第九十二話 伊藤 二
その後も母は相変わらず、
「お父さんは、いつ死んでもおかしくない」
と言い続けた。そう言う母の言葉には、雨に濡れた鉄棒のような錆びた鉄の匂いがした。だけど私は次第に、その言葉や匂いに関心を持たなくなった。そして呪文のように父の死を予言し続ける母に、悲しそうな顔を見せながら、内心では(そりゃそうだよ)と思っていた。多分その頃には、私の目に映る父はすでに死人だった。
その頃からもともと勉強が苦手だった私は、さらに勉強に興味を持てなくなった。死んだら何も残らないのだ。頑張ろうが、頑張るまいが、どうせ最後に死ぬのなら、何をしようが無駄だと思ったのだ。
そんな私を母は、
「普通の子なら、お父さんのために医者を目指したりするもんよ!?」
と詰った。この言葉は、死への達観を理由に、努力することから逃げている自覚があった私にグサリと刺さった。しかし、それで発奮することはなかった。
私が二十歳の夏、母の予言通り、父が亡くなった。合併症による心不全だった。一浪して地方の大学に入ると同時に、一人暮らしをしていた私は、母からの連絡ですぐに帰った。そこには布団に横たわる父がいた。実際に本物の死体を見たのは初めてだったが特に感慨はなかった。私の中ではずっと前に死んでいたからだ。それでも私は涙を流そうと、記憶の中の父との思い出を探したが、結局、涙は出なかった。
死んだ父からは、あの重い布団の匂いがした。
幸い金銭的には余裕があったので、私は大学を続けることができた。母もそれに賛成してくれた。その時の彼女がどういう気分だったのかは分からない。ただ長い闘病生活が終わったことにホッとしている様子はなく、ただ虚ろな感じがした。それ以上のことを窺うには、私と母の間には、もう距離があり過ぎた。
大学三年を迎える春、私は黒猫を拾った。校内に迷い込んだ母猫が、物置小屋で産んだ子猫の一匹だった。子供の頃から猫が飼いたかった私は、友人や当時付き合っていたガールフレンドが止めるのも聞かず、住んでいたアパートの二階で飼い始めた。一階に住んでいるおばさんも猫を二匹飼っていたので、気にすることはなかった。
クロと名づけたその雄の黒猫は、安易な名前にも不満を言うことなくすぐに大きくなった。餌代やトイレの砂代、予防注射や去勢手術と、意外なほどお金が掛かることに気がついて慌てたが、バイトを増やしてなんとか捻出した。触るだけで幸せな気分にしてくれる、素敵なカギ尻尾の彼のためなら、どんなことでもできた。苦手な冬が、彼の温かさで至福の季節に変わっただけで十分だった。私はこの小さな猫と出会って、初めて何かのために生きるということを知った。
大学四年の夏、クロが死んだ。急性腎不全で様子がおかしいと思った時は手遅れだった。一歳四ヶ月だった。年老いた獣医は、「こんなに若いのに……」と言うばかりで、原因は分からなかった。
私は泣いた。父の時には一滴も出なかった涙が止まらなかった。十歳の頃、死ぬことが怖くて泣いた時よりも泣いた。小学生時代に自得したと思っていた私の死への達観は、嘘っぱちだったのだ。骨が軋むほど泣き尽くした。
私は黒く重い湿った布団の匂いに身を沈め、悲しみ続けた。
結局その年、私は大学を留年した。ガールフレンドの励ましや、同期の応援もあったが、ほとんど一年間、私はコンビニのバイトをする以外、何もしなかった。やがて私の周りから人が消えた。一人きりになる恐怖はあった。だけどそれ以上に、たかが一匹の猫の死をいつまでも悲しみ続ける私を、奇異なものとして見る人たちと一緒にいることができなかったのだ。
母が亡くなったのは、私が三十歳の時だった。なんとか大学を卒業し、都内の会社にSEとして就職したことと、会社の近くに引っ越す報告をして以来、互いにほとんど連絡はとっていなかった。金銭的には、毎月自分の口座から一定額を仕送りとして振り込むことと、父の障害年金と遺族年金があり、外に働きに出ることなく暮らせていた。
何度か常識的な繋がり程度は、保とうと思ったこともあったが、私たちの関係は、もうお互いにどうしていいか分からないところになっていた。
異臭に気がついた近隣の住人の知らせだった。管理人に発見された時には、死後一週間経っていた。入浴中のくも膜下出血によるもので現場は酷かったという。それでも父の死後、郊外の一軒家から都内のマンションに引っ越していたので発見は早い方だったらしい。担当の警察官から「こうしたケースでは、二週間を超えることも珍しくない」と言われた。
幸い、「ご遺族が直接見るには忍びない」という配慮で、遺体の確認はせずにすんだ。私が見たのは、彼女の年金手帳や古びた下着、そして結婚指輪だった。それを見ても泣くことはなかった。クロを失った時、この世界から、私がその死に涙を流す存在は無くなっていた。
その頃には、意識的に人との距離を置くようになっていた。どうせ最後は死ぬのだ。誰かのために泣くのはもう嫌だった。
中途採用でLPTに入ったのは、それから十年後だった。SEの仕事は気に入っていたが、徐々に管理職的な立場を要求されることが多くなり、それが嫌だったのだ。LPTを選んだのは、単純に給与が良かったことと、勤務シフトが柔軟だったことの二点だ。
職場を辞める時に、上司に社名を告げると、「世界最大の葬儀屋だな」と言われた。それが皮肉なのか、冗談なのか、あるいは両方なのか分からなかった。十五年近く働いた会社だったが、私は彼を含め誰とも親しく付き合うことはなかった。遅かれ早かれみんな死ぬのに荷物を増やす必要はない。
お読みいただき、ありがとうございました。
次回は明日の11時ごろの更新を予定しています。
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