二つ
翌朝、九時五十分。
円香は時計を見ないようにしていた。
見ないようにしている時点で、ものすごく意識しているのだが、本人としては見ていないつもりだった。
カウンターを拭く。
カップの位置を直す。
もう一度直す。
やっぱり元に戻す。
「……何やってんだろ」
昨夜のことを思い出す。
『円香が好きです』
『円香がいいです。あなたがいいんです』
頬が熱くなった。
「無理」
誰もいない店内で呟いた、そのときだった。
扉のベルが鳴る。
「おはようございます」
円香の背筋が伸びた。
振り返る。
直樹がいる。
昨日、自分を抱きしめた人。
何度も好きだと言った人。
大きな手で頬に触れた人。
そして今、何事もなかったような顔で出勤してきた人。
「……おはよ」
「はい」
「…………」
「…………」
気まずい。
いや、気まずいというより、どうしていいのか分からない。
直樹はいつも通りエプロンをつけた。
「店長、今日の予約は?」
店長。
円香は直樹を見る。
「……二組」
「何時ですか?」
「十二時と、一時半」
「分かりました」
普通だ。
あまりにも普通だった。
「直樹」
「はい」
「普通だね」
「何がですか」
「いや……昨日あんなことあったのに」
直樹の手が止まった。
「仕事中ですから」
「そうだけど」
「店長が決めたんでしょう。仕事中は店長、閉店後は円香だと」
「そうだけどさ」
「では、店長」
「何」
「そのカップ、さっきから三回位置を変えています」
円香は手元を見る。
「……これは微調整」
「最初の位置に戻っていますよ」
「うるさい」
直樹が笑った。
その顔を見たら、少しだけ緊張がほどけた。
開店してしまえば、考えている暇はなかった。
昼前から客が続き、円香は紅茶を淹れ、直樹は注文を取り、彩音が料理を運ぶ。
「店長、レモンブレンド二つです」
「はい」
「円香さん、三番のお客様、紅茶ティラミス追加です」
「彩音ちゃん、お願い」
「はい」
いつものレモンだった。
いつもの声。
いつもの仕事。
ただ一つ困るのは、直樹が近くに来るたび、昨夜のことを思い出すことだった。
「店長、後ろ通ります」
「うん」
背中すれすれを直樹が通る。
それだけで意識する。
「店長、これを」
「はい」
カップを渡される。
指が触れる。
円香はびくっとした。
「……店長?」
「何でもない」
「そうですか」
「何」
「いえ」
絶対分かっている。
腹が立つ。
でも好きだ。
もっと腹が立つ。
午後になると橋本が来た。
「いらっしゃい」
「どうもどうも」
橋本はいつものカウンター席に座る。
「今日は――」
「アッサムでしょ」
「まだ言ってない」
「違うの?」
「アッサムです」
「ほら」
円香が準備を始める。
橋本はカウンターの中を眺めた。
直樹がグラスを拭いている。
円香が茶葉を量っている。
しばらくして、橋本が言った。
「なんかあった?」
円香の手が止まった。
「何が?」
「二人」
「何もないけど」
「ほんと?」
「ほんと」
「直樹くん」
「はい」
「なんかあった?」
「何もありませんよ」
「怪しい」
「何がですか」
「先週まで二人とも葬式みたいな顔してたのに、今日は妙に普通」
「普通ならいいじゃん」
「普通すぎて怪しいんだよ」
「橋本さん」
「はい」
「アッサム濃くするよ」
「脅しが紅茶専門店なんだよなあ」
橋本が笑う。
直樹も笑った。
円香は顔を上げない。
上げたらたぶん、笑ってしまう。
夕方、彩音が帰る時間になった。
「お疲れさまでした」
「お疲れさま。彩音ちゃん、明日十二時ね」
「はい」
彩音はエプロンを外してから、円香と直樹を見た。
「……何?」
「いえ」
「何その顔」
「何でもないです」
「絶対何かあるじゃん」
「円香さん」
「何」
「今日、直樹さんと仲いいですね」
「いつもでしょ」
「先週より」
「彩音ちゃん」
「お疲れさまでしたー」
「逃げた!」
彩音は笑いながら店を出ていった。
円香が振り返ると、直樹と目が合った。
「何笑ってんの」
「笑っていません」
「笑ってる」
「気のせいです」
「絶対笑ってる」
「仕事してください、店長」
「はいはい」
でも、やっぱり嬉しかった。
先週まで、好きだと気づく前より遠くなった気がしていた。
今は同じ距離に立っているのに、あのころよりずっと近い。
閉店時間になった。
最後の客を見送り、直樹が看板をしまう。
円香がレジを締め、直樹がテーブルを拭く。
やがて、すべての仕事が終わった。
「お疲れさまでした、店長」
「お疲れさま」
直樹がエプロンを外す。
円香は棚の前に立った。
少し前まで、ここで迷っていた。
一つ取るか。
二つ取るか。
今日は迷わない。
カップを二つ出した。
「直樹」
「はい」
「今日も飲む?」
直樹が円香を見る。
「いただきます」
「じゃあ淹れよ」
「僕がやります」
「昨日もやったじゃん」
「今日もやります」
「じゃあ一緒に」
「はい」
二人で紅茶を淹れる。
円香が茶葉を量り、直樹がポットを温める。
仕事中なら、ただの作業だ。
でも今は、閉店後だった。
二つのカップを持って、いつものテーブルにつく。
「……ねえ」
「はい」
「今、店長じゃないよ」
直樹が少し笑った。
「分かっています」
「じゃあ?」
「円香」
「うん」
名前を呼ばれる。
昨日までとは、また違って聞こえた。
円香は紅茶を一口飲んだ。
「直樹」
「はい」
「確認なんだけど」
「何でしょう」
「私たちって……付き合ってるんだよね?」
直樹が止まった。
