二つのカップ
直樹がレモンで働き始めて、三か月ほどが経った。
店の外を歩く人たちの服装は半袖から長袖へ変わり、夏のあいだ開けていた窓も、今ではほとんど閉めたままになっている。
季節が変わるくらいの時間が過ぎれば、最初は新鮮だったことも日常になる。
「店長、二番にレモンブレンド二つです」
「はい。ティラミスは?」
「一つです」
「了解」
円香が茶葉を量っているあいだに、直樹は別のテーブルへ水を運び、空いた皿を下げて戻ってくる。カウンターの中ですれ違うときも、今ではどちらかが大きく避ける必要はほとんどなかった。
「直樹さん、これ三番お願い」
「はい」
円香が差し出したカップを、直樹の大きな手が受け取る。
「あと、橋本さんの――」
「アッサムですね」
「そう。ありがと」
「円香ちゃん、俺まだ何も言ってないよ?」
カウンターの向こうから橋本が不満そうに声を上げた。
「どうせアッサムでしょ」
「いや、今日は違うかもしれないじゃん」
「じゃあ何?」
「アッサム」
「ほら」
「俺のこと分かってるねえ」
「週に何回来てると思ってんの」
橋本が満足そうに笑う横で、直樹がアッサムを置いた。
「どうぞ」
「ありがとう、直樹くん。いやあ、すっかり店員だね」
「三か月働いていますから」
「最初は客だったのにねえ。円香ちゃんに捕まって」
「人聞き悪いなあ」
「皿洗いさせたんでしょ?」
「その話いつまで擦るの?」
「店の歴史に残るよ」
「残さなくていいよ」
厨房から聞いていた和子まで笑っている。
直樹が働き始めたころには、彼がカウンターの中に立っているだけで少し変な感じがした。それが今では、いない日のほうが何となく店が広く見える。
仕事にもすっかり慣れ、円香が何かを頼む前に気づくことも増えた。
「店長、ポット洗っておきます」
「お願い。あと茶葉の在庫――」
「さっき確認しました。アールグレイが少ないです」
「早いなあ」
「褒めていますか?」
「褒めてる。……あ、そうだ」
「はい?」
円香は棚にカップを戻しかけて、ふと直樹を見た。
「ずっと思ってたんだけどさ」
「何でしょう」
「もう『さん』いらない?」
直樹が少しだけ眉を上げる。
「僕に聞くんですか?」
「だって三か月も一緒に働いてるのに、従業員にずっとさん付けしてるの、なんか変な感じしてきた」
「僕はどちらでも構いませんよ。円香が呼びやすいほうで」
「じゃあ……直樹」
「はい、店長」
すぐに返事をされて、円香は一度瞬いた。
「何ですか?」
「いや。なんか急に部下っぽい」
「三か月前から部下だと思いますが」
「そうなんだけど」
「今さらですね」
「うるさいなあ。じゃあ今日から直樹ね」
「分かりました、店長」
「そっちは店長のままなんだ」
「仕事中ですから」
「はいはい」
円香は笑って仕事へ戻った。
たった一つ敬称がなくなっただけで、何かが大きく変わったわけではない。数分もすれば円香自身も気にしなくなり、「直樹、三番お願い」「直樹、これ下げて」と、それまでと同じ調子で名前を呼んでいた。
直樹のほうも、呼ばれるたびに「はい」と答えるだけだった。
昼の混雑が落ち着いたころ、彩音が休憩に入った。和子も厨房の奥で仕込みをしていて、店内には数人の客しか残っていない。
円香がカウンターの内側で洗ったカップを拭いていると、直樹が隣に立った。
「それ、戻します」
「ありがと」
棚へ戻そうとしていたカップを渡す。そのとき、指先が触れた。
「あ、ごめん」
「いえ」
ほんの一瞬だった。
円香は何も気にせず次のカップを手に取ったが、直樹だけが少し遅れて手を引いた。
「直樹?」
「はい」
「それ、戻してくれるんじゃないの?」
言われて初めて、自分がまだカップを持ったままだと気づいたらしい。直樹は「すみません」と棚へ戻した。
「疲れた?」
「いえ、大丈夫です」
「ならいいけど」
円香はそれ以上気にせず、また洗い物を始めた。
直樹は棚の前に立ったまま、自分の指先を一度だけ見た。
何だったんだろうと思う。
触れたといっても、本当に一瞬だった。カップを受け取るときに指が当たっただけで、そんなことは一緒に働いていればいくらでもある。
それなのに、感触だけが妙に残っていた。
「直樹?」
「はい」
「今度はほんとに大丈夫?」
「大丈夫です」
「なら四番のお水お願い」
「はい、店長」
仕事に戻れば、すぐに忘れた。
その日の閉店後、円香はいつものように二つのカップを棚から出した。
