十五秒
純喫茶レモンに、初めて彼が来た日のことを、円香はよく覚えている。
運命的な何かを感じたからではない。
扉が開いた瞬間に目が合ったわけでもなければ、胸が高鳴ったわけでもない。むしろその日の円香は、初めて見るその男のことを、ちょっと面倒くさい客だと思った。
商店街の片隅にある純喫茶レモンは、店名だけを聞けば昔ながらの喫茶店だが、珈琲ではなく紅茶を専門にしている。
深緑の壁に、使い込まれた木のカウンター。四人掛けのテーブルが三つと、二人掛けが二つ。決して広くはない店内には、円香が気に入って集めたカップが並んでいる。
形も色も揃っていない。
白地に青い花が描かれたものもあれば、金色の縁取りがされたもの、ころんと丸いもの、やけに薄くて扱いに気を遣うものまである。
「円香ちゃん、新しく届いた茶葉、こっちでいい?」
厨房から顔を出したのは、レモンの厨房を任せている和子だった。六十代で、円香よりずっと長く料理をしてきた人でもある。
「うん、そこ置いといて。あとで見る」
「分かった」
和子が厨房へ戻ったところで、入口のベルが鳴った。
円香はカウンターの中でカップを拭きながら、いつもの調子で声を出す。
「いらっしゃいませ」
「円香ちゃん、客の顔くらい見て言いなさいよ」
カウンター席から口を挟んだのは、常連の橋本だった。週に何度もレモンへやって来ては、紅茶一杯でよく喋る。
「橋本さんに言ってないよ」
「分かってるよ。俺もう一時間いるから」
「じゃあそろそろ帰る?」
「ひどくない?」
「この前、映画のネタバレしたから」
「まだ根に持ってんの?」
「犯人言ったじゃん」
「あれは話の流れで」
「上映中の映画の犯人を話の流れで言うことある?」
「あるよ」
「ないよ」
そんなやり取りをしながら顔を上げて、円香はようやく新しい客を見た。
黒いコートに、灰色のマフラー。背が高く、短い黒髪はきちんと整えられている。派手さはないが、どことなく目を引く、端正な顔立ちの男だった。
「お好きな席どうぞ」
「ありがとうございます」
男は軽く店内を見回してから、窓際の二人掛けに座った。
円香がメニューと水を持っていく。
「決まったら呼んでください」
「もういいですか?」
「はい」
「レモンブレンドを。ストレートでお願いします」
「かしこまりました」
初めて来る客が店名のついたブレンドを選ぶのは珍しくない。
円香はカウンターへ戻り、茶葉を量った。ポットを温め、湯を注ぎ、時間を見る。
今日の茶葉は昨日開けたばかりだった。
香りを確かめながら抽出し、棚から白いカップを取る。縁に細い緑の線が入った、円香のお気に入りの一つだ。
「お待たせしました。レモンブレンドです」
「ありがとうございます」
男がカップを受け取る。
そのとき初めて、円香は彼の手が大きいことに気づいた。指が長く、節の目立つ骨張った手で、白いカップが少し小さく見える。
それだけだった。
男は静かに紅茶を飲み、文庫本を読んでいた。橋本のように話しかけてくることもなければ、長居をするわけでもない。
三十分ほどして席を立ち、レジへ来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます。六百五十円です」
会計を済ませ、円香がレシートを渡そうとしたときだった。
「あの、一つ聞いてもいいですか」
「はい?」
「この紅茶は、いつも同じ時間で淹れているんですか?」
円香の手が止まった。
「……抽出時間ですか?」
「はい」
「基本は決めていますけど、茶葉の状態を見て調整します」
「そうですよね」
男はそこで少し言いにくそうにした。
だったら聞かなければいいのに、と円香は思う。
「何か?」
「いえ。今日の茶葉なら、もう少し短くてもいいように思いました」
「……短く?」
「すみません。余計なことを」
余計なことだ。
円香は笑顔を崩さなかったが、心の中では即答していた。
「少しだけ、香りが隠れてしまっている気がして」
「そうですか」
「でも、美味しかったです」
「ありがとうございます」
男は軽く頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
ベルが鳴り、扉が閉まる。
円香は数秒その扉を見てから、カウンターへ戻った。
「何あれ」
「紅茶に何か言われた?」
しっかり聞いていたらしい橋本が、面白そうにこちらを見る。
「ちょっと短いほうがいいんじゃないかって」