「……そこを確認していませんでしたね」
「してないよね」
「好きだとは言いました」
「私も言った」
「抱きしめました」
「うん」
「でも、付き合ってくださいとは言っていません」
「言ってない」
二人で黙る。
「何やってんの、私たち」
「昨日はそれどころではなかったので」
「まあね」
直樹がカップを置いた。
少しだけ姿勢を正す。
「では、改めて」
「え、待って」
「待ちません」
「心の準備が」
「昨日、僕に何度も好きだと言わせた人が何を言っているんですか」
「それとこれは別なの」
「円香」
「……はい」
直樹がまっすぐ円香を見る。
「僕と付き合ってください」
昨日あれほど好きだと言われたのに、たったそれだけで胸がいっぱいになった。
「……はい」
「よかった」
「断ると思った?」
「思ってはいませんでしたが、少し緊張しました」
「直樹でも緊張するんだ」
「しますよ」
「全然見えない」
「見せないようにするのは得意なので」
「それ、もうやめてよ」
円香は少し笑った。
「嫌なことも、寂しいことも、ちゃんと言って」
「努力します」
「努力じゃなくて言うの」
「円香もですよ」
「私は言うよ」
「一週間、何も言わずに一人で紅茶を飲んでいた人が?」
「……それは」
「夜中に『直樹』とだけ送ってきた人が?」
「忘れて」
「忘れません」
「直樹!」
直樹が笑った。
「そういえば」
円香はテーブルの二つのカップを見る。
「私、直樹が休みの日に、間違えて二個出したことあったじゃん」
「はい。あれで僕は、自分の気持ちに気づきました」
「私、あのとき一個戻したんだよね」
「知っています」
「直樹もやったことある?」
直樹が黙った。
円香は顔を上げた。
「あるの?」
「……あります」
「いつ?」
「円香が高瀬さんと食事に行った日です」
「え」
「閉店後、いつもの癖で二つ出しました」
「それで?」
「一つ戻しました」
円香はしばらく直樹を見た。
「同じじゃん」
「そうですね」
「何それ」
「僕も今、そう思っています」
「二人とも一人で何やってたの」
「本当に」
円香は笑った。
でも、少し泣きそうにもなった。
同じだった。
自分だけが寂しかったわけではない。
自分だけが、二つ目を戻していたわけでもない。
「もう戻さなくていいね」
円香が言う。
直樹は少しだけ目を細めた。
「はい」
「直樹が休みの日は?」
「それは一つにしてください」
「二個出すかも」
「僕はいませんよ」
「癖で」
「では、翌日僕が使います」
「それ意味違うでしょ」
「そうですね」
二人で笑った。
テーブルの上に置いていた円香の手に、直樹の指が触れた。
円香は手を見る。
大きくて、節の目立つ、ごつごつした手。
直樹は少し迷うように指を止めた。
円香から、その手を握った。
「今日は逃げないんですね」
「逃げないよ」
「よかったです」
「……私、直樹の手好き」
言ってから後悔した。
「今のなし」
「なぜですか」
「恥ずかしいから」
「僕は嬉しいですが」
「忘れて」
「忘れません」
「離して」
「嫌です」
「直樹」
「はい」
「離して」
「嫌です」
「従業員のくせに」
「今は閉店後です」
「あ」
「円香が決めたんでしょう」
「こういうときだけ使うのずるくない?」
「便利なルールですね」
「作らなきゃよかった」
「僕は気に入っています」
直樹の指が、円香の指に絡む。
円香はもう、離してとは言わなかった。
「円香」
「ん?」
「好きです」
「……急だね」
「安心するまで言うと約束したので」
「覚えてたの?」
「もちろん」
「じゃあ、もう一回」
「好きです」
「もう一回」
「円香が好きです」
「……私も」
円香は直樹の手を握ったまま、紅茶を飲んだ。
少しだけ濃い。
「今日の、ちょっと濃くない?」
「そうですか?」
「うん」
「抽出時間はいつも通りです」
「茶葉多かったんじゃない?」
「円香が量りましたよ」
「……直樹がポット温めすぎたとか」
「関係ありません」
「十五秒?」
「今日は十五秒のせいにはできません」
「細かいなあ」
「最初からです」
「そうだった」
円香は笑った。
初めて会った日。
たった十五秒の話をした。
少し面倒くさい客だと思った。
その客が何度も店へ来るようになり、皿を洗い、エプロンをつけ、いつの間にかカウンターの内側に立つようになった。
仕事中は「店長」と呼ばれ、閉店すれば「円香」と呼ばれるようになった。
そして気づけば、閉店後のテーブルには二つのカップが並ぶようになっていた。
それが一つになった夜もあった。
一つしかないことが、どうしようもなく寂しかった夜もあった。
もう一つを棚へ戻したこともある。
いない人の分まで淹れたこともある。
それでも今は、目の前に直樹がいる。
「直樹」
「はい」
「明日も飲む?」
「もちろん」
「明後日も?」
「円香が飽きるまで」
「飽きないかもよ」
「では、ずっとですね」
「……そういうこと普通に言うよね」
「嫌ですか?」
「嫌じゃない」
円香はカップを持ち上げた。
向かいでは、直樹も同じように紅茶を飲んでいる。
純喫茶レモンの棚には、今日も円香のお気に入りのカップが並んでいる。
そこから一つを選んで、一人で紅茶を飲んでいたころもあった。
やがて、もう一つを選ぶことが当たり前になった。
迷って一つを戻す夜もあった。
けれど、もう。
もう片方を、棚へ戻す必要はない。
仕事中は「店長」。
閉店後は「円香」。
そして閉店後のテーブルには、今日も二つのカップが並んでいる。
二人分。




