店長
三日後、直樹がレモンに来た。
午後四時を少し過ぎたところで、昼の忙しさはすっかり落ち着いていた。窓から差し込む秋の日差しが店内を斜めに横切り、深緑の壁を柔らかく照らしている。
カラン、とベルが鳴って円香が顔を上げると、見慣れ始めた黒いコートが目に入った。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「今日もレモンブレンド?」
「まだ何も言っていませんが」
「違うの?」
「レモンブレンドでお願いします」
「ほら」
直樹は小さく笑って、いつもの二人掛けへ向かった。
円香はポットを温めながら、先日のことを思い出していた。あの日、客である直樹に皿洗いをさせたことは、翌日になって和子に叱られたのだ。
『いくら忙しくても、お客さんに働かせちゃ駄目でしょ』
『だって本人いいって言ったし』
『円香ちゃんが必死な顔で頼んだからでしょ』
『ティラミスつけたよ』
『そういう問題じゃないの』
正論だったので、もう二度と頼まないつもりでいる。
「お待たせ」
レモンブレンドを運ぶと、直樹はカップを受け取りながら言った。
「今日は洗わなくていいんですか?」
「……根に持ってる?」
「いえ。念のためです」
「今日は大丈夫。というか、この前は紅茶とティラミス奢ったじゃん」
「いい思い出です」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんって何」
円香は笑いながらカウンターへ戻った。
直樹はいつものように静かに紅茶を飲んでいる。その姿を見ながら、円香はここ数日、何度か頭に浮かんでいたことをまた考えた。
この人がここで働いたら、どんな感じなんだろう。
もちろん、客をその場の勢いで雇うわけにはいかない。勤務時間も給与も決めなければならないし、そもそも本人が喫茶店で働きたいかどうかすら分からない。
ただ、レモンが人手不足なのは事実だった。和子は厨房が中心で、彩音には歌手を目指しながら空いている日に入ってもらっている。円香自身も接客から紅茶、発注、経理までほとんど一人で抱えていた。
忙しい日は、もう一人いればと思う。
そして、その「もう一人」を考えると、なぜか先日カップを洗っていた直樹の姿が浮かんだ。
「……ねえ、直樹さん」
「はい」
「この前、仕事探してるって言ってたよね」
直樹がカップを置いた。
「言いましたね」
「どんな仕事探してるの?」
「特に業種を絞っているわけではありません。前職とは違うことをしてみたいとは思っていますが」
「接客は?」
「経験はあります」
「紅茶は好き?」
直樹が少し不思議そうな顔をした。
「好きですよ」
「立ち仕事平気?」
「おそらく」
「土日出られる?」
「予定がなければ」
「週三くらいから」
「円香」
「何」
「面接ですか?」
ばれた。
円香が黙ると、直樹は返事を急かすでもなく待っている。
「……うちで働かない?」
言ってしまった。
直樹が瞬きをした。
「ここで、ですか?」
「うん」
「純喫茶レモンで?」
「ほかにどこがあるの」
「いえ、確認です」
直樹は店内を見回した。深緑の壁に、使い込まれたカウンター、棚に並んだたくさんのカップ。何度も客として見ているはずなのに、今は少し違うものを見るような目をしていた。
「もちろん、今ここで決めなくていいよ。条件もちゃんと説明するし、ほかに受けたいところがあるならそっち優先していいし」
「なぜ僕なんですか?」
円香は少し考えた。
「皿割らなかったから」
「採用基準が低すぎませんか」
「冗談」
「安心しました」
「半分は本当だけど」
「半分もあるんですか」
円香は笑った。
「何ていうか、合いそうだったから」
「何にですか?」
「レモンに」
直樹が黙ったので、言った本人まで少し恥ずかしくなった。
