります」
「いってらっしゃい」
「彩音ちゃんもよろしく」
「はーい。楽しんできてください」
「ご飯食べるだけだから」
「はいはい」
「何その言い方」
彩音が笑っている。
円香も笑ってから、最後に直樹を見た。
「じゃあ行ってくる」
「はい。いってらっしゃい」
自然に言えたと思う。
円香が店を出ていく。
扉のベルが鳴り、また閉じた。
「……直樹さん」
彩音に呼ばれて、直樹は振り返った。
「はい」
「四番、レモンブレンドです」
「分かりました」
仕事をする。
それでいい。
高瀬が予約していたのは、前回とは別の店だった。
「ここ、前から来てみたかったんだ」
向かいに座った高瀬がメニューを開く。
「そうなんですか?」
「一人だと入りづらくて」
「分かります。こういう店、一人だとちょっと勇気いりますよね」
「円香ちゃんは一人でも平気そうだけど」
「失礼だなあ」
「褒めてるよ」
「絶対違う」
円香は笑った。
一度目と同じで、高瀬との食事は楽だった。
無理に会話を探す必要もなく、昔の知り合いの話や仕事の話をしていれば時間が過ぎていく。
高瀬はよく話を聞いてくれるし、円香が店の話をしても退屈そうな顔をしなかった。
「本当に店好きなんだね」
「うん。大変だけどね」
「休み少なそう」
「前よりは楽になったよ。直樹が入ってくれたから」
「この前いた男の人?」
「そうそう。最初はお客さんだったんだけど」
話し始めてから、円香は少し笑った。
「何?」
「いや、思い出したらおかしくて。初めて来た日に紅茶の淹れ方に口出されたの」
「客に?」
「そう。十五秒短くしたほうがいいって」
「細かいな」
「でしょ? 私も最初そう思ったんだけど、試したら本当にそっちのほうが美味しくて」
「それは悔しいね」
「めちゃくちゃ悔しかった」
そこから、忙しい日に皿を洗わせたことや、そのあと店で働かないかと誘ったことまで話した。
高瀬が笑っている。
「面白い出会いだね」
「今思えばね」
「仲いいんだ」
「うん?」
「その直樹くんと」
「ああ。まあ、毎日のように一緒にいるし」
円香は水を一口飲んだ。
「仕事できるし、すごい助かってるよ」
「へえ」
「紅茶ももう普通に淹れられるし。最近ちょっとうるさいけど」
「うるさい?」
「休憩しろとか、ご飯食べろとか」
「心配されてるんじゃない?」
「お母さんみたいなんだよ」
高瀬が笑った。
円香も笑う。
そのときは、自分がずいぶん長く直樹の話をしていたことに気づかなかった。
食事が終わり、店を出たのは九時を過ぎたころだった。
駅までの道を並んで歩く。
「今日はありがとう」
「こちらこそ。ごちそうさまでした」
「また誘っていい?」
「うん」
答えると、高瀬が少し黙った。
信号が赤になり、二人で立ち止まる。
「円香ちゃん」
「ん?」
「俺、円香ちゃんと付き合えたらいいなと思ってる」
一瞬、意味が分からなかった。
「……え?」
「急だった?」
「ちょっと」
「ごめん」
「いや、謝らなくていいけど」
高瀬は困ったように笑った。
「久しぶりに会って、二回しか食事してないから早いのは分かってる。でも、また会いたいと思ってるし、円香ちゃんが嫌じゃなければ、ちゃんと付き合いたい」
信号が青になる。
周りの人たちが歩き出したが、円香はすぐには動けなかった。
「今、返事しなくていいよ」
「……うん」
「考えてくれたら」
「分かった」
高瀬はそれ以上何も言わなかった。
そのことに、少しほっとした。
帰りの電車で、円香は窓に映る自分を見ていた。
高瀬はいい人だ。
一緒にいて楽しかった。
嫌なところも、今のところ思いつかない。
付き合ってほしいと言われて、嫌だとも思わなかった。
なら、付き合ってみてもいいのかもしれない。
そう考える。
高瀬とまた食事に行く。