「へえ。円香ちゃんに紅茶の淹れ方言うなんて勇気あるねえ」
「別に怒ってないし」
「怒ってる顔だよ」
「怒ってません」
「眉間」
「橋本さん、そろそろ帰ったら?」
「ほら怒ってる」
橋本は楽しそうに笑った。
腹が立つのは、男の言い方が偉そうだったからではない。
むしろ逆だった。
終始丁寧で、知識をひけらかすような様子もなく、最後にはきちんと「美味しかった」と言った。
だから余計に、適当に聞き流すことができなかった。
閉店後。
和子が帰り、店内の片づけも終わったあと、円香は昼間と同じ茶葉を出した。
別に気にしていたわけではない。
客に言われたから試すわけでもない。
店で出しているものを確認するのは店長として当然のことだ。
自分にそう言い聞かせながら、いつもより抽出時間を十五秒だけ短くする。
カップへ注ぎ、香りを確かめてから一口飲んだ。
「…………」
もう一口。
円香は眉を寄せた。
わずかな違いだった。言われなければ、その日の営業中には気づかなかったかもしれない。
けれど確かに、こちらのほうが香りが立っている。
「……むかつく」
誰もいない店で呟いてから、残りも全部飲んだ。
三日後。
カラン、とベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げた円香は、一瞬だけ言葉に詰まりそうになった。
黒いコートに、灰色のマフラー。
あの男だった。
「こんにちは」
「……こんにちは。お好きな席どうぞ」
男は前回と同じ二人掛けに座った。
円香はメニューを持っていったが、おそらく必要ないだろうと思っていた。
「ご注文は?」
「レモンブレンドをお願いします」
「ストレートで?」
言ってから、覚えていたことを悟られたような気がして少し悔しくなる。
「はい」
「かしこまりました」
カウンターへ戻り、茶葉を量る。
円香は時計を見た。
十五秒。
前回より、十五秒だけ短くした。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
男は何も言わずにカップを持ち上げ、一口飲んだ。
円香はカウンターへ戻ったものの、妙に気になる。
別に感想を待っているわけではない。いつも通り仕事をしているだけだ。
そういうことにして、何度か客席のほうを見た。
男は普通に紅茶を飲んでいた。
結局、飲んでいるあいだには何も言わなかった。
会計のときになって、ようやく男が口を開く。
「美味しかったです」
「ありがとうございます」
「前回より」
円香は顔を上げた。
「十五秒ですよ」
言った直後に、しまったと思った。
男が少し目を見開き、それから笑った。
「試してくださったんですね」
「違います。店として確認しただけです。別にあなたに言われたからじゃなくて」
「僕もそう思います」
「そこはちょっと謙遜するとこじゃない?」
「すみません」
謝りながら笑っている。
やっぱり少し腹が立つ。
でも、前回ほどではなかった。
「名前」
「はい?」
「何ていうんですか」
男が不思議そうな顔をする。
「常連さんは名前で呼ぶことあるから」
「僕、まだ二回目ですが」
「三回来たら常連」
「では、まだ違いますね」
「次来るなら同じでしょ」
男は少し考えてから答えた。
「桜庭直樹です」
「桜庭さん」
「直樹でいいですよ」
「なんで?」
「常連さんは名前で呼ぶんでしょう?」
「まだ二回目だけど」
「次に来るなら同じなんですよね?」
自分の言葉をそのまま返され、円香は黙った。
「……直樹さんね」
「はい」
「私は円香。店長」
「知っています」
「え?」
「橋本さんが何度も呼んでいたので」
「ああ……」
そういえば、あの日も橋本はずっと「円香ちゃん」と呼んでいた。
「じゃあ、また来ます」
「三回目?」
「そうなりますね」
直樹は軽く頭を下げて店を出ていった。
そして本当に、また来た。
三回目。
四回目。
五回目。
直樹は週に何度かレモンへ来るようになった。
注文はほとんどレモンブレンドだったので、そのうち円香は彼が席に座る前からポットを温めるようになった。
「まだ頼んでませんが」
「どうせレモンブレンドでしょ」
「今日は違うかもしれません」
「じゃあ何にする?」
「レモンブレンドで」
「ほら」
そんな会話をする程度には、直樹はレモンの風景に馴染み始めていた。
土曜日の午後、レモンは珍しく混んでいた。