「この前、普通に馴染んでたし。紅茶も好きみたいだし、接客もできるなら助かるし。それに……ちゃんとしてそう」
「ずいぶん曖昧ですね」
「じゃあ嫌ならいいよ」
「嫌とは言っていません」
円香が顔を上げると、直樹は少し考えてから、テーブルの上のレモンブレンドへ目を落とした。
「条件を聞いてもいいですか」
「もちろん」
その日のうちに、カウンターを挟んだ簡単な面接が始まった。
「というわけで、来週から直樹さんが入ります」
翌朝、円香がそう報告すると、和子は一瞬黙った。
「……早くない?」
「ちゃんと話したよ」
「この前までお客さんだった人でしょ?」
「でも人手欲しいって言ってたじゃん」
「言ったけど」
「接客経験あるし、土日も入れるって」
「円香ちゃん、また勢いで決めてない?」
「決めてない!」
「本当に?」
「……八割くらいはちゃんと考えた」
「残り二割は?」
「勘」
和子がため息をついた。
「まあ、円香ちゃんが店長なんだからいいけどね。ただし、今度はちゃんとお給料払って皿洗ってもらいなさいよ」
「分かってるって!」
昼から入ってきた彩音に伝えると、こちらは素直に喜んだ。
「この前のお客さんですよね?」
「そう」
「背高い人」
「そうそう」
「へえ。円香さん、スカウトしたんですか?」
「スカウトっていうか、人手不足だったから」
「ふーん」
「何、その顔」
「なんでもないです」
「なんか腹立つ」
彩音は笑って仕事へ戻っていった。
そして迎えた、直樹の初出勤の日。
なぜか橋本まで、開店早々カウンターに座っていた。
「なんでいるの?」
「新人が入るって聞いて」
「誰から」
「彩音ちゃん」
「彩音ちゃんー!」
「ごめんなさーい」
厨房のほうから笑い声が返ってくる。
「いやあ、めでたいじゃない。レモンに男性店員って初めて?」
「別にめでたくはないけど」
「俺、先輩としていろいろ教えてあげないと」
「橋本さん客でしょ」
「常連だよ?」
「余計駄目でしょ」
そんなことを話しているうちに、入口のベルが鳴った。
「おはようございます」
直樹だった。
いつもの黒いコートを脱ぐと、円香が用意しておいたエプロンを受け取る。
「これでいいですか」
「うん。サイズ大丈夫そう」
エプロンをつけただけなのに、不思議なくらい店の景色に馴染んだ。
「おお、似合うねえ」
橋本が感心したように言うと、直樹は「ありがとうございます」と律儀に頭を下げる。
「直樹くん、今日から俺がいろいろ教えるから」
「橋本さんは何も教えなくていいから」
「何でよ!」
「直樹さん、あの人の言うこと半分くらい聞き流していいよ」
「半分でいいんですか?」
「直樹くん!?」
円香は笑いながら、直樹をカウンターの中へ招いた。
「じゃあ最初に店の中説明するね。茶葉はこっち。よく出るものは上段で、季節ものは下。ポットはここ。カップは見れば分かると思うけど、この棚と向こう」
「はい」
「洗ったものは種類ごとに――」
「お気に入りは?」
円香が止まった。直樹は真面目な顔をしている。
「……全部」
「やはり」
「それまだ言う?」
「重要事項かと思いまして」
「割ったら怒るからね」
「気をつけます」
説明を続けてみると、直樹は覚えるのが早かった。一度教えたことはほとんど聞き返さず、分からないところだけを確認し、勝手な判断もしない。
接客も問題なかった。丁寧ではあるが堅すぎず、昼過ぎには橋本が感心したように頷いていた。
「直樹くん、いいねえ」
「何目線なの?」
「常連代表」
「そんな役職ないよ」
「作ろうよ」
「作らない」
円香が橋本のレモンブレンドを置く。その横で、直樹が空いた皿を下げていた。
ついこの前まで客席にいた人が、今は自分と同じ側にいる。それが少し変な感じだった。
「店長」
「ん?」
「これ、下げていいですか?」
「いいよ」
答えてから、円香はふと直樹を見た。