「今日はどっちがいい?」
片手に白いカップ、もう片方に青いカップを持っている。
「僕が選ぶんですか?」
「たまには」
「では、青で」
「こっち?」
「はい」
「じゃあ私は白」
もう、どちらから言い出すこともなくなっていた。
閉店後に直樹が残る日は、二人で紅茶を飲む。最初は円香が「飲んでく?」と聞いていたのに、いつの間にか聞く必要すらなくなり、最後の客を見送ると円香が二つのカップを出し、直樹が椅子を整える。
それが二人の習慣になっていた。
「今日の紅茶、直樹が淹れて」
「僕ですか?」
「うん。練習」
「もう何度も淹れていますが」
「じゃあ試験」
「急ですね」
「店長だから」
「便利ですね、その言葉」
直樹が立ち上がり、カウンターへ入った。湯を沸かし、ポットを温め、茶葉を量る。その手順にはもう迷いがなく、円香は頬杖をつきながら眺めていた。
初めて会ったときから思っていたが、やはり直樹の手は大きい。指が長く、節の目立つ骨張った手で小さなティースプーンを扱っていると、少し窮屈そうに見えるのに、その手つきは意外なほど丁寧だった。
「何ですか?」
「ん?」
「また見ています」
「店長だから」
「今は閉店後では?」
「あ」
「それなら、店長ではないですね」
円香は笑った。
「そうだった。じゃあ私だから見てる」
「余計に理由が分かりません」
「いいから淹れて」
「はい」
直樹が紅茶を注ぎ、カップを円香の前へ置く。一口飲んで、円香は少し驚いた。
「美味しい」
「本当ですか?」
「うん。ちゃんと美味しい」
「ちゃんと、という言い方が気になりますが」
「最初に比べたらすごいよ。もう普通に任せられる」
「十五秒について指摘した人間ですから」
「まだ言う?」
「大事な思い出なので」
「私は根に持ってるからね」
「知っています」
直樹が笑う。
円香はもう一口飲んでから、ふと思い出したように言った。
「でもさ、あのとき直樹が言わなかったら、こうなってないんだよね」
「こう、とは?」
「直樹がここで働いてること」
「ああ」
「変なの。紅茶が十五秒長かっただけなのに、それで今、閉店後に二人で紅茶飲んでるんだから」
円香にとっては、ただの雑談だったのだろう。そう言ってカップへ口をつけると、もう別の話を始めようとしている。
けれど直樹は、少しだけ返事が遅れた。
「……そうですね」
「何?」
「いえ」
「また変な間あった」
「気のせいです」
「ほんと?」
「はい」
円香は疑うように見たものの、すぐに「まあいいけど」と笑った。
その顔を見て、直樹は紅茶を飲んだ。
それからしばらくして、直樹は自分が円香のことをよく見ていると気づいた。
最初は仕事のためだと思っていた。忙しくなると円香は髪を耳にかける回数が増えることや、疲れてくると無意識に左肩を回すこと。
機嫌がいい日は鼻歌を歌いながらカップを拭き、考え事をしているときは同じ場所を何度も布巾で拭いていることも知っている。
知っていれば仕事がしやすい。ただ、それだけだと思っていた。
「店長、休憩してください」
「まだ平気」
「朝からほとんど座っていませんよ」
「あとこれ終わったら」
「さっきもそう言っていました」
「……聞いてた?」
「聞こえていました」
「直樹、最近うるさくなったよね」
「三か月前よりは」
「最初もっと大人しかったのに」
「店長が無茶をするからです」
「してないって」
「昨日、昼食を食べたのは三時でした」
「食べたんだからいいじゃん」
「今日は二時までに食べてください」
「はいはい」
「返事が軽いですね」
「直樹、お母さんみたい」
「休憩してください」
「分かったって!」
文句を言いながらも、円香は笑っていた。
その笑顔を見ると、なぜか安心する。逆に疲れている顔を見ると気になるし、何かあったのかと思う。
誰かに腹を立てていれば理由を知りたくなり、楽しそうにしていれば自分まで少し気分がよくなる。
それも、毎日一緒に働いているからだと思っていた。
ある日、直樹は休みだった。
平日の夕方で、店内は珍しく静かだった。橋本も来ておらず、彩音は先に上がり、和子も用事があるからと閉店前に帰っている。
円香は一人で最後の客を見送った。
「ありがとうございました」
扉を閉めて看板を中へ入れ、レジを締め、テーブルを拭き、カウンターを片づける。いつも通りの閉店作業を終えると、円香は湯を沸かした。
棚を開け、一つカップを出す。
続けて、もう一つ。
そこで手が止まった。
