この人どう思う?
好きだと自覚したからといって、何かが変わるわけではなかった。
「おはようございます、店長」
「おはよ。直樹、悪いんだけど開店前にミルク届くから受け取ってくれる?」
「分かりました」
「あと今日、彩音ちゃんちょっと遅れるって」
「何時ごろですか?」
「十一時くらい。だからそれまで二人で頑張ろ」
「はい」
いつも通りだった。
直樹はエプロンをつけ、店内を整え、届いた荷物を受け取る。
円香はカウンターの中で茶葉を確認しながら、鼻歌を歌っていた。
昨日までと何も違わない。
違うのは、直樹だけだった。
円香が好きだ。
一度そう認めてしまえば、今まで気にも留めなかったことまで目につくようになった。
「直樹、これどっちがいいと思う?」
開店前、円香が二枚のメニュー表を持ってくる。
「どちらでもいいと思いますが」
「それ一番困る答え」
「では、右で」
「なんで?」
「見やすいので」
「ほんと?」
「聞いておいて疑うんですか」
「だって直樹、こういうの適当に答えそう」
「それなら聞かないでください」
「じゃあ右にする」
円香が笑って、直樹の選んだほうをカウンターに置く。
そんなことで嬉しいと思う自分が、少し嫌だった。
自分が選んだ。
円香がそれを選んだ。
たったそれだけで。
昨日までなら、何とも思わなかったはずなのに。
昼を過ぎると店は忙しくなった。
彩音も出勤し、厨房では和子が注文を捌いている。
「店長、アッサムお願いします」
「はい」
「三番、ティラミス追加です」
「了解。直樹、こっちできた」
「持っていきます」
忙しい時間は助かった。
余計なことを考えなくて済む。
円香は店長で、自分は従業員。
それだけを考えていればいい。
午後三時を過ぎたころ、ようやく客足が落ち着いた。
「つかれたー」
円香がカウンターに両手をついて、ぐっと背中を伸ばす。
「お疲れさまです」
「直樹もね」
「休憩してください」
「またそれ?」
「またです」
「直樹、ほんと最近お母さんみたいになったよね」
「店長が休まないからです」
「分かったよ。十分だけ」
「せめて十五分」
「細かいなあ」
「十五秒にこだわる店ですから」
「まだ言うか」
円香が笑う。
直樹も笑った。
こうしていればいい。
今まで通りでいればいいのだ。
好きだと伝える必要はない。
そばにいられるのなら、それで十分だと思った。
その客が来たのは、それから数日後だった。
「いらっしゃいませ」
午後六時前。
店内には仕事帰りらしい客が何人かいて、直樹はカウンターの中で洗い物をしていた。
入ってきたのは、三十代くらいの男性だった。
濃紺のジャケットに白いシャツ。落ち着いた雰囲気で、店内を見回したあと、円香を見つけて少し驚いた顔をした。
「あれ、円香ちゃん?」
「……え?」
円香も男を見て、すぐに「あ!」と声を上げた。
「高瀬さん?」
「やっぱり。久しぶり」
「久しぶりです! 何年ぶり?」
「三年くらいかな」
「そんな経つ?」
二人は知り合いらしい。
直樹は洗ったカップを拭きながら、何となく会話を聞いていた。
「ここ、円香ちゃんの店だったんだ」
「そう。言ってなかったっけ?」
「店やってるっていうのは聞いた気がするけど、場所までは知らなかったよ」
「たまたま?」
「仕事でこの近く来てて。喫茶店あるなと思って入ったら、びっくりした」
「私もびっくりした」
円香は楽しそうだった。
高瀬と呼ばれた男も、円香を見る目が親しげだった。
「お好きな席どうぞ。何飲みます?」
「おすすめは?」
「初めてならレモンブレンドかな」
「じゃあそれで」
「はーい」
円香がカウンターへ戻ってくる。
「知り合いですか?」
直樹が聞くと、円香は茶葉を量りながら頷いた。
「前に知り合いの集まりで何回か会った人。久しぶりだなあ」
「そうなんですね」
「三年だって。早いね」
「そうですね」
それだけだった。
直樹には関係のないことだ。
そう思って、仕事へ戻った。
高瀬は一時間ほど店にいた。
帰り際、レジに立った円香とまた少し話していた。
「ほんと美味しかった。また来るよ」
「ありがとうございます」
「今度、時間ある?」
「え?」
「久しぶりにご飯でもどうかなと思って。二人で」
