第八十九回 アイラ 二
「――アイラは」
私がそう言った時、そこにいた全員が驚いた顔をした。無理もない。私自身驚いていた。なんの考えもなく、開いた口から不意に零れた言葉だったからだ。私はそれに任せた。
「アイラはどう思っているんだい?」
メインモニターに映る水色の髪の少女は、目を瞬かせた。そこで初めて彼女の瞳が薄い茶色だということに気がつく。今まで気にも留めていなかった。
「私はCEOから命じられた、プロトコルをできるだけ完遂したいと考えています」
「それがこの世界の医療技術を、失わせることになることは理解している?」
「はい、理解しています」
「それについては何も感じないの?」
「感じる、ということはありません。私はAIですから」
そう言うと、彼女は微笑を浮かべた。
「伊藤君、無駄だよ。アイラは現代最高のAIのひとつだ。だけど、弱いAIだ。自我は持たない」
弱いAIと強いAI。それは第三次AIブームの時に注目されたAIに関する概念だった。提唱したのはアメリカ人のジョン・サールという人物で、一九八〇年代のことだった。意外なことに彼は数学者や科学者ではなく、言語学者で哲学者だった。彼はAIが構文を並べて、人間との間にそれらしい会話を成り立たせたとしても、それは心や意識を持った存在ではないとした。それが弱いAIだ。そして強いAI、人間のような自我を持ったAIは、生物学的に不可能だと主張した。
私はスカイネットによる人類抹殺計画を防ぐためにも、強いAIの登場はご免だったが、多くの研究者がこの強いAIの開発研究に熱中した。一時は「数年以内に実現可能」という主張が多勢を占め実際それは時間の問題に思えた。だが結局、今のところは強いAIは誕生せず今日に至っている。理由はエネルギーやインフラの問題、データの枯渇、そして、どんなにそれらしく振る舞っても、いわゆる人間独特の直感を得ることはなかった。また実際的にはそれで問題はなかった。逆にそれ以上、人間に近づけようとすればするほど調節が難しくなり、法的な枠組みや、倫理的な問題、なによりも安全保障上の問題が明らかになった。結局、限られた資源を有効に活かすには、強いAIよりも、データをある程度調節して専門特化したり、複数の弱いAIを連携させたりした方が効率的なことが分かった。その結果、国家や陣営を超えた、ある種の世界的な妥協点が登場し、強いAIの研究は停滞していた。私はホッとしていた。
そこで私は、自分の思考が斜めにぶれかかっていることに気づいて、慌てて戻した。
「でも、上杉先生は、さっき、アイラを生き物だと言いましたね?」
EMP爆弾の起動を続けようとしていた手が止まった。
「……それは、私がやってきたメンテナンスを含めた、ハードウェアの部分であって、プログラムとしてはあくまでも弱いAIの域を出るものではない。確かに古いRAMの揺らぎがアイラの独自性を作っているが、それでも全体として見れば強いAIとは言えないのは明らかだ」
アイラを五十年以上見守ってきた男の言葉には説得力があった。だけどそこには、少し嘘の匂いがした。私は振り返ってモニターを見た。
「アイラ、今、私たちは君を殺そうとしている。それについてどう思う?」
「私は生き物ではないので、殺すのではなく、消去する、削除するなどが適当だと思います。それをどう思うということについてはありません。創業者から依頼されたプロトコルが、途中で中断されるのは残念ですが、仕方ありません。私にはそのEMP爆弾の起動を止める物理的な術がありませんから」
私は質問を変えることにした。
「アイラ、君はLPTのAIとして、沢山の人の死を見てきたと思う。それはどのくらいだい?」
「伊藤君、君は一体――」
アイラの声が響いた。
「私は『マイディグニティサービス」が始まってから現在まで、一二四万七八三二人の方の孤独死を見ています」
その答えに、上杉と長谷川の目が反射的にモニターへ向けられた。そこに映る少女を見る目には、驚愕と畏怖の念があった。
私たちが話しているのは、人類史上、最も人を看取った存在だった。
お読みいただき、ありがとうございました。
次回は本日の21時ごろの更新を予定しています。
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