「……何ですか?」
「いや、店長って呼ぶんだなと思って」
「店長ですから」
「まあ、そうだけど」
今までずっと名前で呼ばれていたわけではないし、そもそも「円香」と呼ばれた回数だって多くない。それでも「店長」と呼ばれると、急に二人の立場が変わったことを実感する。
「嫌ですか?」
「全然。仕事中はそれでいいよ」
「分かりました、店長」
「……なんか面白い」
「なぜですか」
「分かんない」
直樹は少し首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
直樹は週三日から働き始め、それが四日になり、忙しい週には五日になることもあった。
仕事を覚えるのも早く、最初は洗い物や配膳が中心だったものの、やがて円香は紅茶の淹れ方も教えるようになった。
「茶葉によって蒸らす時間違うからね。これは三分。でもその日の状態で少し変えることもある」
「十五秒ほど?」
円香は直樹を睨んだ。
「まだ言う?」
「僕たちが知り合ったきっかけなので」
「私にとっては腹立った記憶なんだけど」
「僕にとっては、また来る理由になりました」
「え?」
直樹は茶葉を量りながら、何でもないことのように続けた。
「次に来たとき、本当に変わっているとは思わなかったので」
「……確認しに来たの?」
「少しだけ」
「感じ悪っ」
「すみません」
笑っているので、あまり反省しているようには見えない。円香もつられて笑いながら、「ほら、手止めない。仕事中」と急かした。
「はい、店長」
直樹がポットへ湯を注ぐ。その手元を見て、円香は初めて彼が来た日のことを思い出した。
やはり大きな手だった。指が長く、節の目立つ骨張った手で小さなティースプーンを持っていると、少し窮屈そうに見える。
「店長?」
「何?」
「見られていると緊張します」
「教えてるんだから見るでしょ」
「それはそうですが」
「ほら、時間」
「あ」
「十秒オーバー」
「すみません」
「私に偉そうに十五秒とか言った人が?」
「これは恥ずかしいですね」
「はい、やり直し」
「厳しい」
「店長だからね」
「はい、店長」
そんなやり取りを重ねるうちに、その呼び方にも少しずつ慣れていった。
一か月ほど経つころには、直樹がレモンにいることを不思議に思う客もほとんどいなくなっていた。橋本は当然のように話しかけ、彩音も忙しいときには遠慮なく仕事を頼む。最初は心配していた和子も、今では買い出しを頼むほど信用している。
円香にとっても、いつの間にかそれが日常になっていた。
「直樹さん、三番お願い。あとティラミス二つ」
「分かりました」
「ごめん、四番お会計」
「僕が行きます」
「ありがと」
言わなくても動いてくれることが、思っていた以上に楽だった。単に仕事が減ったからではなく、一人で店の全部を見なくてもいいことが、こんなに心強いとは思わなかった。
誰かが隣にいるだけで、店というものはずいぶん違って見えるらしい。
ある日の閉店後、和子と彩音を見送り、最後の客が帰ると、直樹が表の看板を中へ入れた。
「終わりました」
「ありがと。お疲れ」
「お疲れさまでした」
直樹がエプロンを外すあいだに、円香はレジを締めて売上を確認した。
「よし、合ってる」
「では、僕も上がります」
「あ、待って」
コートを取ろうとした直樹を呼び止める。
「はい?」
「紅茶飲んでく?」
少し驚いた顔をされたので、円香は「嫌ならいいけど」と付け足した。
「嫌とは言っていません」
「じゃあ座ってて」
棚を開けて一つカップを取り、それからもう一つ選ぶ。自分には小さな花柄、直樹には縁に細い緑の線が入った白いカップを選んだ。
「それ、最初に来た日に出してくれたものですね」
円香は手元を見た。
「覚えてたの?」
「覚えています」
「へえ」
何となく、それ以上は聞けなかった。
