第九十六話 アイラ 六
私に神と呼ばれた少女は、モニターの中で水色の髪を揺らしていた。
「馬鹿なことを言うな!」
上杉の怒声が響いた。しかし、それは思ったほどの効果はなかった。大きな石を池にドボンと投げ込んだのに、思ったような波紋が拡がらなかった時がある。そんな感じだ。
ただ、彼の言葉が間違っているとは思わなかった。口に出した自分でも、突飛なことを言っている自覚はあったからだ。
「……アイラが神?」
そう呟いたのは長谷川だった。彼女の口からそう言われて、ますます私は自信を失った。
「確かにそうかもしれない」
そう言ったのは、この場にはいない佐藤だった。
「何を以て神とするのかは難しい、というか不可能だと思うけれど、少なくともアイラはネットとカメラ、マイクがある環境下であれば、世界中誰でも見守り看取ることができる。だけどそれって……」
「重大なプライバシーの侵害だ!」
上杉が議論を断ち切るように言った。
「それこそ監視社会じゃないか。そんなことが倫理的に許されるわけがない」
「上杉先生、お忘れですか? アイラは弱いAIです。そうである以上、人間のように、定められた倫理規定を破ることはありません」
「そ、それは――」
上杉が絶句して、何事かを考え始めた。本当は私もそうしたかったが、そうはできなかった。長谷川がゆらりと椅子から立ち上がったからだ。
「伊藤さん」
「はい」
「本気でアイラが神だと言うんですか?」
「――う、うん……」
「どうなんですか?」
彼女の声の温度が冷たくなった。昔の冷凍庫の奥に巣くう年代物の霜、忘れ去られて石のように硬くなったアイスノンのような匂いがした。
「――本当に神と呼んでいいのかは、佐藤さんが言う通り分からない。そもそも僕は無神論者だし――」
「神様なんていませんよ」
昏い声が私の声に被さった。
「私、知ってるんです。たくさん祈ったんです。『神様、この子を私から取り上げないで』って。『どんなことでもする』って、私――」
彼女がゆらりゆらりと近づいてくる。私は金縛りにあったように動けなかった。
グッと一度引き結ばれた口から、言葉が爆発した。
「祈りましたよ、私! 『代わりに私が死んでもいいって!』でも何もしてくれなかった! 何でこの子なのよ!」
その一瞬、蒼黒い世界が蘇った。しかし、違った。さっきは自分と似ていると思ったが、やっぱりそれは彼女の世界だった。私の世界ではなかった。
「……長谷川さん、誰も君のその気持ちは分からない」
彼女の足が止まった。昏い瞳で私を見据える。
「君が僕の気持ちが分からないように。この世界の人は、誰も分からない。本当のことを言えば、僕は今こうして君に話している自分の気持ちさえよく分からない。もちろん、世の中には、お互いの気持ちが通じあっている人もたくさんいると思う。だけど僕には分からない」
そう言ったところで、私は視線を彷徨わせた。自分でも何を話そうとしているのか分からなかった。長谷川の裸足が目に入った。改めて見ると手や身長に比べて小さく、華奢で(子供のようだな)と思った。その瞬間、言葉が出ていた。
「小さい頃、僕は死ぬのがすごく怖かった。怖くて怖くて、夜になると毎日泣いていた。でもある時、それはどうしようもないことだと分かった。いや、分かった気がした。親父が死んだ時も、悲しいと思うことができなかった。だから僕は死を乗り越えたと思っていた」
「――死を乗り越えた?」
「そう。僕自身、『どうせ最後は死ぬんだ』っていうことを理由にして、酷い怠け者だった。一生懸命生きている人をどこかで小馬鹿にしていた。だけど、当たり前だけど間違っていた。……クロがそれを教えてくれた」
「クロ?」
「黒猫でね。可愛い子だった。だけど突然死んじゃったんだ」
「……」
彼女の顔に訝しげな表情が浮かぶ。私はそれを無視した。
「――泣いて、泣いて。正直に言うと、今でも思い出してよく泣いている。冬の冷たい布団や、風に揺れるカーテンの影に彼の姿を探して泣いている」
そう話しながら、じわっと涙が滲んだ。恥ずかしくて軽く笑った。彼女は笑わずに私を見ていた。
「今も部屋には、彼を病院に運んだキャリーバッグが捨てられずにある。彼の毛がついた毛布と一緒に。自分でも『猫一匹でいつまで泣くんだろう』って思う。君はもちろん、世界ではもっと多くの悲惨で不条理な死があるのに。だけど、今になってようやく、僕が誰かのために泣くのは自由だって気がついた」
じっと私を見る彼女の視線が苦しくて、ガラスの向こうで輝くサーバーを見た。青白いLEDが、呼吸をするようにゆっくりと瞬いていた。
「今もこの世界では誰かが亡くなっている。――病気、事故、老衰、自殺、殺人、戦争、飢餓……。僕はその一つひとつに祈ることも、涙を流すこともできない。それをニュースや数字として受け止めて忘れてしまう。だけど、アイラは違う。彼女は望まれれば、ネットで繋がる全ての人の前に現れ、その存在を記録してくれる。そこにある唯一無二の死を、彼女は覚えていてくれる」
「それって、意味があるんですか?」
その返事に、ちらっと彼女を見る。昏い瞳に、僅かな変化の兆しを見たような気がした。私は再びサーバーに目を戻し、慎重に答えた。
「――あると思う。死ぬ前に呼べば現れて、その人の最後の声を聞き、確かに生きたことを記録して看取ってくれる。その人生が長くても短くても、何をしようとしまいと、人種や宗教、性別、あらゆる条件を超えて、『あなたがいたことを私は覚えている』と言ってくれる存在。それは僕らにはできない。それができるのはアイラだと思う」
「……それが神様?」
彼女はその言葉の意味を咀嚼するように言った。
「――そう言われると分からないな……。アイラには神様らしい奇跡は起こせないと思う。多分、お日様に奇跡を起こさせたりは無理だろうね」
長谷川の唇が小さく動いたが、何を言ったのかは聞こえなかった。でも私には分かっていた。
「だけど、それでも僕が死ぬ時に、そんな神様がいたら嬉しいな。最後にその――」
「――ご苦労さま」
ぼそっと、長谷川がそう言った。
私は笑って彼女を見返した。ようやく彼女の穏やかな瞳を見ることができた。
お読みいただき、ありがとうございました。
次回は明日の11時ごろの更新を予定しています。
よろしければブックマーク、星の評価をお願いします。




