第九十八話 佐藤 二
「これからお二人にやってもらうのは二つのことです」
師弟ともども選択肢を二つに絞るのが好きなようだ。ただその内容は走りながら聞くには、世界で最も不向きな話だった。
佐藤はアイラの核となるプログラムを、「ネットに解放する」と言った。
サイズ自体は十六個の古いRAMに収まるものなので、通常であれば一瞬だ。ところが、そのコアにアクセスする権限を持つ者が、現状では堤以外いないと言う。
「これを突破するには直接アイラを監視システムから、ハードウェア的に切断してもらう必要があります」
最初に聞いた時は、それがそれほど問題だとは思えなかった。SEという名の何でも屋時代の私は、物理的なサーバーの保守作業の経験もあった。もちろん規模が全く違うが、間違えさえしなければ、それほど大変な作業ではないはずだ。ところがそうではなかった。もう、次元が全く違っていた。
上杉は化石レベルのアイラのコアを、現在の環境で使えるようにするために、あらゆる手を尽くした結果、その仕組みについては完全なブラックボックスになっていたのだ。
「私は基本的にアイラのソフトウェア、データサーバーとの連携については誰よりも詳しい自信があります。ただ、ハードに関してはほとんど分かりません」
実務家らしい明晰な彼女の声が、少し暗くなった。エレベーターの中でそれを聞いて、目の前が暗くなった。それは彼女だけが原因ではなかった。何十年ぶりかの全力疾走で息が切れていたのだ。誰かが『三十過ぎたら走らないことです』と言っていたのを思い出した。それでも佐藤は意外な方法で回路図の解析を試みると言った。
「アイラにやってもらいます」
一瞬、耳を疑った。
「はい?」
間の抜けた私の返事にも関わらず、彼女は冷静にその理由を説明した。
「ハードについては少なくとも私よりアイラの方が詳しいですし、処理速度について言えば圧倒的に私より上です。それに、私は別のことをしなければなりません」
それは現在のLPTで、アイラが看取った一二四万七八三二人のデータを、田中がやっていたように破片にして、マグネットリンクにしてネットにアップするという作業だった。それがなければ例えアイラをネットに逃すことができても、彼女はほとんど何もできないと言う。本社外のサーバーにある、それらのデータの具体的な圧縮や断片化、救出されたアイラがそれらのデータにアクセスする方法などの仕組みについては、私のレベルでは理解できなかった。いずれにしろ、ずっと彼女を見守ってきた佐藤が言うことを疑う理由はなかった。実のところ回路図については、既にアイラには指示済みで、解析が終了次第、私に知らせが入ることになっていた。彼女自身も私たちと会話をしながら、自分の作業を開始していた。
「……あの、じゃあ、私は?」
長谷川が戸惑った様子でそう言った。確かに、今の佐藤の話なら、彼女が私と一緒に行動する必要はない。
もちろん、必要はあった。それは私が担った指示とは別の意味で難しいものだった。
「長谷川さんには、アイラを説得してもらいます」
彼女の形の良い唇から、
「はい?」
という返事が聞こえた。私ほどではないが、やっぱり間抜けに聞こえた。難題の前に、人は平等なのだ。
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