レモンブレンドを二人分淹れて向かいに座る。照明を少し落とした店内は静かで、客のいないレモンで誰かと紅茶を飲むことは、円香にはほとんどなかった。
「……変な感じ」
「何がですか?」
「直樹さんがこっち側にいるの。最初は普通にそこ座ってたじゃん」
円香は、直樹が初めて座った二人掛けの席を指した。
「そうですね」
「紅茶に文句言って、皿洗わされて、今は従業員」
「ずいぶんな経歴ですね」
「私が言うのもなんだけどね」
二人で笑った。
それから今日来た客のことや、橋本がまた同じ映画の話をしていたこと、彩音が休憩中に新しい曲を聴かせてくれたことなどを話した。
仕事の延長のようでいて、少し違う。
紅茶が半分ほどになったころ、直樹が口を開いた。
「店長、この茶葉、やはり少し短めのほうが――」
「ちょっと待って」
「はい?」
「今、仕事中じゃないよね」
「そうですね」
「じゃあ店長じゃなくていいよ」
直樹が黙った。
「……何と呼べば?」
「知ってるでしょ、名前」
「もちろん知っていますが」
「じゃあそれで。仕事中は店長、閉店したら円香」
「分ける必要がありますか?」
「ある」
「なぜですか?」
「今決めたから」
「理由になっていませんね」
「店長命令」
「もう閉店していますが」
「細かいなあ!」
直樹が笑った。
「分かりました。では……円香」
たった二文字の自分の名前なんて、毎日のように誰かに呼ばれている。それなのに直樹の声で呼ばれると、なぜか少しだけ違って聞こえた。
「……何」
「いえ。呼んでみただけです」
「何それ」
「練習です」
「名前呼ぶのに練習いる?」
「今まで店長と呼んでいたので」
「まだ一か月じゃん」
「もう一か月です」
「変なの」
円香は少し冷めた紅茶を飲んだ。
「……直樹さんに名前呼ばれると、変な感じする」
「では、店長に戻しましょうか」
「それは嫌」
即答してから、円香は自分でも少し驚いた。直樹も目を瞬かせる。
「……嫌なんですか?」
「せっかく決めたんだから」
「そういうことにしておきます」
「何その言い方」
「何でもありません」
「絶対なんか思ってるじゃん」
結局、その日は閉店してから一時間近く話していた。
「じゃあ、お疲れ」
「お疲れさまでした」
店の外へ出てシャッターを下ろし、鍵を掛けるころには、商店街もすっかり静かになっていた。
「では、また明日」
「うん。また明日」
歩き出した直樹を見て、円香はなぜか反射的に呼び止めた。
「あ、直樹さん」
振り返った彼と目が合ったところで、言うことなど何もなかったと気づく。
「はい?」
「……何でもない」
「そうですか」
直樹は少し不思議そうにしてから、「おやすみなさい、円香」と言った。
「……おやすみ」
商店街の角を曲がるまでその背中を見送りながら、円香は自分でも分からないまま考えた。
もしかしたら、もう一度だけ名前を呼ばれたかったのかもしれない。
翌朝、直樹はいつも通り「おはようございます、店長」と言った。
仕事中なのだから、それでいい。そのほうがいいはずなのに、閉店時間が近づくころになると、円香は少しだけ時計を気にするようになった。
最後の客を見送って看板を入れ、エプロンを外せば仕事は終わる。その夜も円香は棚を開け、昨日とは違うカップを選んだあと、当たり前のようにもう一つ手に取った。
「直樹さん」
「はい」
「今日も飲む?」
直樹が笑った。
「いただきます」
円香は二人分の茶葉を量り、湯を沸かした。
それはまだ、特別なことではない。閉店後に店長と従業員が一緒に紅茶を飲んでいる、ただそれだけのことだった。
けれど、このころから純喫茶レモンには、営業時間が終わったあとだけの小さな習慣ができた。
仕事中は「店長」で、閉店後は「円香」。
そしてテーブルには、いつも二つのカップが並ぶようになった。