休みの日に会う。
付き合えば、もっといろいろな場所へ行くのだろう。
想像しようとした。
けれどなぜか、頭に浮かんだのはレモンだった。
深緑の壁。
カウンター。
棚に並ぶカップ。
大きな手でポットを持つ直樹。
『店長、休憩してください』
『直樹、お母さんみたい』
『休憩してください』
円香は小さく笑った。
「……なんで直樹」
電車の音に消えるくらいの声で呟いた。
スマートフォンを取り出す。
時間は九時四十分。
レモンは、そろそろ閉店作業をしているころだ。
メッセージ画面を開く。
『まだ店?』
送ってから、何をしているんだろうと思った。
すぐに既読がつく。
『いますよ』
『今日どうだった?』
『特に問題ありませんでした』
『そっか』
『店長は?』
指が止まる。
少し考えてから打った。
『今帰り』
それだけ送った。
高瀬に告白されたことは、なぜか文字では言えなかった。
翌日は朝から雨だった。
窓ガラスを細かな雨粒が流れ、いつもより客足も少ない。
午後になって和子が買い出しへ出て、彩音が休憩に入ると、店内には円香と直樹、それから窓際に一人の客がいるだけになった。
「直樹」
「はい」
「ちょっといい?」
「何ですか?」
円香はカウンターの端に寄りかかった。
「昨日さ」
「はい」
「高瀬さんに、付き合ってほしいって言われた」
直樹の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
「……そうですか」
「うん」
「返事は?」
「まだしてない」
直樹は手元の布巾を畳んだ。
「どうしようかなと思って」
「僕に聞くんですか?」
「うん」
「なぜですか」
「直樹、変なこと言わなそうだから」
また、それだった。
信頼されている。
だから円香は、自分に聞く。
直樹は笑いそうになった。
もちろん、面白かったわけではない。
「店長は、どうしたいんですか?」
「それが分かんないから聞いてる」
「嫌なんですか?」
「嫌じゃない」
「一緒にいて楽しかったですか?」
「楽しかった」
「また会いたいとは?」
「思うよ」
直樹は少し黙った。
言ってはいけない言葉なら、いくらでも浮かんだ。
付き合わないでください。
断ってください。
僕にしてください。
どれも言えない。
「だったら」
声が普通に聞こえるように気をつけた。
「付き合ってみても、いいのではないですか」
円香が直樹を見る。
「そう思う?」
「はい」
「そっか」
少し考えるように視線を落としたあと、円香は小さく頷いた。
「じゃあ、付き合ってみようかな」
直樹は何も言わなかった。
「直樹がそう言うなら」
胸の奥で、何かが落ちた。
「……僕が決めることではありませんよ」
「分かってるよ。でも参考になるから」
「そうですか」
「うん」
円香はスマートフォンを取り出した。
「今日返事しようかな」
「はい」
直樹はそれだけ答えた。
少しして和子が戻ってくると、直樹は「在庫を見てきます」と言って奥へ入った。
倉庫の扉を閉める。
棚には茶葉や砂糖、紙ナプキンの箱が並んでいる。
確認する必要のある在庫などなかった。
直樹はしばらくその場に立っていた。
「……馬鹿ですね」
誰に言ったのか、自分でも分かっていた。
一度目の食事も、自分が「いいと思いますよ」と言った。
二度目も止めなかった。
そして今度は、付き合ってみてもいいのではないかと言った。
好きな人が自分ではない誰かと付き合うために、三回も背中を押したことになる。
それでも、円香が自分を頼ってくれたことは嬉しかった。
だから余計に、何も言えなかった。
直樹は一度だけ目を閉じてから、何も持たずに倉庫を出た。
その日の閉店後。
いつものように、二つのカップが並んだ。
