第八十五話 堤 二
その時、堤が再び私に目を向けた。
「伊藤さん。あなたはなぜこんなことをしているのですか?」
彼が何を言っているのかを理解するのに少し時間が必要だった。代わりに口を開いたのはアイラだった。
「伊藤さん? 申し訳ありません。創業者は、どなたのことをおっしゃっているのでしょうか?」
「ああ、混乱させてしまってすまないね。彼は堤翔であり、伊藤眞彦君なんだ」
「通常、一人の人物が二人のIDを持つことは許されていません」
「うん、そうだね。でも創業者が言っているんだ。彼は堤翔と伊藤眞彦の二つのIDを持っている。なにしろ二人は似ていますからね」
そう言って、彼は私を見て笑った。冗談の匂いはなかった。例えあったとしても、私は笑えなかっただろう。
「――承知しました。堤翔様と伊藤眞彦様は同じIDを有するものとします」
「ありがとう」
堤はアイラの声に嬉しそうに応じると、また私を見た。
「さて、お話の続きです。伊藤さん、あなたはなぜこんなことをしているんですか?」
時間はそれなりにあったはずだが、この劇的な状況に比べて、私の答えは月並みなものだった。
「……それは当たり前でしょう。あなたは自分の立場を利用して、先進的な医療技術、永遠の命と呼ばれるものに繋がる技術を独占しようとしている。それこそ陰謀論と言われるようなことを実行しているじゃないですか」
「それは私の質問に対する答えではないですね。ですが、私がそうした技術を独占しようとしていると、本当にそう思うのですか?」
「そうです。クローンや遺伝子操作、記憶の保存や移管などといった技術です」
堤は小さな声で笑い出した。それはいつしか哄笑となった。堤は感情を露わに、心底おかしくてたまらない様子で笑っていた。私たち三人は呆気にとられてただその様子を眺めていた。アイラは微笑を浮かべて見ていた。
ようやく笑いを収めた堤が、唖然とする私たちを見回すと口を開いた。
「いや失礼。それはとんでもない誤解です。それこそ田中氏の陰謀論の中でも一番酷い部分です」
私には堤が何を言っているのか分からなかった。笑い声を含めてその声には、やっぱり何もなかった。
「全く逆です。だって私は、永遠の命を、この世から完全に消し去ろうとしているんですから」
再び私たちは声を失った。そのなかで最初に口を開いたのは、意外にも私だった。
「なぜですか?」
「それは自然の摂理に反しているからです」
堤がキッパリと答えた。そこにも嘘を含む、あらゆる匂いも色もなかった。ただ、何かを強く信じる者だけが持つ、狂ったほど真っ直ぐで、聞く者を怯ませる響きだけがあった。
「生あるものは必ず滅する。それは人に限らず自然の摂理です。ところが人だけは、その摂理を捻じ曲げようとしている。遺伝子治療や再生医療・細胞治療、ナノ医療などをはじめとした高度先端医療。さらには生命倫理を完全に無視したクローン技術。その一方で、お金のない人間は最低限の医療にすら享受できない」
彼は一気にそう言うと、長谷川を見た。気丈な彼女が、その勢いにびくっとした。
「長谷川さん、あなたはご子息を難病で亡くされましたね」
彼女の顔の色が、紙のように白くなる。
「小児脳幹部グリオーマ。五歳でしたか」
「やめろ!」
私は自分の口から、そんな大きな声が出せることに驚いていた。そして自分がそんなに怒れることにも驚いていた。もし私がダリル・レヴォックだったら、堤の頭は爆発していただろう。無論、私はダリル・レヴォックではないので、堤は私を一瞥してから話を続けた。
「失礼。傷つけるつもりはありませんでした。あなたの境遇には本当に同情しています」
「……あなたに、同情してもらういわれも、私の気持ちが分かるわけもありません」
彼女の答えを聞きながら、私は驚いていた。堤のその声に、初めてはっきりとした匂いがしたからだ。そして、それは長谷川と同じ匂いだった。
「それに、私の息子になんの関係があるっていうんですか?!」
「生きることに意味はない」
堤はそう言った。その声にはまた匂いはなかった。何の匂いも色もなかった。
全員がその返事に絶句するなか、長谷川が何か呟いた。しかし、それは同時に発せられた、アイラの声に掻き消された。
「『盾』が完全停止しました。最終進捗度は二〇.十三パーセントです。お疲れ様でした」
その時私は、ようやくずっと感じていた違和感の正体に気がついた。
お読みいただき、ありがとうございました。
次回は明日の11時ごろの更新を予定しています。
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