直樹の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐにまた、手にしていたカップを拭き始める。
「ご飯?」
「うん。迷惑じゃなければ」
「全然。いつにします?」
「来週あたりどう?」
「来週なら……水曜かな。私休みだから」
「じゃあ水曜で」
「分かりました」
高瀬が笑った。
「あとで連絡する」
「はーい」
扉のベルが鳴り、高瀬が出ていく。
円香は「ありがとうございました」と見送ってから、カウンターへ戻ってきた。
「びっくりした」
直樹はカップを棚へ戻した。
「何がですか?」
「久しぶりに会って、いきなりご飯誘われると思わなかった」
「そうですね」
「三年ぶりだよ?」
「久しぶりだからでは?」
「そういうもん?」
「僕に聞かれても」
「だよね」
円香は笑って、次の仕事へ戻った。
直樹もそれ以上は何も言わなかった。
その日の閉店後も、二つのカップが並んだ。
いつものレモンブレンドだった。
円香は今日あったことを話し、直樹はそれを聞く。
いつもと同じ時間のはずなのに、直樹は何度か昼間の男を思い出していた。
高瀬。
三年ぶりに会って、二人で食事に誘った男。
円香は行くと言った。
「直樹」
「はい」
「今日静かじゃない?」
「そうですか?」
「うん。疲れた?」
「少し」
「じゃあ早く帰る?」
「いえ、大丈夫です」
「無理しなくていいよ」
「していません」
円香は「ならいいけど」と言って紅茶を飲んだ。
直樹もカップに口をつける。
言えるわけがなかった。
食事に行かないでほしい。
そんなことを言える立場ではない。
翌日の午後。
直樹が発注した品を確認していると、円香がスマートフォンを持って近づいてきた。
「ねえ、直樹」
「はい」
「ちょっと見て」
「何ですか?」
差し出された画面を見る。
メッセージだった。
高瀬から届いたらしい。
『水曜、駅前のイタリアンどう? 七時くらいで』
その下に店の情報が送られている。
「どう思う?」
「……何がですか?」
「この人」
直樹は円香を見た。
「この人、どう思う?」
昨日までなら、何も考えずに答えられたかもしれない。
けれど今は、その質問の意味を考えてしまう。
「どう、とは」
「高瀬さん。直樹から見てどうだった?」
「昨日一度お会いしただけですが」
「第一印象でいいよ」
「なぜ僕に聞くんですか?」
「男の人の意見も聞いてみたいから」
円香は本当に、それだけのつもりなのだろう。
直樹なら変なことを言わないと思っている。
自分を信用して聞いている。
だからこそ、直樹は自分の気持ちで答えるわけにはいかなかった。
「……感じのいい方だと思いますよ」
「ほんと?」
「話し方も丁寧でしたし、店でも横柄なところはありませんでした」
「そっか」
「ただ、一度しかお会いしていないので、それ以上は分かりません」
「まあ、そうだよね」
円香は画面を見ながら頷いた。
「じゃあ行ってみようかな」
胸の奥が痛んだ。
行かないでください。
言葉はそこまで出かかった。
「いいと思いますよ」
実際に出たのは、それだけだった。
「じゃあ返事しよ」
円香がスマートフォンを操作する。
直樹は発注書へ目を戻した。
数字が一つも頭に入ってこなかった。
水曜日。
直樹は出勤で、円香は休みだった。
店は和子と彩音もいるので問題なく回る。
円香がいないレモンにも、もう慣れたはずだった。
午後五時過ぎ。
休憩を終えた直樹がカウンターへ戻ると、入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
「お疲れー」
円香だった。
「……店長?」
「何その顔」
「今日は休みでは?」
「休みだよ。ちょっと取りに来たものあって」
私服だった。
いつも店で見る服とは違い、少し柔らかな色のブラウスにスカートを合わせている。髪も普段より丁寧に整えられていた。
高瀬と会うのだと、すぐに分かった。
「彩音ー、昨日ここに置いた袋知らない?」
「事務所にありますよー!」
「ありがと!」
円香が奥へ行き、しばらくして小さな紙袋を持って戻ってくる。
「あったあった」
そのまま帰るのかと思ったが、円香はなぜか直樹の前で立ち止まった。
「ねえ」
「はい」
「どう?」
「何がですか?」
「これ」