四人掛けも二人掛けもほとんど埋まり、厨房では和子が注文の入った軽食を作っている。歌手を目指しながらレモンでアルバイトをしている彩音も出勤していたが、それでも手が足りない。
「店長、二番レモンブレンド二つです!」
「了解! 三番のティラミス出した?」
「今出します!」
「円香ちゃん、俺おかわり!」
「橋本さんちょっと待って!」
「俺ずっと待ってるよ!」
「まだ三分!」
洗い場にはカップと皿が溜まり始めていた。
円香が次の紅茶を淹れていると、入口のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ!」
反射的に声を出してから顔を上げると、直樹が立っていた。
「……すごいですね」
「見れば分かるでしょ!」
「出直しましょうか?」
「待って」
帰ろうとした直樹を止める。
「暇?」
「今ですか?」
「うん」
「紅茶を飲みに来たくらいには」
「じゃあ手洗って」
「はい?」
「皿洗って」
直樹が洗い場を見たあと、円香を見る。
「僕、客なんですが」
「知ってる! お願い!」
「店長、お客さんに何頼んでるんですか!」
彩音のもっともな声が飛んできた。
「だって無理なんだもん!」
「それはそうですけど!」
直樹はしばらく円香を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「紅茶一杯でいいですか」
「レモンブレンドつける」
「僕の労働力は紅茶一杯ですか」
「ティラミスもつける!」
「交渉の仕方が怖いですね」
「お願い、直樹さん!」
「……分かりました」
直樹はコートを脱ぎ、袖を捲った。
そのとき、円香はまた彼の手に目がいった。長い指に、目立つ節。初めて見たときから妙に印象に残っている、大きく骨張った手だった。
「どれ洗えばいいですか」
「そこ全部。あ、でもそのカップはこっちに置いて。私のお気に入りだから」
「……全部お気に入りなのでは?」
「そうだけど?」
「聞いた僕が悪かったです」
客に皿を洗わせている状況がおかしいことは分かっていたが、考えている余裕はなかった。
直樹は意外なほど手際がよかった。
洗ったカップを置く場所を一度教えれば覚え、彩音が下げてきた皿を受け取り、手が空けば布巾まで交換している。
「直樹さん、それ終わったらこっちお願い!」
「はい」
「ごめん、それじゃなくて白いほう!」
「これですか?」
「そう、それ!」
いつの間にか普通に働いている。
しかも妙に馴染んでいた。
ようやく客足が落ち着いたころには、洗い場に積まれていた食器もきれいになくなっていた。
「……本当にすみませんでした」
円香は直樹の前にレモンブレンドと紅茶ティラミスを置いた。
「今さらですね」
「ちゃんと報酬」
「ありがとうございます」
「ティラミス大きめにしたから」
「買収ですか?」
「お礼です」
直樹は笑ってフォークを取った。
円香も向かいに座りたかったが、まだ営業中なのでカウンターの中に立ったまま話す。
「直樹さんって、今仕事何してるの?」
「今はしていません」
「そうなの?」
「前の仕事を少し前に辞めて、次を探しているところです」
「へえ」
「どうしました?」
「いや、皿洗い上手だったから」
「就職先を皿洗いで決めるつもりはありませんよ」
「分かってるって」
円香は笑った。
客に皿を洗わせるなんて、やっぱりおかしい。今日限りにしなければならないし、次に忙しくなっても頼むわけにはいかない。
そう思っているのに、さっき洗い場に立っていた直樹の姿が妙にしっくりきていた。
「また来る?」
気づけば、そんなことを聞いていた。
直樹はティラミスを食べながら、何でもないことのように答えた。
「来ますよ」
「そっか」
「もう常連ですから」
「自分で言うんだ」
「三回来たら常連なんでしょう?」
「そうだった」
円香は笑いながら、空いたカップを片づけた。
このときの円香は、まだ知らなかった。
次に直樹が来たとき、自分が彼に何を言い出すのかも、客として座っていた桜庭直樹が、やがてエプロンをつけてカウンターの内側に立つことも。
もちろん、もっと先のことなど知るはずもない。
閉店後の静かな店で、二人分の紅茶を淹れることが当たり前になり、片方のカップがないだけで、どうしようもなく寂しくなる夜が来ることも。
この日も、レモンの棚には円香のお気に入りのカップがたくさん並んでいた。
けれど、まだ。
二人分ではなかった。