円香はスマートフォンをテーブルに置いたまま、まだ高瀬への返事を書いていなかった。
「何て送ればいいと思う?」
「それまで僕に聞くんですか」
「だって『付き合います』って変じゃない?」
「僕には分かりません」
「役に立たないなあ」
「そこは自分で考えてください」
「はいはい」
円香は笑いながら画面を見る。
直樹は紅茶を飲んだ。
これが最後になるかもしれない、とふと思った。
もちろん、円香に恋人ができたからといって、閉店後に紅茶を飲んではいけないわけではない。
それでも今までと同じではいられない気がした。
「……直樹」
「はい」
「何でもない」
「そうですか」
円香はまたスマートフォンへ目を戻した。
文章を打っては消し、また打つ。
直樹は見ないようにした。
翌朝。
「おはようございます」
直樹が店に入ると、円香はすでにカウンターの中にいた。
「おはよ」
いつも通りだった。
直樹はコートを脱いで、エプロンをつける。
聞くつもりはなかった。
円香から話さないなら、それでいいと思っていた。
「直樹」
「はい」
「昨日のことなんだけど」
やはり聞きたくないと思った。
それでも振り返る。
「はい」
円香は茶葉の缶を持ったまま言った。
「断った」
直樹は動かなかった。
「……何をですか?」
「高瀬さん」
「付き合う話を?」
「うん」
「なぜ」
思ったより早く言葉が出た。
円香は自分でも分からないというように首を傾げた。
「昨日、あのあと返事書いてたんだけどさ」
「はい」
「『私もよろしくお願いします』って打って、送ろうとしたの」
直樹は黙って聞いた。
「でも、その文章見てたら、なんか違うなって思って」
「違う?」
「うん。高瀬さんが嫌とかじゃないよ。本当にいい人だと思うし、一緒にいて楽しかったし」
円香は茶葉の缶を棚へ置いた。
「でも、付き合うって考えたら……直樹の顔が浮かんだ」
息をするのを忘れた。
円香はそんな直樹に気づかず、困ったように笑った。
「変だよね」
「……なぜ、僕が」
「それが分かんないんだよ」
円香自身、本当に分かっていない顔をしていた。
「昨日も高瀬さんとご飯食べてるとき、直樹の話いっぱいしちゃったし。帰りも店のこと考えて、直樹まだいるかなって思って連絡したし」
「……はい」
「付き合おうかなって考えても、なんか直樹が出てくるし」
円香が眉を寄せる。
「なんで直樹なんだろ」
聞かれても、答えられなかった。
答えてしまいたかった。
それは、もしかしたら。
自分と同じなのではないかと。
けれど、そんな都合のいい解釈をしていいはずがない。
「それで、高瀬さんには?」
「ごめんなさいって送った。まだそういう気持ちになれないって」
「そうですか」
「うん」
円香は少し黙ってから、直樹を見た。
「せっかく相談乗ってくれたのに、ごめんね」
「……謝らないでください」
「でも直樹、付き合ってみたらって言ってくれたじゃん」
「決めたのは円香でしょう」
仕事が始まる前だった。
だから、店長ではなく円香と呼んだ。
円香が少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「そうだね」
「はい」
「じゃあ、この話終わり」
円香は手を叩いた。
「開店準備しよ」
「分かりました」
いつもの朝が始まる。
直樹はカップを並べながら、さっきの言葉を何度も思い出していた。
直樹の顔が浮かんだ。
なぜなのかは、円香にも分からない。
期待してはいけない。
自分に都合よく考えてはいけない。
そう言い聞かせても、一度生まれてしまった期待は簡単には消えてくれなかった。
そして円香のほうも、まだ知らなかった。
高瀬と付き合うことを想像したとき、どうして直樹の顔が浮かんだのか。
その答えに、自分がもうかなり近づいていることを。