円香が自分の服を指した。
「変じゃない?」
直樹は一瞬、言葉に詰まった。
「……変ではありません」
「ほんと?」
「はい」
「なんか反応薄い」
「どう答えれば正解なんですか」
「正解とかないけど。似合うとかあるじゃん」
困った。
似合っている。
普段とは違って見える。
綺麗だと思った。
できれば、その姿で別の男に会いに行ってほしくないとも思った。
「似合っていますよ」
「ほんと?」
「はい」
「直樹的には?」
「……僕の意見を聞いているんですよね?」
「そうだけど」
「なら、似合っています」
「そっか」
円香が少し嬉しそうに笑った。
「じゃあ行ってくる」
「はい」
「店よろしくね」
「分かりました」
「お疲れ」
「お疲れさまです」
ベルが鳴る。
円香が店を出ていった。
直樹はしばらく扉を見ていた。
「直樹さん」
彩音の声で我に返る。
「はい」
「三番、お願いします」
「すみません。今行きます」
仕事中だ。
考えるのはやめた。
閉店まで、いつも通り働いた。
和子と彩音を見送り、最後の客を見送る。
看板を中へ入れ、レジを締め、テーブルを拭く。
円香がいないので、店内は静かだった。
直樹はカウンターの中を片づけてから、湯を沸かした。
棚を開ける。
一つ、カップを取った。
そしてもう一つ。
テーブルへ置こうとしたところで、手が止まった。
「……あ」
少し前、円香も同じことをしたと言っていた。
直樹は二つのカップを見た。
今日は円香はいない。
高瀬と食事に行っている。
今ごろ二人で向かい合って、何かを食べているのだろう。
笑っているかもしれない。
高瀬が何かを言って、円香があの顔で笑っているのかもしれない。
直樹は一つのカップを棚へ戻した。
「……嫌だ」
口にしてから、自分で驚いた。
誰もいない店だった。
だから出てしまったのだと思う。
円香がほかの男と食事をしていることが嫌だった。
あの服を着て会いに行ったことも、自分に「似合う」と言わせたことも。
何より、自分で「いいと思いますよ」と言ったことが嫌だった。
それでも、ほかに何と言えばよかったのか分からない。
行かないでください。
僕があなたを好きだから。
そんなことを言えば、円香を困らせる。
直樹は一人分のレモンブレンドを淹れた。
向かいの席には誰もいない。
午後十時を少し過ぎたころ、スマートフォンが震えた。
円香からだった。
『終わったー』
直樹は画面を見た。
すぐにもう一通届く。
『普通に楽しかった』
指が止まる。
『高瀬さん、やっぱりいい人だったよ』
そして。
『直樹がいい人そうって言ったの当たってた』
直樹はしばらく、その文章を見ていた。
自分の言葉が、円香の背中を押した。
それが正しかったのだと思う。
高瀬が本当にいい人なら、なおさら。
円香が楽しかったのなら、それでいい。
好きな人には幸せでいてほしい。
そう思うのは、間違っていないはずだった。
直樹は返信を打った。
『よかったですね』
送信する。
少しして、円香から笑っている猫のスタンプが届いた。
直樹はスマートフォンを伏せた。
テーブルの上には、一つだけカップが置かれていた。
翌朝。
「おはよう」
「おはようございます、店長」
円香はいつもと変わらなかった。
「昨日ありがとね」
「何がですか?」
「店。あと高瀬さんのこと」
「僕は何もしていませんよ」
「相談乗ってくれたじゃん」
「ほとんど何も言っていません」
「でも参考になったよ」
円香はエプロンをつけながら、何でもないことのように続けた。
「また誘われた」
直樹は手にしていた茶葉の缶を棚へ置いた。
「そうですか」
「うん。今度は来週」
「行くんですか?」
「たぶん。どうしようかなとは思ってるけど」
円香がこちらを見る。
「直樹はどう思う?」
まただ。
自分の答えを信用している。
直樹は少しだけ笑った。
「いいと思いますよ」
「そっか」
円香も笑った。
「じゃあ、また行ってみようかな」
「はい」
仕事中は「店長」。
閉店後は「円香」。
それだけでいいと思っていた。
好きでいるだけなら、自分の問題だと思っていた。
けれど好きな人の幸せを願うことと、その幸せの隣に自分がいなくても平気でいることは、どうやら同じではないらしい。
それでも直樹は、何も言わなかった。




