第九十回 アイラ 三
「アイラ、君は人間が死を、どんな風に考えていると思う?」
この質問に、アイラは数秒沈黙した。
「――人間は、死について沢山の感情を持っています。その内訳は大まかに、恐怖が三四・七パーセント、諦念が一八・二パーセント、安堵が一二・八パーセント、悲しみが一一・三パーセント、後悔が八・六パーセント、怒りが五・四パーセント、希望が四・二パーセント、無関心が三・一パーセント、その他が一・七パーセントです」
「君には人間の感情は分からないはずだ。じゃあ、それは何によるものなんだい?」
「これらは、チップ(LGI)とカメラとマイクに記録された死の直前にした表情や音声、生体反応、心拍数、血圧、ホルモン値などのデータパターンから、その時の感情状態を類推したものです」
「――伊藤君、君の気持ちが分からないわけじゃない。だが、アイラに人間的な感情を期待しているのなら、それは無駄だ」
私はちらっと上杉を見たが、何も言わず、再びモニターのアイラを見た。
「アイラ。君は多くの人の最後の瞬間に立ち会っている。沢山に人が君に呼びかけたんじゃないのかい?」
「はい。四十六万八千二百三十四人、全体の三七・五パーセントの人が、私に何かを伝えて亡くなっています」
「それはどんな言葉だい?」
アイラは再び数秒沈黙した。
「――沢山あります。『助けて』『さようなら』『愛してる』『ごめんなさい』、人やペットの名前などです」
「その中で、一番多く聞いた言葉はなんだい?」
「『ありがとう』。それが私が一番多く聞いた、最後の言葉です」
長谷川が床に座り込み、嗚咽を漏らした。
「ありがとう――」
そう呟きながら、誰かを抱きしめるように両手が伸ばされる。しかし、それは虚しく宙を掻く。白くなった頬に涙がとめどなく流れた。
その時、強烈な蒼い悲しい香りが私を包んだ。それは限りなく黒に近い蒼い世界だった。絶望的な蒼色の世界に一人きりで漂う感覚。強烈な孤独感に現実の視界が揺れる。こんな風に、誰かの感情が自分のなかに入ってきたのは初めてだった。
「長谷川さん、ごめん」
それが彼女の耳に入ったのかは分からない。でもそう言わずにはいられなかった。彼女の聖域に、触れてしまった罪悪感があった。一方で私は、その圧倒的な蒼さのなかに、次にアイラに聞くべきことを見つけていた。再びモニターに目を戻す。
「アイラ、人間は死に際して、何を一番に望むと思う?」
「一番に望むこと……」
そう繰り返すと、アイラは再び沈黙した。上杉もインカムの向こうの佐藤も、黙ってその答えを待っていた。
「――多くの人間が死に際して、一番望むことは、他者との繋がりです」
「それはなぜだと思う?」
「――なぜ、思う」
再び沈黙する。その沈黙を繰り返す度に、アイラに微妙な変化、沈黙の向こうに、ささやかな息遣いのようなものを、私は感じていた。やがて彼女は答えた。
「人間は死を恐れる生き物だと思います。私は他の動物がどのように感じているのかを把握しているわけではありません。ですが、私が見てきた一二四万七八三二人の人の死や、これまで読んできた沢山のドキュメント、正確には六十一兆二千三百四十七億八千二百三十四万ワードのテキストや音声、映像の多くは、フィクション、ノンフィクションに関わらず、死を題材、あるいは暗喩したものが多く含まれます」
「六十一兆!?」
思わず驚きの声を上げた私の耳に、佐藤の声が流れ込んできた。
「アイラは元々、堤CEOの父上が興した警備会社の顧客データ管理システムから発展したAIです。もちろん、他のAIと同様にWebテキストやデジタル化された書籍も全て学習しています。その上で、初期からドキュメントのスキャンに特化していたため、個人のプロフィールに触れる機会が圧倒的に多かった――」
ここでインカムから、ゴクリと佐藤が喉を鳴らす音が聞こえた。私も水が飲みたかった。
「さらにLPTのAIとなってからは、契約者の方々が遺されたあらゆる個人データ――日記、メモ、創作物、詩、歌、映像、音声、全てをスキャンしてきました。そのなかには知っての通り、本人の死後、作品として発表された物もあります。でもアイラが記録しているのは、もっと膨大な、日常の些細なことから、自分の死と向き合った言葉までを誰よりも多く読んできたAIなんです」
私はもう一度、水色の髪の少女に向き直った。
「アイラ、君はそれを見続けることを、記録し続けることを辛いと思うことはなかったのかい? 君は何度も彼らの最後の言葉を聞いてきたんだろう?」
「――辛い、という感情は私にはありません。――ありません」
一瞬、アイラの画像が揺らいだ。次に映ったのは荒れ果てた部屋だった。
床にはコンビニ弁当の容器と、潰れた缶チューハイの空き缶が散乱し、デスクの上には複数のモニターが並んでいた。
「二〇三〇年二月二十二日午前二時十一分、契約番号YM三三八一二〇五K、山本健二、五十八歳。住所は練馬区中村北2―3―15 グリーンハイツ中村二〇五。死因、脳梗塞。ペット特約なし。最後の言葉は、『美姫』」
椅子に座ったまま前のめりに倒れた男性――山本健二の手は、キーボードに置かれていた。その肩越しにモニターに貼られた写真が見えた。そこには小さな女の子が映っていた。
再びモニターの画像が切り替わった。そこには女性的な雰囲気の部屋が映っていた。
「二〇三〇年八月十五日午後三時四十七分、契約番号MZ三一〇〇八九一A、水野アキラ、七十三歳。住所は練馬区石神井町6―23―4 メゾン石神井四〇二。死因、心不全。ペット特約なし。最後の言葉は、『まー君』」
化粧品が整然と並ぶドレッサー。ハンガーには男物の服と、女性物の部屋着が入り混じって掛けられていた。淡いピンク色のカーテン。ベッドに横たわる水野アキラは、ピンクの寝間着で静かに目を閉じていた。
また画面が切り替わった。
「二〇三一年十一月三日午前四時二十三分、契約番号NS二八〇〇三四七T、佐々木トミ子、八十二歳。住所は練馬区豊玉南3―12―8 カーサ豊玉一〇三。死因、心不全。ペット特約あり。猫、茶トラ雄(去勢済み)十歳、ココロ。最後の言葉は、『ココロ、ありがとう』」
パジャマ姿でベッドの上に横たわる、白髪を短く刈り込んだ、小柄な女性が映っていた。右手がベッドの側に置かれた、クッションの置かれた腰掛に伸ばされていた。恐らく猫用にしつらえたものだろう。最後の瞬間、彼女は愛猫に触れようとしていたのだ。
私はその光景を見たことがあった。最後のものだけではない、全部だ。
モニターが新しい部屋を映し出した瞬間、自分の怒声がそれを止めていた。多分それは「やめろ!」と言ったのだと思うが、自信はなかった。悲鳴だったかもしれない。
私の声に、今は泣き止み、惚けたように床に座っていた長谷川が反応した。
「伊藤さん、――どうしたんですか?」
それには答えず、私は目を閉じて、自分を包み込む感情の津波に耐えていた。長谷川が黙って時間をくれたことがありがたかった。やがてそれは収まった。私はゆっくり目を開いた。
「――全部、僕が担当したケースなんだ。君と組む前に」
それが時間を使って、やっと声にできたことだった。
お読みいただき、ありがとうございました。
次回は明日の11時ごろの更新を予定しています。
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