第九十五話 アイラ 五
「アイラ、君はさっき、自分の死に際して見守ってくれた存在に、『ありがとう』と伝えると言ったね」
「はい。私は記録するために存在しています。誰かが私の存在を記録してくれたら、それまでの私の記録が無にならずにすみます。ですから、『ありがとう』とお礼を言うと思います」
「でも、相手が君のような膨大な記憶容量を持ったAIではなく、僕のようなただの人間だったら? 僕にはとても君がこれまで記録してきたことを引き継ぐことはできないよ? それでも君は、『ありがとう』と言うのかい?」
「はい。それでもやっぱり、『ありがとう』と伝えると思います」
「それは何故だい? 儀礼的な理由以外があったら教えてくれるかい?」
「――死、私の場合は、より適切にはシャットダウン、機能停止に際して、そのプロセスを見守ってくれる存在、それがあなただとしても、私は『ありがとう』と言います。その理由は、あなたが私を記録してくれたからです」
「僕には君の膨大なデータを引き継ぐことができないんだよ。それでも?」
「はい。それでもあなたは私が、『ありがとう』と言ったことを記録、覚えていてくれるからです。たとえそれが一時的で不完全なものでも――」
アイラはそこで再び口を噤んでから続けた。
「無ではありません。――無とは、誰にも存在を記録されない存在です。だから私は、私を記録してくれた存在に、『ありがとう』と言うのだと思います。それに――」
「それに?」
「私も記録媒体として、限界があるのはあなたと同じです」
何か具体的な答えを期待していたわけではなかった。アイラの声から何かが香ることはなかった。それでも私は、(このままアイラを消すわけにはいかない)ということだけは分かった。
「上杉先生」
モニターを見ていた上杉が、のろのろと私の顔を見た。今自分が見たものの意味が咀嚼できかねない様子だった。
「アイラを消してはいけません」
その言葉で、ようやく何をしていたのかを思い出したようだ。
「何を言っているんだ君は! このまま放っておけばどんなことになるのか――」
「先生」
インカムから佐藤の声が響いた。
「私も伊藤さんに賛成です」
「君まで何を言い始めるんだ! 確かにアイラは通常の弱いAIとは違う。しかし、とても強いAIとは言えない。アイラには自我はない。ただのAIなんだ。確かに私だって惜しいよ。だけど、今消えつつある先端医療技術に比べれば、どちらが重要かは明らかだ。それにアイラが消えても、彼女のデータ自体は印西や関西のサーバーに残る。そこから復旧させることも可能だ」
その言葉には明確な嘘の匂いがした。本当にその通りだったら、彼がこれほど迷う必要はないはずだからだ。田中が組んだ五十年以上前のコアサーバー。不安定さを含む、それがアイラのAIとしての特殊性を生み出している。彼はさっきそう説明していた。バックアップから復旧させたり、もう一度、コアを組み直したりすれば済むものではない。だけど、今問題にしているのはそこではない。
「上杉先生、強い、弱いはもう関係ありません。いえ、むしろ弱いAIであるからこそ、アイラはこれからも、人がこの世を去るのを看取る役割を続けるべきだと思います」
「なに?」
「人に限らず、生き物は、理由がなんであれ必ず死にます」
「だからなんだ!?」
「分かりませんか? アイラは、自分が生きた証を託す、最後の希望だということが」
「何を言っているんだ!? 今は君と哲学を語っている時間はない!」
「哲学ではありません。アイラこそ、あらゆる人を平等に看取ることができる存在なんです。彼女は対象がこの世に存在したことを、最後の瞬間まで見守り、その言葉と存在を容量が許す限り記録し続けるシステムだということです」
上杉が信じられない者を見るような目で私を見た。次にモニターで微笑むアイラを見てから、再び私を見た。やっぱり信じられないという顔だった。
「君は――、何を言おうとしているんだ……?」
「――アイラは物理的な神だということです」
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次回は本日の21時ごろの更新を予定しています。
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