「……あ」
直樹、今日休みじゃん。
自分で出した二つのカップを見て、円香は笑った。
「何やってんだろ」
一つを棚へ戻す。それだけのことなのに、テーブルの上に残ったカップが妙にぽつんとして見えた。
「癖って怖いなあ」
誰に言うでもなく呟き、一人分の紅茶を淹れた。
いつもと同じレモンブレンドだった。
翌日。
「昨日さ」
開店前、円香が茶葉の缶を並べながら言った。
「はい」
「直樹休みだったじゃん」
「そうですね」
「閉店後、間違えてカップ二つ出しちゃった」
直樹の手が止まった。
「……二つ?」
「うん。いつもの癖で。出してから、あ、今日いないじゃんって」
円香は笑っている。
「一個戻したけどね。癖って怖いね」
「そうですね」
「直樹?」
「はい」
「なんか今日ぼーっとしてない?」
「いえ」
「休みボケ?」
「そうかもしれません」
「しっかりしてよー」
円香は笑いながら厨房へ行った。
直樹は一人になったカウンターで、棚に並ぶカップを見た。
自分がいない日に、円香が二つ出した。
毎日の習慣になっているのだから、手が勝手に動いただけだろう。円香自身がそう言っているし、それ以上の意味などない。
なのに、そのことを何度も考えてしまった。
次の休みの日、直樹は自宅で本を読んでいた。
夕方、何となく時計を見る。
六時半。
今ごろは少し落ち着いているころだろうかと思った。
八時過ぎにもう一度時計を見ると、そろそろ客足が減る時間だった。
九時半。
直樹は本を閉じた。
レモンはもう閉店している。
今ごろ円香はレジを締めているだろうか。看板を中へ入れて、テーブルを拭いて、それから棚を開ける。
今日は一つしか出さないのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな違和感があった。
直樹はソファの背にもたれた。
円香が一人で紅茶を飲んでいる。ただそれを想像しただけなのに、なぜか寂しかった。
自分がいないことが、ではない。
円香が一人でいることが、嫌だった。
そこでようやく、直樹はここ最近の自分を振り返った。
指先が触れただけのことを覚えている。疲れていれば気になるし、笑っていれば安心する。
閉店後に名前を呼ばれるのが好きで、二人で紅茶を飲む時間も好きだった。
そして、自分のいない日に円香が間違えて二つのカップを出したと聞いただけで、嬉しかった。
そこまで並べてしまえば、もう答えは一つしかなかった。
「……そういうことですか」
誰もいない部屋で呟いた。
直樹はしばらく天井を見て、それから片手で目元を覆った。
困った、と思う。
店長で、雇い主で、毎日のように顔を合わせる相手だ。
何より円香は、自分を従業員として信頼してくれている。その関係を壊したいとは思わなかった。
けれど、気づいてしまったものを、気づかなかったことにはできない。
「……困りましたね」
そう言いながら浮かんでいたのは、やっぱり円香の顔だった。
次の日、直樹が出勤すると、円香はいつも通りカウンターの中にいた。
「おはよう」
「おはようございます、店長」
「昨日ゆっくりできた?」
「はい」
「よかった。今日ちょっと忙しいかも。予約入ってるから」
「分かりました」
何も変わらない。
円香はいつもの円香で、直樹もいつものようにエプロンをつけた。
仕事中は店長。
それでいい。
昼は予想通り忙しくなり、考え事をする暇もなかった。円香に呼ばれれば返事をして、紅茶を淹れ、皿を運び、橋本に話しかけられれば適当に相手をする。
気づけば閉店時間になっていた。
最後の客を見送り、直樹が看板を中へ入れると、円香は棚の前に立っていた。
「直樹」
「はい」
「今日、閉店までだっけ?」
「はい。その予定です」
「そっか」
円香は一つカップを取り、それからもう一つ手に取った。
「じゃあ今日こそ二つだ」
何でもないように笑う。
直樹は、その二つを見た。
昨日までと何も変わらない光景だった。同じ店で、同じ時間に、同じように並ぶ二つのカップ。
変わったのは、それを見る自分のほうだった。
「直樹?」
「はい」
「何飲む?」
直樹は円香を見た。
「レモンブレンドで」
「やっぱり?」
「はい」
「じゃあ二人分ね」
円香が茶葉を量り始める。その隣で、直樹は何も言わずに湯を沸かした。
テーブルには、今日も二つのカップが並ぶ。
円香にとっては、いつも通りの二つ。
直樹にとっては、もう昨日までと同じではなかった。




